死刑?どこが神の愛?

「かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、その父と母は、彼を捕え、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、・・・町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。」(申命記 21:18-21)

神は愛である。
しかし、この個所に書かれていることは、どうだろう。
両親の言うことを聞かなかったら死刑?どこが愛か、と思うところだろう。
しかし、この律法を知っている両親が、愛する子を連れ、町の長老たちのところへ行く時は、もうどうしようもなく手に負えない状態である。
両親が心を尽くして子を訓練し助言を与えても、かたくなで、逆らい、悪にそまった状態である。
死を前に子が悔い改めることに最後の望みをかけて行くのである。
神は愛であるが、罪については厳しいまでに裁かれる。
神は愛であると同時に義なるお方である。
そうであるからこそ、私たちの罪を贖うために、主イエスが来られたのである。
罪は人や自分を傷つける。
放置すると、罪は果てしなく、周囲に広がっていく。
その罪を除こうとされることもまた、神の愛である。
———————————-
何をしてもいいよ、と甘やかすことが主の愛ではない。
甘やかし放置するなら、それが当たり前のこととなり、自分中心に物事を考える習慣がついていくだろう。
この律法が与えられている社会で育つ子は、両親の言うことを聞くという従順を学びながら育つ。
それは、神への従順につながるものである。
民は、この教えを聞き、神への恐れを持ちつつ、従順の大切さを学んでいく。

コメント