「小羊うるちゃん物語Ⅲ」part 1-1 祈りの応答?!

<– 前の記事:「小羊うるちゃん物語Ⅱ」一匹の羊(うるちゃんの詩)

——————–
  うるちゃんが救われた時、教会の礼拝出席のことで、シャ宅の住人たちから妨げられるような出来事があった時のことです。
   「小羊うるちゃん物語」part 4-1 イエス様と共に 参照

 そのことで、A教会のA牧師に相談に行ったところ、「そのような悩みなんて、5年もすれば、『なぜ、あの時は、悩んでいたのだろう』とばかばかしくなるものだよ」と帰され、カウンセリングは賜物なのかと思い、結局、自分で祈って解決を見出すしかないのだと納得して帰宅したのでした。その後も、A牧師とはそういうかみあわない場面に遭遇するので、「教会には、カウンセリングの賜物を持った人が必要だ!」と思い、A教会にいる間、人の心がわかるカウンセラーを送ってくださるようにと、よく祈ったものでした。

 そのようなある日、うるちゃんはA牧師の紹介で、米軍基地のカウンセラーでもあるDチャプレンのもとで、夫婦カウンセリングのマニュアル作りのワープロのボランティアをすることになったのです。Dチャプレンと普通の話をしてても、何かかみ合わないような会話に不自然さを感じていました。今、思えば、身についた技術による会話だったようです。

 うるちゃんにとっては、A教会を出た時のA牧師の言動にまつわる傷は、深いものでした。それに追い討ちをかけるように9年来の親しい友をも失ったのですが、カウンセラーだというチャプレンに相談したくても、できない雰囲気がありました。そこで、彼に「カウンセリングに必要なものは愛ですよね。カウセリングは主からの賜物ですよね。」と聞いてみました。「それは、違う。技術があれば誰でもできるものだ。」という答えが返ってきました。カウンセリングが愛に基づかないというのは、その時のうるちゃんにとってはショッキングな答えでした。

 結局、うるちゃんの深い心の傷は、B教会のB1牧師からの、受容と、みことばで一年かかって癒されました。実際、うるちゃんの傷が癒されたのは、技術も知らない若い牧師からの受容とみことばからだったのでした。

 そんな時、あることから、Tカウンセリングスクールのセルフイメージセミナーを知り、自分のセルフイメージをなんとか良くしたいと思い、またあのチャプレンの言っていた技術とはどんなものかを知りたいと思い、受けてみたのです。そして、愛によって技術を用いるカウンセリングにふれたのです。1998年8月のことでした。その学びが、うるちゃんと同じような傷を受けた人の助けになればと願っています。

 「賛美と祈りに満ちた教会。信仰の一致がある教会。牧師と良い交わりが持てる教会。できるなら、日本人ではなく外国人宣教師の指導者のいるところ。そして、向こうからうるちゃんの存在を望んでくださるところ。主の働きができるところ。」そう祈って導かれたC教会に、おそるおそる飛び込んだのでした。1999年2月28日(日)のことでした。

 C教会のC牧師家族は、うるちゃんが住むH市の隣の市に住んでおられたのですが、1998年10月にH市の都営住宅に当選したためH市に引っ越し、近くで教会をと思い、1月に開拓を始められたということでした。10月といえば、マーサさんが異言を伴う聖霊を受けた時でした。そして、1月は、マーサさんがはっきりと、B教会を出た時でした。

 うるちゃんは、C牧師にマーサさんが異言を伴う聖霊を受けたことによってB教会に行けなくなったことを話し、C牧師は聖霊を受けておられるかどうかを尋ねました。C牧師は長老派の信仰で日本のS神学校を出て牧師となった方でしたが、韓国は長老派でも開かれていると聞いてはいたからです。「受けています。癒しも、悪霊を追い出した経験もあります。」と言われました。「異言は語ったことはないが、以前に求めたことがある。が、もらえなかった。しかし、他の賜物は持っていて、聖霊は受けている。」と言われたC牧師のことばを、そのようなこともあるかもねと、うるちゃんは信じたのでした。

 礼拝は、静かなものでしたが、いずれゴスペルソング(讃美の本の題名)の賛美も豊かに取り入れたいと言われたので、柔軟性のある牧師のように感じました。そのうち、ゴスペルソングの賛美も始めるようになりました。マーサさんと2人で、賛美の司会を頼まれたので、選曲とパソコンの奏楽(救われてから、ずっと、曲を入力してためていたものがあった)を始めました。賛美に満ちた教会。賛美は、来た時には、聖歌3曲のみで、ワーシップソングは歌われていなかったのでしたが、始めることになったので、「讃美と祈りに満ちた教会」と祈った祈りの応答だと思いました。

 C牧師は、インターネットで教会のホームページを開いておられ、毎週苦戦してらしたので、インターネットの奉仕も受けました。C牧師は、訪問伝道に力を入れておられたので、それも訓練されたいと思い、時々ついていきました。毎日、山に入り、早朝の祈り、断食の祈りと、多くの時間を祈りに費やしているというC牧師のことばをも信じ、祈りに満ちた教会なのだと思いました。

 C牧師夫妻との交わりは、親しみがありとても良いものでした。人を思いやる心があるように感じられました。「牧師と良い交わりが持てる教会」という祈りの答えだと思いました。歓迎もしてくれた。働きもあった。外国人の宣教師だった。すべて、祈りに答えられているようでした。しかし、一つ、信仰の一致。このことがなかったのです。

 まず、異言の解釈が違いました。外国のことばに限定し、外国に宣教する時に必要なものだという解釈は、いくら議論しても平行線でした。“異言についての見解”なるレポートもどこかに出す予定で書いておられました(根本主義を説くジョン・R・ライス師という方の本にものすごく感銘を受けて、訳したものだと言っておられました)。そこには、ある理由がありました。C牧師によると、「牧師になる前の韓国にいた頃、私は異言の賜物を受けたくて、J教会(韓国では世界一の規模だと言われているのを聞いていた教会)を訪れ、受霊会なるものに参加しました。聖霊を受けよと奉仕者が按手する中、周囲にいた信者が次々に異言を語っていき、奉仕者が私のところに来て手を置きました。私は、自分で意図して他の人が語っている言葉をまねて訳のわからない言葉を発してみました。すると、奉仕者が『おー、あなたは聖霊を受けました。ハレルヤ!』と言ったので、インチキだと知りました。」 何と言ったらよいのか、見分けのできなかった奉仕者の問題か、神聖に求めるべき場で、不正をあばこうとした心の問題か、そこで行われていた行為が何なのか、うるちゃんにはよくわかりません。ただ、聖霊(の賜物)は人間が授ける者ではなく、心から神を求めることによって、神から授かる賜物なので、受ける一人一人の心の問題なのかと思います。

 異言の解釈についての話は、なるべく避けていよう、そのうちわかってくださる時が来るだろうと思い、深追いせずに置いておきました。そのうち、次から次へと、教えを聞く度に違いを知らされたのでした。聖書解釈は、毎回必ずと言っていいほどに、ひっかかる個所が出てくるのでした。C牧師に尋ねると、C牧師とC牧師夫人の解釈も違うので、ひとりひとり違うものだ、問題ないとも言われました。異言の賜物のみならず、霊の9つの賜物の解釈も微妙に違っていました。知恵の賜物も人間の考え出す知恵、知識の賜物も聖書から得る知識、…というようにすべてが、超自然的な神の賜物というより、人間的な解釈となっていました。聖霊様を知ってらっしゃらない、そう思えたのです。

 C牧師は、祈りを深めるための断食の効果を強調されるので、夫であるへいわくんが教会へ来ることを願って40日の朝食の断食をすることにしました。(C教会へは、へいわくんはイースター礼拝に一度来ただけで、家の礼拝を主張し、がんとして教会に来ませんでした。)断食した結果は、体重が3キロ減ったことで、へいわくんに変化はありませんでした。40日目に、主は「時と計画がある」と答えられました。また、夫に従えとも語られたのです。その時、Ⅰペテロ3章1節~6節の個所を示され、詳訳聖書を見るように語られました。そこを読んで、うるちゃんは、自分がどんなに夫に不従順であったかと思い知らされました。主は、みことばをもって、神のみこころの夫婦関係を語ってくださったのでした。(詳訳聖書のそのみことばは、うるちゃんには無理なのでは・・・と思うほど、神によらないと、達成できるような基準ではなかったのです。)

 「同じように、結婚した婦人たちよ、自分の夫に従いなさい〈夫の次の者として、また夫に依存する者として下位に立ち、また夫に自分を順応させなさい〉。それは、たとえ[神の]みことばに従わない夫であっても、議論によってではなく、妻の[敬けんな]生活によって、[信仰者として]獲得されるようになるためです。
 彼らが、あなたがたの持つ[夫への]尊敬と、あなたがたの純潔な〈しとやかな〉ふるまいを見たとき[そのようになるのです。すなわち、あなたがたは、尊敬という言葉が意味するすべての思いを夫に対して持たなければなりません]〈夫を尊敬し、夫に敬意を払い、夫を敬い尊ばなければなりません。[大事にして尊ぶとは]名誉を与え、尊重し《真価を認め、たいせつにし》、また[人間的な意味で]彼を賛嘆することを意味し、[そして、賛嘆するとは、あなたがたの夫を]賞賛し、ほめ、彼に熱中し、彼を深く愛し喜ぶことを意味します〉。
 あなたがたの飾りは、[念入りに]髪を編み〈結び〉、宝石類を身につけ、着物を取り替えるなどという、[単なる]外面の飾りでなく、
 穏やかで平和に満ちた霊という朽ちることのない〈色あせることのない〉魅力を持つ、内的な飾り〈心の[奥深く]隠れた人の持つ美しさ〉でなければなりません。これは[その霊は]〈不安を感じたり、興奮していらいらしたりすることのない霊で〉神のみ前にきわめて価値の高いものです。
 神に望みを置いていた昔の敬けんな女たちも、このように自分の身を飾って〈飾るのを常として〉、その夫に従いました〈夫の次の者として、夫に順応し、依存していました〉。
そのように、サラもアブラハムを主〈主人、指導者権威ある者〉と呼んで〈呼ぶことによって〉彼に服従しました〈彼の指導に従い、自分の上に立つ夫の指導的地位を認めていました〉。あなたがたも正しい事を行ない、何事にもおびえずおくしない〈病的な恐怖に負かされず、不安にかられて気力を失うようなことがない〉ならば、今あなたがたもサラの真の娘たちとなるのです。」

 このみことばを照らされたうるちゃんは、たとえ、神のみこころだという確信があることであっても、妻は、夫を自分の意図することに従わせるのではなく、神のみこころを行なえるように、夫に従い、助け、感情に左右されない魅力をまとうように、祈りつつ努力しなければならないということを知ったのでした。

 C牧師との教えの違いは、聖霊に関することだけかと思っていたら、それも、徐々に明らかにされていきました。カインとアベルの捧げ物の解釈などから、明らかになっていくのでした。「アベルは、親に教えられた通りに、血の捧げ物をしたため、受け入れられたが、カインは、親のいうことを聞かなくて、農作物を捧げたから、受け入れられなかった。」「結婚は、お見合いが一番だ(C牧師はお見合いだった)。自分勝手に結婚する恋愛はいけない。イサクも親の言う通り、リベカと結婚した。」などであった。アベルの捧げ物などは、親が教えたということは書かれていないため、どうしてそう言えるのかと尋ねても、がんとして主張されていました。そういう教えになると、律法的になるのではないかと思えました。

そのうち、教えが、「恵みを得るためには、命令を守ろう」という主旨に基づいているものだということに気付かされました。「孔子、曰く、『……』」とでもいうように、「イエスは言われた、『……』」と伝わってくるのでした。B教会で知った恵みの福音とは違っていました。それでもうるちゃんは、信仰の一致をも祈って与えられた教会なのだから、今から一致をさせてくださるのではないか、と信じていたのです。

——————–

  【うるちゃんと教会】
  ★ Y教会関係のTカウンセリングスクール(Ⅲpart 1-1)
  ☆ うるちゃんが電話をかけた「昔からの流れのキリスト教会」(part 1-3)
  ☆ はづきさん所属のA教会(part 1-3)
  ☆ 歩いて1、2分のところにあった近所のH教会(part 2-1)
  ☆ へいわくんの実家近くのA教団のW教会(part 5-4)
  ☆ 行き場をなくしたうるちゃんが飛び込んだB教会(part 5-5)
  ☆ 世界一大きいと聞いていた韓国のY教会(part 5-番外編)
  ☆ 早天祈祷のため行ったJ教会(Ⅱpart 1-5)
  ☆ カウンセラーの聖会に行った日本基督教団H教会(Ⅱpart 1-6)
  ☆ 韓国人牧師が開拓していたC教会(Ⅱpart 1-6)

–> 次の記事:「小羊うるちゃん物語Ⅲ」part 1-2 落ち穂礼拝の始まり

コメント