『キリストの花嫁 9』雅歌 7:1-9

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 前回は、成長した花嫁が元気になり、周囲にも影響を与えていく様子を見た。花嫁の花婿への愛を見て、エルサレムの娘たちの心に、花婿への飢え渇きが起こり、信仰が覚醒された。神への恐れ、花嫁への恐れ、神への救いの求め、エルサレムの娘の心に起きたこの3つの思いを、二つの陣営の舞という表現で、明確化された花婿。今回は、その後の場面である。

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聖書個所:雅歌 7:1-9(新改訳聖書)
『良いぶどう酒-眠っている者たちの目覚め-』

花婿から花嫁への賛辞

 再び、花婿の花嫁への賛辞がある。「高貴な人の娘よ。サンダルの中のあなたの足はなんと美しいことよ」(雅歌 7:1)花嫁自身が知らないうちに、民の高貴な人の車に乗せられていた花嫁(雅歌 6:12)を、花婿は、「高貴な人の娘よ。」と敬意を払って呼んだ。花嫁の足は裸足ではなく、サンダルをはいたきれいな足であった。足のサンダルをぬぐことは、悲しみの表現の動作のひとつである(Ⅱサムエル 15:30, エゼキエル 24:17,23)。試練を通り抜け、苦しんでいた花嫁は、もう悲しんではいなかった。足は、きれいに洗われ、美しかった。過越しの夜、イエスさまが、弟子たちの足を洗われたことを思い出すが、洗われた足は、罪からの聖めを表わす。「水浴した者は全身きよい」とも言われている(ヨハネ 13:10)。苦しみをぬけ、高く引き上げられた花嫁は、罪からも聖められ、喜びに満ちていた。花嫁のはいているサンダル、「わたしがあなたのそばを通りかかってあなたを見ると、ちょうど、あなたの年ごろは恋をする時期になっていた。わたしは衣のすそをあなたの上に広げ、あなたの裸をおおい、わたしはあなたに誓って、あなたと契りを結んだ。――神である主の御告げ。――そして、あなたはわたしのものとなった。それでわたしはあなたを水で洗い、あなたの血を洗い落とし、あなたに油を塗った。わたしはまた、あや織りの着物をあなたに着せ、じゅごんの皮のはきものをはかせ、亜麻布をかぶらせ、絹の着物を着せた。それから、わたしは飾り物であなたを飾り、腕には腕輪をはめ、首には首飾りをかけ、鼻には鼻輪、両耳には耳輪をつけ、頭には輝かしい冠をかぶせた。こうして、あなたは金や銀で飾られ、あなたは亜麻布や絹やあや織り物を着て、上等の小麦粉や蜜や油を食べた。こうして、あなたは非常に美しくなり、栄えて、女王の位についた。その美しさのために、あなたの名は諸国の民の間に広まった。それは、わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物が完全であったからだ。」(エゼキエル 16:8-14)ここに、神がはかせてくださった花嫁のはきもののことが書かれている。じゅごんの皮のはきもの、主題からの学び「幕屋(幕)」に書かれているが、「じゅごんの皮は、あざらしやいるかのかたい皮であったと考えられている。その皮は、粗末ながらも耐久性と保護能力にすぐれていた。またその皮は、耐久性と保護能力にすぐれてはいるが、見栄えのしないものであった。栄光の神であられるのに、罪人である人となって来られたキリストのへりくだりを表す。」ということを見た。このへりくだりを、からだの一番低いところにあり、歩みを支配する足にまとっているのである。また、これは、エペソ人への手紙で、信者がつける武具、「平和の福音の備え」とも呼ばれているものであった。「足には平和の福音の備えをはきなさい。」(エペソ 6:15)へりくだりがないと、平和は作れない。罪から聖められ、喜びに満ち、へりくだりを一番低いところにつけた花嫁の美しさに、花婿は、感動しているのである。

 「あなたの丸みを帯びたももは、名人の手で作られた飾りのようだ。」(雅歌 7:1)heb hebshu「もも」は、「もも,腰,わき腹,基部」であり、歩みをコントロールする部分である。とげとげしていない丸みを帯びたもも、脚線美が語られる。そのももは、名人の手で作られた飾り(ヘブル原語では装飾品、宝石類)のようであると言われている。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ 2:10)陶器師であり、名人であるキリストは、花嫁のために、完璧な歩みを備えていてくださるのである。その歩みは、険しく見えたとしても、御手にすっぽりと守られ歩むもっともまろやかな最善の道であり、振り返ってみると、その歩みは、他の者たちの目からみても、みごとな装飾品、宝石を生み出すわざであったということが、明らかになっていく。

 「あなたのほぞは、混ぜ合わせたぶどう酒の尽きることのない丸い杯。」(雅歌 7:2)ほぞとは、heb hebshor「へそ、へその緒」であり、からだの中心にあり、母親から、栄養を取り入れたところである。肉や野菜が不足しているパレスチナにおいては、パンとぶどう酒は、食事の中心であった。普通、泥酔を避けるため、ぶどう酒1か2に対して、水3の割合で混ぜ合わせて、薄めて飲んだ。混ぜ合わせたぶどう酒とは、聖書に1度しか出てこないことば(heb hebmez)が使われていて、辞書には“mixed wine、meaning to mingle (water with wine) ”とある。そのように、飲みやすく調合されたぶどう酒である。人々を潤し養う、尽きることのないぶどう酒があふれている丸い杯に例えられたほぞとは、母なるご聖霊から尽きることのない混ぜ合わせたぶどう酒による栄養をいただき、満たされている花嫁の描写である。「あなたの腹は、ゆりの花で囲まれた小麦の山。」(雅歌 7:2)腹は、子供を宿すところである。ゆりの花は、へりくだり、小麦は、収穫を表わす。花嫁のへりくだりは、やがて多くの収穫を産む。多くの霊の子孫をみごもっている花嫁の描写。

 「あなたの二つの乳房は、ふたごのかもしか、二頭の子鹿。」(雅歌 7:3)4章5節でも、花嫁は、「あなたの二つの乳房は、ゆりの花の間で草を食べているふたごのかもしか、二頭の子鹿のようだ。」と言われていた。乳房、赤ん坊にミルクを飲ませる乳房は、愛、愛情の象徴であった。雄鹿は防御のときは、その角で戦うこともするが、通常は、平和を愛する平和な動物である。まして、子鹿は、戦いなどしかけない。花嫁のバランスがとれた二つの乳房は、片寄ることのない愛のバランス、平和の一致の愛を描写している。

 「あなたの首は、象牙のやぐらのようだ。」(雅歌 7:4)4章4節でも、「あなたの首は、兵器庫のために建てられたダビデのやぐらのようだ。」と言われていた。首、すなわちうなじは、意志を表わしていた。1章10節では、花嫁の首は、宝石の首飾り、“chains of gold”「金(神の神性)の鎖」で飾られた、つまり、主に明け渡された意志であった。4章4節では、兵器庫のために建てられたダビデ(heb hebdavid「ダビデ」=「愛されている者」)のやぐらに例えられていた。武器を保管するために建てられたやぐら。愛のために戦う備えができている意志であり、花嫁の成長が見られた。そして、この7章4節では、象牙のやぐらに例えられている。象は、自分の通り道にある障害物を、ほとんど何でも押しつぶしたり、壊したりする力を持ち、ふだんはおとなしいが、怒ると、その象牙で、攻撃するような力をも備えている。更に、成長した花嫁の首は、ここで、攻撃と防御の力を示す象牙に例えられている。

 「あなたの目は、バテ・ラビムの門のほとり、ヘシュボンの池。」(雅歌 7:4)1章15節で、花婿は、「あなたの目は鳩のようだ。」と、花嫁の素直で優しい目をたたえていた。4章1節で、「あなたの目は、顔おおいのうしろで鳩のようだ。」と成長した花嫁に対し、へりくだりが加えられている。そして、5章12節では、「その目は、乳で洗われ、池のほとりで休み、水の流れのほとりにいる鳩のようです。」(雅歌 5:12)と、真っ白で、汚れがなく、満たされて、ゆっくり落ち着いている、素直で、柔和な目、その目を見るだけで、落ち着いた平和な思いになる、そのような目が描写されていた。今、花嫁の目は、「バテ・ラビムの門のほとり、ヘシュボンの池。」と言われている。こう見ただけでは、私たちには、何のことか、さっぱりわからない。「バテ・ラビムの門」「ヘシュボンの池」という材料を、どう料理するかによって、みことばの味わいが異なってくるだろう。「バテ・ラビム」は、聖書において、ここだけに見られる語であり、ヘシュボンの城門のひとつの名前であり、「群衆の娘」という意味をもつ。ヘシュボンは、交通の要所にある大きな町であり、「知性」という意味をもつ。池というのは、魚を囲うためにほられ、水をたたえているものである。池を掘るときには、土を掘って、水を蓄え続けておけるように、石をひく。必要のない泥、石は除かれ、整えられる。「あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。」(Ⅰペテロ 1:5-9)花嫁の目は、不純物を除かれ、近視眼でも、盲目でもなく、自分が罪人であったことを忘れず、信仰に徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛で整えられた池であった。ヘシュボンの池だと思われる巨大な水槽の廃墟が残っているそうであるが、この池は、大きな池であった。主イエスが、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ 4:19)と、弟子たちに言われたように、花嫁もまた、人間を取る猟師となっていて、多くの魚をとる準備ができていた。池は、だれもいないひっそりとしたところにあるわけではなく、「バテ・ラビム」(群集の娘)の門のほとりにあるのである。花嫁は、そのほとりで、どうやって、魚をとるかというと、目、池で表わされているように、涙、とりなしの祈りの涙で、である。池に蓄えられる水は、花嫁の涙であった。聖霊によって、祈りに導かれ、産みの苦しみを通して、流されるとりなしの涙。愛とあわれみに満ちた涙である。この涙は、愚かで、下品な嘆きとは異なり、ヘシュボン=知性の涙でもあった。この涙が多く蓄えられれば、蓄えられるほどに、この池には、魚が大漁にあふれかえるのである。

 「あなたの鼻は、ダマスコのほうを見張っているレバノンのやぐらのようだ。」(雅歌 7:4)鼻は、嗅覚をもつ器官であるように、悪臭とよいかおり、きよいものときよくないもの、罪と義をかぎわける分別の象徴である。鼻が、酸素を吸い込み、いのちをもたらすように、それは、生きるための分別である。ダマスコは、古くから発展していた商業的にも軍事的にも重要なシリヤの首都であり、”silent is the sackcloth weaver(沈黙は、荒布の織工)”という意味である。このダマスコの方向から、イスラエルの敵が頻繁に攻めてきた。諸外国からの風、この世の楽しみ、肉の誉れのかおりを運ぶダマスコ。レバノン(聖め)のやぐら、聖くそびえたっているやぐらに例えられている花嫁の鼻は、ダマスコのほうからくる何を見張っているかというと、攻めてくる敵もあるかもしれないが、ここでは、むしろ、レバノン(聖め)と対比して、諸外国からの風、この世の楽しみ、肉の誉れへのいざないである。

 「あなたの頭はカルメル山のようにそびえ、あなたの乱れた髪は紫色。王はそのふさふさした髪のとりこになった。」(雅歌 7:5)花嫁の頭はカルメル山のようにそびえていた。「カルメル」は、heb hebkarm「畑、庭、果樹園、新穀、ぶどう園、公園、生産する、豊富な、実り豊かな」である。髪の色は、王の色の紫色である。知識、知恵、統治の力を表わす「頭」heb hebroshe(かしら、head、上部、top)は、実り豊かな王国となっていた。「乱れたふさふさした髪」heb hebrahat「はち・こね鉢,くぼみ,ふさふさした髪」となっている。欄外をみると、直訳として、「水ぶねの」となっている。「水ぶね」を辞書で見ると、「飲み水を運ぶ船、水をためておく大きな桶、魚を生かしておく水槽、難破して浸水した船」とある。水を蓄えている水ぶねの髪、5章2節で、花婿は、「私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている。」と言っていた。教えやことばをたくさん携えているようすの描写であった。花嫁の髪もまた、このしずくをたくさん蓄えたふさふさとした髪となっていたのである。王である花婿は、この花嫁の髪のとりことなった。

花嫁の美しさへの感動

 喜びに満ちた聖く美しい足、みごとな飾りをなす歩み、尽きることのないいのちの糧であるぶどう酒、多くの収穫をみごもった腹、バランスの取れた平和の一致を保つ愛、攻撃と防御の意志、大漁となるだろうとりなし、世の誘惑に打ち勝つ聖さへの分別、豊かな実の王国を打ち立て、教えやことばを携えもつ髪を持つまでに成長した花嫁を、改めて、感動をこめて、花婿は言った。「ああ、慰めに満ちた愛よ。あなたはなんと美しく、快いことよ。」(雅歌 7:6)花嫁の成長、愛であるキリストの似姿へと近づく花嫁は、花婿にとって、慰めに満ちた存在であった。そして、その姿は、とても美しく、いやみでない快い喜びをもたらす美しさであった。

 「あなたの背たけはなつめやしの木のよう、あなたの乳房はぶどうのふさのようだ。」(雅歌 7:7)信者の目的として、「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するため」(エペソ 4:13)とある。成長した花嫁の身たけは、まっすぐにそびえ立つなつめやしの木に例えられている。直立して高く立つ姿から、なつめやしは、正直さを表わす。「なつめやし」のギリシャ語「フェイニクス」は、不死鳥を意味し、やしの葉を広げた形を不死鳥になぞらえている。イエスのエルサレム入城の時、人々がホサナと叫びながら手にしていたのは、なつめやしの枝であった。なつめやしは、勝利の象徴でもある。3節で、ふたごのかもしか、二頭の子鹿に例えられていた花嫁の乳房、愛や愛情の象徴である乳房について、今度は、ぶどうのふさのようであると、述べる花婿。花嫁のバランスのとれた愛は、ぶどうのふさのように、他に分け与え、人々を潤し、満ちたらせることができるように成長していた。

 「私は言った。『なつめやしの木に登り、その枝をつかみたい。あなたの乳房はぶどうのふさのように、あなたの息はりんごのかおりのようであれ。』」(雅歌 7:8)花婿は言た。「なつめやしの木に登り、その枝をつかみたい。」と。枝をつかむの「つかむ」heb hebachzは「捕らえる,支える,所有する」である。花婿は、花嫁とともにいて、花嫁の中に宿り、花嫁を支え、所有し、心の王座を占めることを望まれているのである。成長した花嫁には、イエスは、喜んでともに住んでくださるのである。「あなたの乳房はぶどうのふさのように、あなたの息はりんごのかおりのようであれ。」これからも、花嫁の愛が、ぶどうのふさのように、他に分け与え、人々を潤し、満ちたらせることができることを、花嫁の息(吐くかおり)が、りんごのかおりのようであることを、花婿は望んでおられる。2章で出てきたりんご(雅歌2:3,5)は、「主のみおしえ」「主のあかし」「主の戒め」「主の仰せ」「主への恐れ」「主のさばき」(詩篇 19:7-10)といったような食物であった。花嫁の吐息が、これら主の性質をかもし出すものとなるように、ということである。

眠った者を起こす花嫁の愛

 さらに続けて、花婿は言われる。「あなたのことばは、良いぶどう酒のようだ。私の愛に対して、なめらかに流れる。眠っている者のくちびるを流れる。」(雅歌 7:9)花嫁の口から流れ出ることばは、良いぶどう酒のようだ、と。人々を潤し満足させる良質のぶどう酒。それは、花婿イエスに対してなめらかに流れるものであった。イエスの愛をなめらかに流す管となりきっている口。花嫁のことばにより流されたイエスの愛は、何らかの理由で、信仰の眠ってしまった人々(二つの陣営の舞のエルサレムの娘もそうであった)、救いを待ち望んでいる人々をも、目覚めさせ、イエスの愛に立ち返らせ、その者たちの口にもその愛を満たす力をもたらすものなのである。エゼキエルの預言のしるしとして、死人の骨に満ちていた白骨の谷間で、骨と骨がつながり、筋がつき、肉が生じ、皮膚がおおい、息が入り、生き返って、立ち上がったように(エゼキエル 37:1-10)、また、病で死んだラザロが、4日後、腐っていたような状態から生き返ったように、また、「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。『眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。』そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。」(エペソ 5:11-16)とあるように、花嫁のことばは、眠っているどころか、そのような死んだ人々をも、生き返らせることができるのである。信仰が死んでしまう死因は、いろいろある。外部からのバイ菌(惑わしの教え)による病であったか、内からの変化(罪)による病であったか、敵との戦いに負けたか、また、不慮の事故(思いがけない災難)であったかもしれない。しかし、イエスの愛は、生き返らせるだけの力があり、その力を流すのは、主のことばを流す花嫁なのである。

 なかなか、進まなかった雅歌であったが、ちょうどよい時に、開いてくださる神の愛をつくづく感じ、偉大なる神に、感謝します。

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