主とともにある苦しみは宝となる

「しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。」(使徒 14:20)

パウロとバルナバがイコニオムという町(現在のトルコにあった町)の会堂で
話をすると、大勢の人が信仰に入った。
そのことをおもしろく思っていない人々は、ユダヤ人の指導者たちと手を組んで、使徒たちを石打ち(みんなで大きな石を投げつけて死に至らせる死刑)にしようとした。
それを知ったパウロたちは、少し南の町のルステラとデルベの方に行き、宣教を続けた。
ルステラに行くと、生まれながらの足なえの人が、パウロの話に耳を傾けていた。
パウロは、彼にいやされる信仰があるのを見て、主によって彼を癒した。
このことで、群衆が彼らを神のように扱った。
そこに、ユダヤ人たちがやってきて、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにして、町の外に捨て去ったのであった。
心配した弟子たちが、パウロを取り囲んでいると、パウロは息を吹き返して、
町に入り、宣教を続けた。
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人生には、良いときもあるだろうが、苦しみも多々ある。
神のみこころを行っていても、いや、行えば行うほどに、苦しみがやってくる時がある。
神なき喜びや楽しみは、はかないものだが、神あっての苦しみは、天に宝を積む苦しみである。
永遠の時の中で、死に打ち勝たれたイエスにあって、死というものは一種の通過点に過ぎない。
だから、パウロは死をも神に委ね、みこころの中を突き進んでいったのである。
あなたの苦しみは、主の知らないものではない。
主のもとにすべてを委ね、疑いを捨て、主とともに歩んでいこう。
それこそが、しあわせに通じる道である。

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