主にある忍耐

聖書に書かれている御霊の実に、「寛容」「自制」ってある。しかし、それは何でも忍耐すればよいわけではない。
昔の日本人は、がまん強かった。というより、社会全体ががまんするしかなかった。
がまんを強いられて、心病む人が多い現代、がまんしなければいけないことと、しなくてもいいことがある。
見分けるポイントは、がまんすることによって、神さまの栄光が現れるかどうかである。
今日の昼休みに、主イエスが語ってくださり、喜びが湧き上がってきたことばである。

パウロは、主に従っていない偽の指導者たちを耐え忍んでいたクリスチャンに書き送っている。
「あなたがたは賢いのに、よくも喜んで愚か者たちをこらえています。事実、あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、だまされても、いばられても、顔をたたかれても、こらえているではありませんか。」(Ⅱコリント 11:19,20)

がまんした結果、心病むなら、主の栄光どころではない。
いずれにしても、必要な忍耐は、主がご自身の似姿に近づけてくださるために、自然になさせてくださる恵みであり、目的があるものであり喜びが伴う。
自然にできなければ(無理しないとできないようならば)、しなくてもよい。いつか、いろいろなことを通して、成長に応じて主が完成させてくださる。

※ 後で爆発するような忍耐は、してはいけない忍耐です。忍耐に通じる自制は御霊の実であるのだから。

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