理不尽さへの怒りがある時は

「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」(ルカ 18:7)

ひとりのやもめが、ある裁判官のところにやってきては、「私の相手をさばいて、私を守ってください」と言っていたとある。
やもめは、立場が弱かった。そのやもめが、たよった相手は、「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」であった。
そのような裁判官であっても、あきらめずにやってくるやもめのために、裁判をしてやることにしたのであった。
「うるさくてしかたがないから」という理由からであったが、「許せ」ととりあわなかったり、軽くあしらったりしたわけではなく、法律によって裁くことにしたのである。

————————–
寂しい思いを抱いていて、理不尽な出来事の中、傷の中で怒りを抱え込み、閉じこもっていないか?
私たち罪人の怒りを身に受け、十字架にかかって救いの道を開いてくださった主は、裁判官とは比較にならないお方である。
その主があなたを愛し、共にいてくださっているのだ。
怒りを隠し、悟っているかのように心を冷めさせ、封じ込め、心身を病ませてはいないだろうか。
人の罪は自他に傷を与える。罪の取り扱いは、決して軽いものではない。
神の法律によって裁かれる。
神の法律は、「神である主を愛し、隣人を愛する」に集約される法である。
原罪を持つ私たち人間は、自らの罪にも気づかないものである。
人の言動に怒りを覚えた時は、怒りを隠したり、逆に爆発させたり、適切ではない方法で他に向けたりすることを止め、主の前に持ち出そう。

例え、激しい怒りを主にぶつけることになったとしても、十字架にかかられ、罪を受け止め、救いの道を開いてくださり、今も生きておられる主イエスは、その怒りを受け止め、正しく導いてくださる。

聖書は、私たちに道を示している。
主を頼る私たちに、主は必ず応え、今は理不尽に思えるような事柄をも正しく裁いてくださる。
人にはできないことを、主はなされる。
他からきた罪により、寂しく理不尽な怒りを抱えている時、あわれみ深い主の存在に気付けますように。

コメント