危険な教えから守られるために 11.赦し

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「ゆるしなさい」もまたキリスト教の教えであるが、これが律法的に使われていくと、主イエス・キリストの愛から離れた異質な教えとなってしまう。
聖書は、「被害を受けても、黙って耐えてゆるしなさい」とは言っていない。
「もしあなたの兄弟があなたに罪を犯したら、行って、あなたと彼の間だけで〈ひそかに〉、彼に彼のあやまちを示しなさい。もし彼があなたに聞けば、あなたはあなたの兄弟を取り戻したのである。しかし、もし彼が聞かなければ、ほかにひとりかふたりの人を伴いなさい。それはふたりまたは三人の証人の証言によってすべての言葉が確認される〈支持される〉ためである。もし彼が彼らに注意を向けないならば〈よく聞いて従うことを拒むならば〉、教会に告げなさい。そしてもし彼が教会にさえも聞くことを拒むならば、彼を異教徒また税金取り立て人として扱いなさい。」(マタイ 18:15-17〈詳訳〉)
「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(ヨハネ 20:23)

悔い改めのない状態を一方的に「ゆるしなさい」と押さえ込むことは、主イエスの教えではない。(ゆるさないのではなく、神に委ね手放すことは必要である。)
悔い改めのない者を赦すことは、神もなされないことである。
「もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。」(ルカ 17:3)
ただし、弱さを考慮しなければならないことも、聖書は言っている。
「弱い信者というべき人について言えば、彼を〔あなたがたの交わりの中に〕喜んで迎え入れなさい。彼の考えを批評する〈彼の良心のとがめに対して判決を下す〈論議をもって彼を悩ます〉ことにならないようにしなさい。」(ローマ 14:1〈詳訳〉)」
「ゆるす」こともまた、律法ではなくキリストの愛によってなされるべき事柄である。

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