最期まで機会を与えられる主

「サウルは、変装して身なりを変え、ふたりの部下を連れて、夜、その女のところに行き、そして言った。『霊媒によって、私のために占い、私の名ざす人を呼び出してもらいたい。』」(Ⅰサムエル 28:8)

ペリシテ人の軍隊がやってきた時、サウルは恐れ、主に伺おうとしたが、答えてもらえなかった。
それで、かつて自分の手によって霊媒や口寄せを追い出していたにもかかわらず、霊媒に頼って、死んだサムエルを呼び出そうとした。
それほど、サムエルを頼っていたのである。
霊媒女の前にサムエルが現れ、サウルの死を告げた。
この後、サウルは、ペリシテとの戦いに敗れ、自害して死んだのだった。
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いつも主の御名を用いていながらも、サウルの歩みは主に見捨てられた平安のないものであり、最期も悲惨なものとなった。
一方、ダビデは、敵陣に身を寄せながらも、祝福を受け、守られていた。
同じ神の民であり、神の名を呼びながら、この差はどこから来たのか。
ダビデは自分の前に主をおき、主に従う心を持っていた。
一方、サウルは選びに慢心し、神の前に自分をおき、従う前に自分の意志があり、自分の意志ならば、罪も罪とせず歩んだ。
これが決定的な差を生み出した。
霊媒という主に受け入れられない方法を用いていたにもかかわらず、サムエルがサウルの求めに応じて現れたのは、主の許しがあってのことである。
神の憐れみである。
神は、悲惨な死を前に、サウルが悔い改めることを望んでおられただろう。
サウルは、最期まで悔い改めを拒み、王としては立派ではあったが、不本意な死を遂げることとなった。
悔い改めるべき罪が心に浮かんだなら、他がどうであっても、悔い改める機会を逃さず、今、悔い改めよう。

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