認めることの重要性

「サウルは言った。『主の祝福があなたがたにあるように。あなたがたが私のことを思ってくれたからだ。」(Ⅰサムエル 23:21)

サウルの関心は、いつまでも自分のことだけであった。
サウルに媚を売り、ダビデの居場所を知らせに来たジフ人たちに、サウルが言ったことばである。
この前の章では、家来たちに「だれも私のことを思って心を痛めない。」と言って、祭司たちの虐殺を引き起こしている。
ダビデを殺すための会話の中で言われた「主の祝福」、サウルの信仰はどうなっているのだろうか、と思わされるところである。
サウルの信仰は自分自身であった。
神の上に常に自分がいた。
神の栄光のために仕える信仰ではなく、自分の栄光のために神を利用する信仰である。
サウルの頭の中では、私のことを思ってくれたら祝福を、そうでなかったら呪いを、自分より目立つ者やその者に加担する者には死を、という考えが成り立っている。
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主イエスは、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と言われた。
「自分を捨てる」とは、自分の感情を置いて、みことばに明け渡すことである。
サウルはダビデの活躍がねたましかった。
自分の中でねたみが起こった時、その感情を否定せずに認め、主の前に持っていくことが大事である。
「私はダビデをねたんでいます。主よ、この感情を聖めて下さい。私もあなたのために活躍したいです。ダビデに劣らないくらいに私をも祝福してください。」サウルが、主の前にへりくだり、こう祈れたら、事態は変わっていたかもしれないのである。
主の御前にへりくだろう!

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