赦しは神のわざ

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。…それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」(ヘブル 12:2,3)

虐待ともいえる不適切な養育を受けて育ったとある女性がキリストに出会って救いを得た。
喜びに満ちて、主に従い、仕えた。
育った過程で負った痛み、弱さがあったからこそ、神への飢え渇きが強く、主はその姉妹の求めに応じて、ご自身の愛を表してくださり、彼女の祈りはよくきかれた。
日々が過ぎ、つらかった経験を乗り越えて、主がどんなによくしてくださったかを証する姉妹に、「虐待した人を許さないといけない」「かわいそうに、もう忘れなさい」という人たちがいた。
虐待というあまり聞きたくない言葉を聞きたくない人たちであった。
彼女にとっては、自分の罪も含めてすでに主に何度も扱われて、赦し、乗り越えてきたことであった。
ところが、その言葉を聞くと、「自分は許していないのだろうか。許します、許しますと祈り、乗り越えてきても、いったいいつまでつきまとうのだろうか。まだ、足りないというのだろうか。自分は、経験した事実を言うことすら、赦されないのか。」と思え、次第に、「主を信じても、あわれまれる自分は、なんとみじめな存在なんだろうか。」という感情が出てくるのであった。
姉妹は、とうとう証も祈りもできなくなってしまった。
彼女は、苦しい中で、主に呼ばわり、今のありのままの気持ちを主に伝えた。
その中で、主は言われた。
「赦しは人間のわざではなく、十字架の力によるものだ。」と。
イエスの十字架の力…。姉妹は悟った。
人の言葉がどのように言おうと、どんな時も、十字架にかかってくださったイエスから目を離さないことだ!
イエスの十字架の贖いに思いをはせた時、姉妹に喜びが戻ってきたのであった。
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主から目を離しやすい私たち。
イエスを愛し、隣人を愛する愛も赦しも自ら出てくるものではない。
自ら作り出したものならば、いずれはがれていくことになる。
また、許しに続く和解とは、相手の時も必要なものであり、その時は主の御手にある。
そのことを認め、今日も主を見上げ、贖いのみわざにより頼みつつ、ゆだねて、主の王道を歩んでいこう。
主は王の王、主の主である!!

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