主を求めよ、お会いできる間に

「人の子よ。ツロの君主に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真中で神の座に着いている。』と言った。あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。」(エゼキエル28:2)

ツロの都市は、港町であり、貿易が盛んなため、繁栄していた。
豊かだったが、心は貧しかった。
金儲けの知恵があり、多くの富を得ていたが、それゆえに心は高ぶり、栄光は自分にあった。
すべて、自分の力でなし得たことだと思っていたからであった。
そのため、君主は弱者を顧みることなく、自ら神のようにふるまって、国は暴虐に満ちていた。
そのようなツロに、神は、最も横暴で神を知らない他国人を使って、さばきの御手を伸ばされた。
それは、神を思い起こし、罪から離れる機会を与えようとの、神の愛から出たものであり、そうするしかない末期的な状態であったのである。
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神は愛である。愛であるゆえに、正義である。
罪は人を傷つけ、自分をも傷つける。
かつて、サタンは「神のようになろう。」と自らを神のように置いた高慢ゆえに、落ちた。
被造物に過ぎない私たち、空気も土も水も、世界に存在するものすべて、細胞の一つ一つも、神が造られなければ、存在すらしていなかった。
私たちが、知恵をしぼって何かを作り出したとしても、全知全能の神の足元にも及ばないのである。
「私は罪人であり、イエスの十字架の赦しが必要な者だ」と謙遜に認めることが、神に近づく唯一の道である。
神は、その愛ゆえに、私達が神のもとにやってくることを、猶予をもって待ってくださっている。
「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」(イザヤ 55:6)

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