『義と認められる祈り-自分を高くする者と低くする者-』

聖書個所:ルカの福音書18章1~14節(新改訳聖書)
『義と認められる祈り-自分を高くする者と低くする者-』

失望せずに祈ること

 17章では、「信仰を増してください」(17:5)と言う使徒たちに、主イエスが「なすべきことをへりくだってしなさい」と教えられていたが、こつこつと、なすべきことをなそうと心がけつつ、信仰生活を送っていると、うまくいかないことにぶつかり、ふとしたことで、「このままでいいのかなぁ」「祈りが足りなくてこうなっているんだろうか」「私にはもう無理だ、何かどこかで間違ったに違いない」などという思いがやってくることがある。時には人を通じて、やってくるかもしれない。その思いにとらわれていくと、失望→絶望→信仰をやめたくなる の迷路に入り込んでいく。

 そのように状況に左右され、失望しがちな私たちに、「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、」(18:1)主イエスは、たとえで話された。不正な裁判官のたとえである。神はいつまでもすみやかに夜昼神を呼び求めている信者の訴えを放っておかれることをせず、正しいさばきをしてくださるお方だから、あきらめずにひっきりなしに祈れ、とイエスは弟子たちに教えられている。やもめという立場が弱い者がたとえに出されている。やもめは、裁判官に、対人問題(「私の相手をさばいて…」(18:3))に関して訴えていた。

自己顕示欲

 対称的に、自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対して、次のような祈りについてのたとえが語られている。パリサイ人と取税人の祈りのたとえである。パリサイ人たちは、自分たちはよく祈っている者だと思っていただろう。「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』」(18:11,12)「ほかの人々のように」と他すべてを見下し、自分が選り抜きんでていると思っているのである。これは、御霊の実ではなく、サタン的性質である。パリサイ人については、「見えのために長い祈りをする」(マタイ 23:14)とも言われているが、ここでは、宮での心の中での祈りであり、人に見せるための長い祈りについてではなく、自分を義人だと自任し、他の人々を見下している心が取り上げられている。「私は罪を犯したことがない。長時間祈るし断食もよくする。献金も神の分として律法に規定されている十分の一をしっかり行っている。」「私は祈ってなすべきことをみなしているし、伝道のために迫害や苦しみにあっているが、何があっても信仰によって進み続けている。皆さん、私を見て私のように信仰を働かせて下さい。」一見、強い信仰の持ち主のように思うかもしれない。神の本質を知らず、「なすべきこと」をはき違えると、他人をも見下すようになりかねない。聖書でいうところの「罪」を犯さない人間はいない。信仰者であっても許された罪人である。祈りであっても、断食であっても、献金であっても、行いを誇ること自体が、慢心である。パリサイ人の祈りは、信仰的な自分を神にアピールしている。「神」の語を使っていても、心は自分でいっぱいだ。

 半面、取税人は、罪を犯してしまう自分の弱さを熟知していて、全知全能の神にあわれみを乞うしかなかった。「取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」自分では変われない、むせび泣くように胸をたたいて、言葉があふれたような心からの祈りであった。
 パリサイ人たちだけでなく、人間は誰しも、人に認められたい、特に指導者や神など、上位にある者に承認を得たいという欲求が存在する。貪欲になり度が過ぎていくと人を落としても自分を引き立たせるようになっていく。マズローの5段階欲求説では、下層から「生理的欲求」、「安全への欲求」、「愛・所属への欲求」、「承認への欲求」、「自己実現への欲求」と人間の持つ欲がピラミッド式に上へと描かれている。マズローは、晩年第6欲求として自己超越欲求(自分のためだけでなく、他の人々や他の者を豊かにしたいという欲求)を発表している。神のみこころは、自己欲求が満たされ、かつ、神の似姿の第6欲求にシフトしていくことである。

承認欲

 28節では、弟子たちの「承認欲」からの発言があるが、主イエスは、根気強く愛をもって教えられている。「すると、ペテロが言った。『ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。』」

 パリサイ人と弟子たちの自己承認欲には、違いがある。違いはいろいろ挙げられるが、神の言葉をも自分の考えで曲げ、 神を利用しても、自己一致(自己概念〈そうであるべき自分、自己イメージ〉と自己経験〈あるがままの自分〉が一致している状態で、気持ちに嘘がなく、純粋であること。幼子のように…)がないままに自己を達成しようとする自己顕示欲か、自分に痛い所や弱さと向き合って、自分に必要な欲が満たされていないことを神に持っていき、主と共に歩む自己成長の道を選んでいくかがその違いの一つである。

 この時点(十字架前)での弟子たちには、目の前のイエスに従い、みこころに応えて、イエスに承認されたいという思いがあった。そのような弟子たちに、主イエスは、自分は十字架にかかって世を去ることを根気強く伝え、目に見える形で人間の模範として世に来たイエスではなく、神への信仰に立つように、導いておられる。

 この時の弟子たちには、十字架にかかって一度死に渡されることが人知を超えた事柄ゆえに理解できなかったが、目に見えるイエスがいなくなった時、信仰が芽吹き、聖霊の承認を得て、主のみこころ(なすべきこと)をなすよう力強く変えられて行った。主が与えた信仰が実を結び、自分ではなくイエスを証するものと変えられていったのである。

 18章では、見せかけの信仰とは異なる信仰の本質を、不正な裁判官のたとえ(1-8)、パリサイ人と取税人のたとえ(9-14)、幼子たちのように神の国を受け入れる必要(15-17)、金持ちが神の国に入ることの難しさ(18-25)、救いについて(26-30)、十字架とよみがえりについて(31-34)、盲人の信仰によるいやし(35-43)という流れで信仰の本質が語られている。

落ち穂の会 落ち穂の会

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