和解と謝罪~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

   当時、うるは、日本と韓国の歴史というものをほとんど知らなかったのですが、教会のメッセージで、戦争という状況下において、日本人が朝鮮に対して(当時のクリスチャンも加担して)なした(なさなかった)こと、韓国は多くの人たちがキリストを信じていること(ソウルでは1割になる)、謝罪の必要性と和解についてを聞いていました。
それから20年以上経ち、多方面からの情報を見るにつけ、そんなに単純なものでも一方的なものでもなかったことを知り、この時の「謝罪」という思いは、自分の思いだったのかと顧みたりしますが、そう思って動かなければ経験できなかった貴重な出来事が多々あるので、どういうことだったのだろうと時々不思議に思います。
神は、人の思いを超えられたお方じゃ。そして、全知全能の神は、いろいろなことを用いて、神を愛する者にとってはすべてを益としてくださるお方でもある。(「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ 8:28)
)うるちゃんの「謝罪」という思いが、仮に人間的な思いだったとしても、そこから始まった旅がそのことによって自分も周囲も主にあって祝福されたのなら、決して否定することはない。
人が、心に深い感銘を受け、神の言葉だと信じた個人的な内容を、その状況もその人のことも全く知らない他の人間が判断するのは難しい。その人の後の歩みでできてくる実が、どこから来た言葉だったかを証明していくだろう。そして、時に、それは長い年月が経たなければ見えてこないこともある。
自分が何を語られたかということより、語られる神を見ていくこと、愛する神から目を離さないことが大事なことじゃ。
この旅を初めとして、それから、今まで和解というものの本質を学んできました。外面的なものではなく、奥の深さを。今も学びは継続中です。
神との和解を成し遂げてくださったキリストが模範じゃな。和解は受け取るも受け取らないも、選択は自由で、謝罪の心と赦す心、双方があって初めて成り立つことじゃ。キリストの赦しは、すべての人のためにあるが、悲しいことにすべての人が赦されるわけではない。十字架の奥義は深い・・・。

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