主への侮り

「しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。」(ヨシュア 7:1)

主の約束の地カナンに行くために、ヨルダン川を渡ったイスラエルの民は、主の言われた通り、エリコの町のまわりを1度、6日間回り、7日目には7度回った。
7度目に祭司たちが角笛を吹いた時、ヨシュアは「ときの声を上げよ」との合図とともに、注意を与えた。「ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである」と。
厳粛な時に語られたひとつの注意事項だった。
にもかかわらず、アカンはこの注意事項を守らず、自分の欲のために、「シヌアルの美しい外套一枚と、銀二百シェケルと、目方五十シェケルの金の延べ棒一本」を取り、天幕の中の地とその下に隠した。
この後、イスラエルにわざわいが起こり、ヨシュアが問いただすと、アカンは、罪を告白した。
そして、アカンは、聖絶のものをかすめたために、聖絶されたのである。
罪を悔い改めたかのような告白をしたのに、と思うかもしれないが、アカンは主が与えた注意があったにもかかわらず、欲に負けてしまった。
隠していたことから、悪いことという自覚はあったことが伺える。
また、ヨシュアが聞いた時に、金銀の目方をはっきりと即答していることから、金銀の目方を量って、楽しんでいた様子が伺える。
カナン入植の第一歩となる厳粛な時に、アカンは主を侮ったのであった。
———————–
主は、神の民が周囲への主への侮りを起こさせるような罪を忌み嫌われる。
神の性質が歪むからである。神は義である。
神の義が歪んでしまうような侮りを起こす罪は、「これぐらい、愛の神は赦してくださる」とはならないのである。
罪に気づいた時は、開き直らず隠さず、認めて悔い改めとともに、主の前に差し出そう。
主は憐み深いお方であるとともに、義なるお方でもある。

コメント