『キリストの花嫁 1』雅歌 1:1-11

 最近、特に「キリストの花嫁」という言葉が盛んに使われているようだ。
が、キリストの花嫁というのは、なりたいと努力してなるものではない。
雅歌には、そのことがよく表されている。
雅歌を読み解くと、壮大な大河ロマンを見るような感動が湧き上る。
この雅歌を11回に分けて見ていく。
聖書は、多くの宝が埋まった不思議な書物である。

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聖書個所:雅歌 1:1-11(新改訳聖書)
『羊の群れの足跡-キリストの花嫁-』

信じる愛

 「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 2:7, 3:5, 8:4)雅歌に三度も繰り返されていることばである。イエスさまは、急がずあわてず、信仰が成熟し愛が育つまで、私たちを信じて待っていてくださるお方である。

 私たちは、「私はイエスさまを信じます。」と自分でイエスさまを信じたように信仰を表明するが、実は、イエスさまのほうが私たちを信じてくださっているのである。先にイエスさまのほうが、私たちを信じてくださっているから、救いを得たと言える。「イエスさまを信じます。」と言った後も、私たちはとかく、疑いや甘えなどから従わなかったりしてしまうような者である。しかし、そのようなときにもイエスさまは、私たちを信じて、とりなしをしてくださっているのである。「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル 7:25)

 「イエスさまが私たちを信じる? 逆ではないのか?」と奇妙に聞こえるかもしれないが、イエスさまは、罪人の私たちを信じてくださっているのである。信じていなければ、聖霊を託したとはいえ、この世の救いを当時の信者たちにゆだね、「地の果てまで宣べ伝えよ。」と告げて、天に行かれることはできない。
 このような話を聞いたことがある。復活後、昇天されたイエスさまに、ある天使が聞いた。「イエスさま、あのような頼りにならない(眠りこけ、主を否み、逃げ去った)弟子たちに、後を任せて来られて、大丈夫ですか? 信者がだれもいなくなったら、この世はどうなるのでしょう? イエスさまがかかられた十字架も無意味になってしまうじゃないですか? 心配じゃないですか?」と。動じずに主は答えられた。「わたしは、わたしの友を信じている。私が選び、愛した者たちだから。」「愛は・・・すべてを信じ」(Ⅰコリント 13:7)とあるが、主は、ご自身のゆるがない愛ゆえに、私たちを信じておられるのである。

 ある人が、試練の中、愛も冷え、祈れなくなっている状態でいるときに、あることばが心に響いた。それまでは、祈れなくなっていることを責められているような罪責感が心のどこかにあった。「・・・今は祈れないほど心弱っているが、彼女は、必ず、再び祈る者となる人です。」「わたしはあなたが立ち直るまで、待っているよ。」心に直接語られたことは、ことばに置き換えたら陳腐になってしまうが、主はご自身のその愛とともに、語ってくださるお方である。私たちが、立ち上がる力をいただくのは、主の愛によってである。主の期待、愛に答えたいと思うからである。このようなどうしようもない者をも、祈ることを期待して待ってくださることを思うなら、その期待を裏切ることなどできるだろうか。ここで言っている期待は、愛の期待である。エゴ的な期待はまた別である。

 「愛は・・・すべてを期待し」(Ⅰコリント 13:7)ともあるが、期待とは、時期を待つと書くが、信じて待っていてくれると思うから、つまずいても、がんばって立ち直れるのである。「あいつは、だめだと思うよ。」という心と、「あの人は、いつか必ずできる人だと私は信じるよ。」という心のどちらに愛があるかは、聖書を知らなくてもすぐわかる。人は愛に敏感である。むしろ、宗教的になっていくほどに、愛については、鈍くなるようだ。

花嫁の王なる花婿への求め

 「ソロモンの雅歌」(雅歌 1:1)雅歌は、ソロモンが、愛する妻に、結婚を祝して書いたものと考えられている。花婿と花嫁のやりとりの形で婚約期間、結婚、夫婦となってと順に構成されている。ソロモンの花嫁といえば、異教徒である。そのソロモンのラブレターが、なぜ聖書に収められているのか? ある著名なクリスチャンの方が、信仰の初め頃は、この雅歌はエロティックで敬遠していたが、信仰が増すにつれて、意味深い宝が隠されていることがわかってきた、と言っておられた。「右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌 2:6)「あなたの二つの乳房は、ゆりの花の間で・・・」(雅歌 4:5)というような描写があるために敬遠しがちだったという。出だしからして、「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。」(雅歌 1:2)とおよそ聖なる書物とも思えぬことばが書かれている。単なる人間の書いたラブレターとして読むなら、他人のラブレターなのだから、こんなにつまらないものはない。しかし、これは、霊感され書かれた書物である。イエスさまの愛に飢え渇いて無垢な心で読むと、主が、ご自身の花嫁をどのように愛されているかが見えてくるのである。雅歌は、ご自分の花嫁として召された信者をどのように愛しておられるかを綴った主からのラブレターなのである。

 「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。」(雅歌 1:2)花嫁となる女性は、花婿の愛を大胆に求めている。「あの方」とはもちろんキリスト、これを言っている花嫁となる女性は、キリストの花嫁なる教会、つまり信者である。「口づけ」 相互の楽しみ、お互いの喜び、対等な愛の交換を表わすこの語、原語は複数形である。東方のある国では、ある人が赦しを求めているときの口づけは、悔い改めを意味するそうである。私たちは、まず、キリストに罪の赦しをいただかなければ、よい関係は結べない。へりくだって、赦しの口づけをたくさんいただくことが、第一に必要なことである。これは、飢え乾き、つまりキリストへの愛への求めから始まるのである。

 「あなたの愛はぶどう酒よりも快く、」(雅歌 1:2)キリストの愛は、ぶどう酒、つまりキリストの血潮、つまり十字架の贖いよりも快いということである。といっても十字架の贖いを軽んじているわけではない。贖いがあってこその愛である。ぶどう酒はすでに経験済みであることを前提にしている。花嫁は、ぶどう酒に甘んじてなどいない。十字架の贖いの愛を通り、さらに深い愛の関係に進むのである。「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。」(へブル 6:1,2)

 「あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。それで、おとめらはあなたを愛しています。」(雅歌 1:3)キリストのかおりは、最もかぐわしく、魅力的であり、楽しい愛にあふれたものである。香油にたとえられているように、辺り一面に立ち込めるほど影響力のあるかおりである。主の祭壇、香壇にささげられた香油は、詳しくは主題からの学び「幕屋(香壇と香)」にまとめてあるが、次の五つの原料からなっていた。「あなたは香料、すなわち、ナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香、これらの香料と純粋な乳香を取れ。これはおのおの同じ量でなければならない。これをもって香を、調合法にしたがって(塩でこすること)、香ばしい聖なる純粋な香油を作る。」(出エジプト 30:34,35)ナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香、純粋な乳香、塩である。ここで、花嫁は、主の名をこの香油に例えている。ナタフ香は、没薬の木に深い傷をつけることによって抽出する没薬の樹液の一種であるが、神であられるのに、罪となられ、十字架の死にまで従われた主イエスの柔和、へりくだりを象徴していた。シェヘレテ香は、ソデガイという貝殻の薄蓋から採集され、燃えると油を出して、芳香を放つ香であり、平和、平安の象徴であった。ヘルベナ香は、せり科の木の根の方の割に太い部分に傷をつけて浸出する乳状の液を集めたものであり、支え、土台としてのイエスの象徴であった。純粋な乳香は、乳香樹の幹を傷つけて取る乳白色の樹脂であり、純粋な信仰の象徴であった。塩は、腐敗を防止するための、純化し、保存し、きよめ、味をつけるという象徴であった。これらのかおりに惹かれて、おとめらは、イエスを愛するのである。それらのかおりに惹きつけられて、おとめらが集まってくるのである。

 「私を引き寄せてください。」(雅歌 1:4)たくさんのおとめらが、愛を携えてくる中で、花婿に引き寄せてもらわなければ、とても彼について走ることができないことに、気がつく花嫁。謙遜さゆえに、どの娘たちよりも愛され、大勢のおとめたちの中から王に選ばれたエステルのように、(「そこの女は、王の気に入り、指名されるのでなければ、二度と王のところには行けなかった。」(エステル 2:14))私たちも、引き寄せてもらわなければ、花婿なるイエスのもとには行けないのである。「私たちはあなたのあとから急いでまいります。」(雅歌 1:4)そこに行くのは、へりくだりに尽きる。引き寄せられたからといって、待ってましたとばかりに、花婿の前を進むのではなく、花婿の後から、のんびりとではなく、急いでついていくのである。

 「王は私を奥の間に連れて行かれました。私たちはあなたによって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、真心からあなたを愛しています。」(雅歌 1:4)ここで、花婿は、王と呼ばれている。この奥の間は、主と二人きりになるための祈りの部屋であるかもしれないし、ひょっとして孤独の試練の部屋であるかもしれない。いずれにしても、深い祈りへと導かれていく。そうして、花嫁は、その奥の間で、花婿による楽しみと喜びを知るのである。十字架の購いを入口とし、試練を通って、花嫁は花婿のはかりしれない愛を知るのである。今、花嫁は、愛をぶどう酒にまさってほめたたえるように成長し、真心をこめて、花婿を愛しているのである。この後、heb hebnu(段落記号、段落を表わす)が入っている。花婿なる王と奥の間で過ごし、時が経ったということだろうか。

 「エルサレムの娘たち。私はケダルの天幕のように、ソロモンの幕のように、黒いけれども美しい。」(雅歌 1:5)他のエルサレムに住む娘たち(まだ花婿をよく知らない幼く若い者たち)に、花嫁は言う。「ケダルの天幕のように」ケダルはイシュマエルの次男である。ケダルはイシュマエルの子孫を指し、荒野に住み、その天幕は黒っぽい山羊の皮でできていた。焼けつく試練の荒野を通り、たくましくなり、日にも焼け、黒くなってしまった花嫁は、エルサレムの都会で上品に暮らしていた娘たちよりも黒くなってしまったことであるが、きらびやかなソロモンの幕のように、栄光の美しさを放っているのである。

 花嫁は花婿に、荒野で黒くなってしまったことを恥じらい、懇願する。「私をご覧にならないでください。私は日に焼けて、黒いのです。私の母の子らが私に向かっていきりたち、私をぶどう畑の見張りに立てたのです。しかし、私は自分のぶどう畑は見張りませんでした。」(雅歌 1:6)「母」とは出発点、分岐点の意味もあり、聖霊のことであり、子らというのは聖霊によって生まれ、いのちを与えられた教会の信者たちを表わしている。「いきりたち」とは、「怒りに燃える、憤る、熱くなる、嫉妬する、激怒する、かっとなる、燃える、いらだつ・・・」の意味である。王から花嫁として選ばれ、奥の間から出てきた花嫁を待っていたのは、兄弟姉妹たちからの敵意であった。兄弟姉妹たちは、見せかけではない花嫁の美しさを見ていきりたち、ぶどう畑の見張りに立てた。兄弟たちはぶどう畑の中、見張りは外、その収穫のための労働、収穫の恵みにもあずかれずに、「おまえはそこで見張っておれ。」といったような状態である。そこに境界線を引いたのである。遠く追放なら、おいしそうなぶどうも楽しそうに過ごす兄弟姉妹たちも見えないが、ぶどう畑から離れてもらっても困るのである。「あなたの姉妹はどこにいったのか?」と父や母に聞かれかねないからである。ひとり多くのぶどう畑(原語は複数形)の見張りに立てられた花嫁、心痛からか、自分のぶどう畑(原語は単数形)を見張ることができなくなっていった。

花嫁の羊飼いなる花婿への求めと応答

 心痛で力尽きた花嫁は、花婿に懇願する。「私の愛している人。どうか教えてください。どこで羊を飼い、昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。あなたの仲間の群れのかたわらで、私はなぜ、顔おおいをつけた女のようにしていなければならないのでしょう。」(雅歌 1:7)もはや花嫁は、花婿に向かって、大胆に「私の愛している人」と呼べるほどに親しくなっている。にもかかわらず、兄弟姉妹たちに境界線を設けられ、区別された花嫁は、どこで羊を養えばいいのか困惑している。多くの花婿の仲間の群れがあるにもかかわらず、なぜ、自分はその群れのところに加われないのか、そこに安息があったのに、なぜ、自分は締め出され、食事の牧草地(群れのかたわら)に行くためには、ひっそりと顔おおいをつけた女のように忍びで行かなくてはならないのだろうか?

 それに対する花婿の答えは、こうであった。「女のなかで最も美しい人よ。」(雅歌 1:8)と敬意を払って、花婿は答える。「あなたがこれを知らないのなら、羊の群れの足跡について行き、羊飼いの住まいのかたわらで、あなたの子やぎを飼いなさい。」(雅歌 1:8)「あなたがこれを知らないのなら、」愚かな女たちがいうようなことをいうのだね。あなたは、どこで羊を飼えばよいかを知っていると思ったのだが、知らないのであったら、こうこうこうしなさい、とでも言うように、主(花婿)は答えられた。どうしなさいとおっしゃったかというと、この牧場で飼いなさいと、王の花嫁にふさわしい兄弟たちもうらやむような特上のゴージャスな牧場を与えられたわけではなく、「羊の群れの足跡について行き、羊飼いの住まいのかたわらで、あなたの子やぎを飼いなさい。」とおっしゃられたのである。

 エリシャに、「ヨルダン川に行って七たびあなたの身を洗いなさい。」と言われたナアマン将軍のようである。特上の専用の牧場を与えてくださってもよいのに、群れの後ろどころか、孤独にも群れがいなくなった後に残された足跡をついて行きなさいと言われたのである。足跡もなかったなら、途方にくれ、行く方向もわからなくなり、困るのだが、幸い、足跡が残されていて、その足跡をついていきなさいと言われている。花嫁は不満だったが、これが最も祝福される道であり、他より寵愛されている花嫁の安息の場であり、花婿にふさわしい花嫁となるための道であったのである。群れに未練があり、忍びででも群れのかたわらに、無理やりにでも引っ付いている限り、花嫁はみじめであった。足跡からはずれないように、群れのかたわらではなく、羊飼いのかたわらで、子羊ではなく、子やぎを飼うのが、花婿(主)の現在の花嫁に対するみこころであった。子羊は、群れが面倒を見ているのである。羊飼いが、さらにまさる安息の牧場を用意してくださるまで、花嫁は、羊飼いのかたわらで、子やぎに対する働き、つまり、群れにいる羊ではない、それ以外の幼い人々に対する働きを続けなければならないのである。この後、heb hebnu(段落記号、段落を表わす)が入っている。花嫁が、みこころを知り、羊飼いのかたわらで、子やぎを飼って、時が経ったのだろう。

 愛のことばをもって、花婿は語る。「わが愛する者よ。私はあなたをパロの戦車の雌馬になぞらえよう。」(雅歌 1:9)いくらパロの戦車のという修飾語がついていようと、花婿から「あなたは雌馬のようだ」と言われて、うれしいと思う花嫁がいるだろうか。しかも「あなたの頬には飾り輪がつき、首には・・・」(雅歌 1:10)と続くのである。トレンディドラマの中なら、平手打ちがとびそうである。ここで、パロの戦車の雌馬になぞらえているのはどういった意味があるかを見ていく。パロの戦車の雌馬は、戦い、つまり信仰の戦い、それももっとも戦いにたけた強い信仰の馬のことである。

 ヨハネの黙示録には、幾種類かの馬が出てくる。勝利の白い馬(黙示録 6:2)、さばきの流血の赤い馬(黙示録 6:4)、さばきのききんの黒い馬(黙示録 6:5)、さばきの死の青ざめた馬(黙示録 6:8)、そして、黙示録 19章でキリストが乗ってこられるのは勝利の白い馬であり、キリストに従ってくる御使いたちも白い馬に乗ってくることが描かれている。いさましい信仰の馬である。花嫁であるから雌である。聖書には、馬の特性が描写されている箇所がある。「あなたが馬にを与えるのか。その首にたてがみをつけるのか。あなたは、これをいなごのように、とびはねさせることができるかそのいかめしいいななきは恐ろしい。馬は谷で前掻きをし力を喜び武器に立ち向かって出て行く。それは恐れをあざ笑ってひるまず剣の前から退かない矢筒はその上でうなり槍と投げ槍はきらめくそれはいきりたって、地を駆け回り角笛の音を聞いても信じない角笛が鳴るごとに、ヒヒーンといななき遠くから戦いをかぎつけ隊長の怒号と、ときの声を聞きつける。」(ヨブ 39:19-25)ここに16の馬の特性が描かれている。

  1.   「主を喜ぶことは、あなたがたの力である。」(ネヘミヤ 8:10,欄外)主が与えてくださった、主を喜び、そこから得る力である。
  2.  首につけられたたてがみ 「たてがみ」の原語の訳はいろいろあるが、ここでは、英欽定訳を見る。たてがみ(heb hebrama)が派生したheb hebraamは「雷」である。「その首にたてがみをつけるのか。」New King James Version Bible(英国欽定訳)では、“Have you clothed his neck with thunder?”「あなたが、その首にいかづちをつけたのか。」である。いいかえれば、特性2. は、その首にいかづちをつけ、である。ある人は、自然界において、雷は一致のデモンストレーションであると言っていた。なぜなら、稲妻が空を引き裂いた後、雲が再び一つになるときに、雷が鳴るからだという。よって、雷は、力の象徴であるが、一致の象徴ともいえる。
  3.  いなごのように、とびはねさせることができない 信仰の馬は、悪魔のおどしにも、とびあがるようなことはなく、簡単に怖がらない。
  4.  そのいかめしい(威厳のある)いななきは恐ろしい 馬の鼻から出る「ぶるぶるぶる」といういななきは、威厳を放ち、恐れをいだかせる。
  5.  谷で前掻きし 前掻きするは、「掘る、掘り出す、探り出す、探求する」の意味である。信仰の馬は、暗い谷底にいるときでも、神が埋めた宝を探求し、掘り出す。
  6.  力を喜び 信仰の馬は、力の源である主を喜ぶ。
  7.  武器に立ち向かって出て行く 信仰の馬は、向かって来た敵と戦うだけでなく、自分から、敵に立ち向かえる信仰がある。
  8.  恐れをあざ笑って 「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」(Ⅰヨハネ 4:18)信仰の馬には恐れがない。
  9.  ひるまず
  10.  剣の前から退かない 剣であるみことばの前にも、自我を明け渡し、逃げ出さない。
  11.  矢筒はその上でうなり 矢筒がうなるというのは、矢筒の中で、矢がぶつかりあって、がらがらなるということである。迅速で強くいさましい様子。
  12.  槍と投げ槍はきらめく 信仰の馬が放つ槍と投げ槍は、きらめきながら、敵に向かっていく。
  13.  それはいきりたって、地を駆け回り いさましく、主のために、福音をたずさえ、地を駆け回る信仰の馬。
  14.  角笛の音を聞いても信じない 例えば、危ないから、地を駆け回るのをやめなよ、というような不信仰の角笛の音(警告)を聞いても、主ご自身が止められない限り、信じず、主の戦いをやめたりしない。
  15.  角笛が鳴るごとに、ヒヒーンといななき 角笛が鳴るごとに、信仰のおたけびをあげる信仰の馬。
  16.  遠くから戦いをかぎつけ、隊長の怒号と、ときの声を聞きつける 遠くからでも、戦いを認識し、隊長である主の号令と、その時を見極める感覚を備え、洞察力にすぐれている。

 花婿は、このような特性を備えている馬になぞらえて、自分のぶどう畑の世話もできないほどに、無気力になっている花嫁を励ましているのである。

 「あなたの頬には飾り輪がつき、首には宝石をちりばめた首飾りがつけてあって、美しい。」(雅歌 1:10)「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ 5:39)というイエスさまのことばに見るうに、頬は、自分の意志の明け渡しに関係する。飾り輪で飾られた頬、自分の意志のままではなく、尊い主の意志で飾られた頬は、実に美しいであろう。また、反抗的で、堅く自分の意志を変えない者を聖書は、「うなじのこわい者」(箴言 29:1)と言っている。首も意志を表わしている。宝石の飾り、New King James Bible(英欽定訳)では、“chains of gold”「金の鎖」となっている。金は神性を表わす色。主につなげられている鎖である。主に明け渡された意志は、とても美しい。

 「私たちは銀をちりばめた金の飾り輪をあなたのために作ろう。」(雅歌 1:11)ここで、花婿が複数形になっていることに、注目したい。人間の花婿は複数ではないが(花嫁は複数のこともありえようが、花婿が複数のことは、まずない)、三位一体の神は複数形である。銀は、購いを象徴、金は神の神性を象徴する。飾り輪には、耳輪、鼻輪、腕輪、指輪、首飾り、腕飾り、足飾り等が聖書に出てくる。そのどこの飾りにしろ、神は、私たちを銀をちりばめた金の飾り輪で飾ってくださる。それも既製品ではなく、「あなたのために」と言われているように、花嫁個人のために、作ってくださるのである。

 結婚に向けての整えの婚約期間の愛の歌を見てきた。花嫁となるべく、整えの真っ只中にいる者のなすべきことが、8節で語られていた。「羊の群れの足跡について行き、羊飼いの住まいのかたわらで、あなたの子やぎを飼いなさい。」 自らの力で、他を蹴落とすのではない。ひっそりと、主御自身の整えの中で、花嫁は整えられていく…。

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