霊の戦いについて

「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。『主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』」(ルカ 10:17)

「霊の戦い」と聞くと、カルト化した教会で被害を被った人たちにとっては、それだけで拒否反応が起こるほどに、カルト化しやすい分野である。
それは、「霊の戦い」を強調する、悪い霊に打ち勝てる自分を誇示する人たちの結ぶ実によるものである。

聖書は、始まりの創世記からサタンが出現し、そこから完成のクライマックスの黙示録に至るまで、霊(信仰)の戦いが描かれている。
キリストも使徒たちも、病に命じ、異なる霊に叱りつけ立ち去らせている。「サタンよ、出ていけ!」「病よ、いやされよ!」「嵐よ、静まれ!」と命じることは聖書に書かれている行動なのである(マタイ4:10, マルコ1:25, 3:15, 5:8, 6:7, ルカ4:35, 8:29, 使徒16:18など)(マタイ 8:3, マルコ 9:25, ルカ 5:13)(ルカ 8:24-25)。
「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ 16:17,18)
ともある。
では、どうしてキリスト教界内でも意見が分かれる問題となっているのか。

  • 霊の存在を信じない不信者にとっては、奇異に見える行為である。
  • 目に見えないことなので、本当に命じたことによるものなのかという証明ができない(たとえ、そのとおりのことが起こったとしてもいろいろな理由付けで否定できる信仰の世界の出来事である)。
    ex. 偶然だろう、思い込みだろう、人によるトリックだ・・・等
  • 命じている人たちのふるまい方
    ex. 自分がなした功績のようにふるまう、言動がキリストと同等になったかのように自分に権威付けしてしまう、他のクリスチャンとの差別化が見られる・・・等
  • 必要を見分けることなく、何でもかんでも命じてしまう。「あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。」(出エジプト20:7)(しっかりとした聖書全体からの教育がなされずに実践している。)
    ex. 病人には誰にでも、自分に対して否定的な意見は悪霊の仕業にしてしまう・・・等
  • キリストなる神よりも悪霊、サタンに目が行ってしまうことになる。

危ないからやめてしまうというのも、聖書的解決ではない。

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人をつまずかせないよう注意を払い、心の高慢に陥らないよう、キリストを見上げて、信仰の戦いをしていこう。神から出たか他から出た行為かは、誰の目にもはっきりとわかる時が来る。神を恐れつつ、神が導きによって隣人に仕えていこう。

「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。彼らのことは放っておきなさい。」(マタイ 15:13,14)

「ヨハネがイエスに言った。『先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。』しかし、イエスは言われた。『やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。・・・」(マルコ 9:38-42)

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