『敵に向き合う知恵-イエスに立ち向かう律法学者たち-』

聖書個所:ルカの福音書20章1~47節(新改訳聖書)
『敵に向き合う知恵-イエスに立ち向かう律法学者たち-』

福音を語るイエス

 ろばの子に乗ってエルサレムに入場されたイエスは、毎日昼は宮で教え、福音を宣べ伝えておられ、夜はエルサレムから東に「安息日の道のりほどの距離」(使徒 1:12、おおよそ1Kmにあるオリーブ山に戻って過ごされていた(21:37)。イエスが語られた福音とは何か。イエスが語られた福音=よい知らせは、神の国が近づいた、神は正しくさばかれる、悔い改めて神に立ち返れ、信仰をもって神に従いなさい、そうすれば救われるとイエスは民に語っておられた。その現れが、いやしであり、奇蹟であり、イエスが示す神の愛によって弱り果てていた人々は神を愛する力をいただいた。ローマの圧政、パリサイ人や律法学者たちの律法的な教えは、民を潤すことはなく、飢え渇いていた民たちはみな朝早く起きて、イエスの教えを聞こうと宮にいるイエスのもとに集まってきた(21:38)

イエスに立ち向かう指導者階級

 教えを聞いた民の心がイエスに向いていくので、宮での立場も危うくなってきた祭司長、律法学者、長老たちは、イエスに立ち向かっていく。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」(20:2)何とおそまつな質問だろうか。イエスの並ならぬ権威を認めているのである。「誰の許しを得てやっているのですか」でも「なぜこのようなことをしているのですか」でもない。そのような質問のほうがまともである。祭司長、律法学者、長老たちは、神の権威は感じていたのである(神だからあたりまえであるが)。イエスが「神の権威」と答えれば、神に対する冒涜罪で死罪にできたのである。それを言わせたいがための質問である。「もう我慢がならぬ」という感じで徒党を組んで立ち向かおうとやってきたのである。

向き合うイエス

 そのような質問にもかかわらず、主イエスは無視して相手にしないわけでもなく、がつんと言い負かすわけでもなく、立ち向かってきた相手に、知恵のある言葉で答えられている。考える余地を与え、拍子抜けさせるように導こうとされているかのように言っている。「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」(20:3-4)質問をかわして話をはぐらかしているわけではない。バプテスマのヨハネは、イエスを証言してこの世を去っている(ヨハネ 3:26では、バプテスマのヨハネの弟子たちが「あなたが証言なさったあの方」とヨハネに言っていて、ヨハネは「私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。」(ヨハネ 3:28)「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ 3:30)と言っている)。天からと答えたなら、イエスはそれ以上の人物だと認めないと矛盾が生じる。人からと答えると、民衆を敵に回す。民の上に立つことを好む彼らにそれはできない。祭司長らは「どこからか知りません。」(20:7)と答えている。民衆を教える立場の者たちであるのにかかわらず「知りません。」とおそまつな答えとなったのであった。

ぶどう園と農夫のたとえ

 イエスはこの後、ぶどう園と農夫のたとえを話された。またもや主人が何か(今回はぶどう園)を預け旅に出るという話である。旅先から収穫の分け前をもらうために主人が順に3人のしもべを送るが、農夫たちは袋叩きにしてひどいめにあわせ、傷を負わせて送り返す。どうしたものかと思案した主人は、愛するあととり息子を送れば、敬意を払ってくれるに違いないと遣わしたが(3度(3は神の完全数)送ったしもべにひどい仕打ちをされても、信じる愛がそこにある)、農夫たちは議論した結果、あととりを殺してしまえば財産はこっちのものだと殺してしまった。どうしてそのような発想になるのか、主人への愛もなければ、感謝も敬意もない。十分な収穫があっただろうに(主人が分け前を要求できる収穫があった)、もっともっとと元々自分の物でもないものにもかかわらず、欲に支配された結果である。息子を殺された主人は戻って来て、農夫たちを打ち滅ぼし、ぶどう園はほかの人たちに与えた、という話である。聞いていた民衆は「そんなことがあってはなりません。」(20:16)と言ったが、同じ話を聞いていた律法学者、祭司長たちは、「イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕えようとした」(20:19)とある。悔い改めの機会は、いつも目の前に置かれていた。しかし、いつも神を説いていた彼らは神の権威を見ても、神を認めず、つまり、神の存在を信じていなかったのである。

エスカレートしていく計画

 イエスと議論しても勝てず、捕えようとしても、民衆を恐れてできない。機会をねらっていた律法学者、祭司長たちは、義人を装った間者を送り、イエスのことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そう、と計った(20:20)。しかし、イエスはそのたくらみを見抜いておられ(20:23)、またもや知恵で返され、間者は、民衆の前でイエスのことばじりをつかむことができず、イエスの答えに驚嘆して黙ってしまうしかなかった(20:26)

 間者が黙ってしまったためか、サドカイ人が復活についての質問を投げかけ、イエスはきっちり教えられている。その答えは、律法学者に「先生。りっぱなお答えです。」(20:39)と言わしめるほどであった(「先生」と言いながらも上目線であるが)。律法学者たちは「もうそれ以上何も質問する勇気がなくなった」(20:40)とある。

 そこで、今度はイエスが、質問をされた。「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか。ダビデ自身が詩篇の中でこう言っているのに・・・」(20:41-44)ご自身のことを言われているのだが、答えを求めているのではない。人知を超えている事柄ゆえに、神の不思議に目を向けさせ、考える余地を与えられている。

 民衆がみな耳を傾けているときに、イエスは弟子たちに律法学者たちに気をつけるよう、言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」(20:46-47)

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