『キリストの花嫁 7』雅歌 5:10-6:3

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聖書個所:雅歌 5:10-6:3(新改訳聖書)
『ゆりの花の間で-へりくだり-』

万人よりすぐれている花婿

 前回の雅歌5章9節まででは、再び花婿が去り、エルサレムの娘たちに愛に病んでいると伝えてくれるよう誓いを願う花嫁に、花婿の何がほかの愛人よりすぐれているのかとエルサレムの娘たちが尋ねたところまでを見てきた。9節で2度繰り返されている「女のなかで最も美しい人よ。あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか。」「ほかの愛人」(雅歌 5:9)とあるが、花嫁に愛する人が数人いて、「花婿以外の愛人」がいるということではなくて、「他の人の愛する人」という意味で、他の人が愛する人を愛する愛にまさる花嫁の強い愛を見て、他の人の愛する人より花婿の一体何がすぐれているのかと尋ねているのである(ややこしくなりましたが…)。エルサレムの娘たちは、花嫁が花婿について、こんなにも心動かされ、他の何も手につかないほど心が占められ、はらはら動揺し、興奮している理由がわからなかったのである。花嫁の愛する方は他の愛する人より何がすぐれているのか、このように尋ねられた花嫁は、花婿について語る。「私の愛する方は、輝いて、赤く、万人よりすぐれ、」(雅歌 5:10)「わが愛する者は白く輝き、かつ赤く、万人にぬきんで、」<口語訳>“My beloved is white and ruddy(血色のよい),Chief among ten thousand.”<New King James Version Bible(英国欽定訳)>まず、花婿の色、全体像について語る花嫁。白く輝いて、かつ赤いとはどういうことか。「主は天に雷鳴を響かせ、いと高き方は御声を発せられた。雹、そして、火の炭。」(詩篇 18:13)主なる神は、雹、氷の粒の冷たい厳しさ=聖なる義と赤く燃え盛る火の炎の激しく熱い愛を合わせ持つ特別な輝きを放っておられる、万人よりも比較にならないほどにすぐれた特別な、王の王、主の主なるお方である。

 「その頭は純金です。髪の毛はなつめやしの枝で、烏(カラス)のように黒く、」(雅歌 5:11)花嫁は、花婿の頭から足までの身丈について述べる。頭(かしら、head、上部、top)は神の性質を現す純金であった。「なつめやしの枝」は、高いなつめやしの木の上のほうで、枝が垂れているように、髪の毛がふさふさとうねっていることを表現している。その髪は、烏(カラス)のように黒い。烏(カラス)は、腐敗物の掃除をする鳥(とり)である。罪なる腐敗した性質を取り除くために、イエスはこの世に来られ、十字架にかかってくださったのである。神性の純金の頭を覆っているのは、烏(カラス)のような黒い髪であった。神性の純金の頭に至りたいと思うなら、この黒髪をかきわけなければいけない。神であられるのに、赤子の姿をとって烏(カラス)となられたへりくだりのイエスさまの前に、へりくだりをもってひざまずき、黒髪をかき分けなければ(十字架のイエスを通らなければ)、神を知ることは不可能である。烏(カラス)のような黒髪で覆われているのだから・・・。

 烏(カラス)といえば、ケリテ川のほとりに身を隠したエリヤに、朝と夕にパンと肉を運んだ烏(カラス)が思い浮かぶ(Ⅰ列王 17:6)。烏(カラス)は、律法では忌むべきものとして、汚れた生き物となっている。「また、鳥(とり)のうちで次のものを忌むべきものとしなければならない。これらは忌むべきもので、食べてはならない。すなわち、はげわし、・・・、烏(カラス)の類全部、・・・」(レビ 11:13,15)その汚れた生き物から肉とパンをもらうのは、エリヤにとってへりくだりの信仰を要することであった。エリヤは、神のみこころの前にへりくだったのである。このへりくだりの学びの後、今度はやもめの家の粉と油がエリヤを養った。当時のやもめというのは身分が低かったが、この神の預言者は、王の食卓からではなく、やもめ女の粉と油で養われたのである(Ⅰ列王 17:16)。この後、エリヤは、えにしだの木の下で天使が運んだパンによって養われた(Ⅰ列王 19:6)。死を願っていたエリヤは、この天使のパンに力づけられ、四十日四十夜かけて、ホレブ山へ行ったのである。へりくだったエリヤを神が高めてくださったのである。

 雅歌に戻る。「その目は、乳で洗われ、池のほとりで休み、水の流れのほとりにいる鳩のようです。」(雅歌 5:12)目、白目は乳で洗われたように真っ白で、汚れがない。また、その目は活動を終えて、水の流れのほとりに休んでじっとしている鳩のようであるという。「休み」は、口語訳では「落ち着いている」で、指輪の台座にしっくりとはめ込まれた宝石のようによくおさまっている様子を言っている。「池」は十分、充満の意味がある。十分に水をたたえた池のほとりで、休んでいる鳩。その目は、攻撃的ではなく、素直で、柔和な目、その目を見るだけで、落ち着いた平和な思いになる、そのような目である。

 頭、髪、目と下ってきて、次は頬とくちびるである。「その頬は、良いかおりを放つ香料の花壇のよう。くちびるは没薬の液をしたたらせるゆりの花。」(雅歌 5:13)雅歌1章10節で、頬は「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ 5:39)というイエスさまのことばに見るように、頬は意志に関係すると述べた。意志を表わしている頬、この頬が、良いかおりを放つ香料の花壇のようだと言っている。花婿の愛情にあふれた頬(意志)は、人の心をこの良いかおりに惹きつけて、彼自身を慕い求めて、切望させる香料の花壇のようなものなのである。またくちびるは、へりくだりの没薬の液をしたたらせるやはりへりくだりのゆりの花に例えられている。彼のくちびるは、没薬とゆりという二重のへりくだりによって表わされているように、自己主張などの傲慢さは微塵も見られず、ただ父なる神を証しているくちびるである。

 次は、腕とからだの描写である。「その腕は、タルシシュの宝石をはめ込んだ金の棒。からだは、サファイヤでおおった象牙の細工。」(雅歌 5:14)「タルシシュの宝石」は、緑柱石である(出エジプト 28:20、39:13など緑柱石と訳されている原語はこの箇所と同じ語 heb hebtarshe である)。その原語には、精錬する、裁く、テストする、試みる、調査するという意味がある。腕は、神聖な手、金(神性)の棒(円筒、杖)。まことに、主のみ腕は、私たちを支える杖である。また、このみ腕は、陶器師の腕である。土の器を壊し、練り直され、尊い器へと変えて下さる腕である。ときには、悩みの炉にて試みにあわせ、純化してくださる腕である。緑柱石がはめ込まれているとは、精錬し、試みる腕であるということである。自分の手をダイヤモンドなどの宝石で飾った王は、他にも多くいるが、このような力強い金の棒の腕は他にはない。「からだ」heb hebmeah「腹、内臓、はらわた、内部の器官、腸」であり、花婿の最も内なる部分を示す。「サファイヤ」は階段(上昇)を表わす。「象牙」は、攻撃力と守備力を表わす。heb hebshen「象牙」には、歯のように鋭い、最前列、繰り返し教え込む、説き伏せる、研ぐという意味もあるそうだ。花婿の最も内側の部分は、刺し通したり、説き伏せたり、教え込んで、引き上げ、徳を高める強さをもった象牙の、破壊的強さではなく、美しい細工でできていたのである。

 次は、足である。「その足は、純金の台座に据えられた大理石の柱。その姿はレバノンのよう。杉のようにすばらしい。」(雅歌 5:15)花婿の足は、純金の台座に据えられた、強くて堂々とした大理石の柱のようであった。大理石とは、固く頑丈な不動の物資である。純金、神性という土台の上にまっすぐにそびえ立っている柱、上、神に向かってまっすぐに立っている不動な柱である。この足は、神のみこころからそれない歩みをなしているのである。次に花婿の全体の容貌を述べる花嫁。容貌はレバノンのようにきよさ、清潔さを全体にたたえている。また高さ、強さにまさる杉のようにまっすぐに荘厳さを持っていてすばらしい。

 最後に花嫁は、最も親密な花婿の口について述べる。ことばなる主イエスの中核である。「そのことばは甘いぶどう酒。あの方のすべてがいとしい。エルサレムの娘たち。これが私の愛する方、これが私の連れ合いです。」(雅歌 5:16)「ことば」heb hebnu「口、上あご、味、歯ぐき」である。彼の口、ことばは、甘く私たちをうっとりと酔わせ、また、いのちを与えるぶどう酒である。証し終えた花嫁は、「あの方のすべてがいとしい。エルサレムの娘たち。これが私の愛する方、これが私の連れ合いです。」と締めくくった。

 嘲笑と聞いてみたいという思いとが入り混じっていたかのように、「何がすぐれているのですか。」と言っていたエルサレムの娘たちは、この花婿への証を聞いて、心を打たれた。「女のなかで最も美しい人よ。あなたの愛する方は、どこへ行かれたのでしょう。あなたの愛する方は、どこへ向かわれたのでしょう。私たちも、あなたといっしょに捜しましょう。」(雅歌6:1)と捜索の協力を申し出たのである。花嫁の証を通し、花婿の圧倒的な愛を知ったエルサレムの娘たちは、自分たちも花婿を知りたいと思ったのである。人間の夫婦の描写だとしたら、花婿の愛を勝ち取ろうとライバルの炎がメラメラと燃え上がるようなとんでもない話となっていくところであるが、これは、霊においての話である。今やエルサレムの娘たちの内に、花婿を知りたいという飢え渇きが与えられた。居場所を一番知っているのは、花嫁であることにも、エルサレムの娘たちは気づいている。試練が激しく、イエスの愛が見えなくなり、私たちは、ときどき、花婿がいなくなってしまったように感じることがある。しかし、他の人々に証を始めるとすぐに、そう遠くに行っていないことに気がつく。

 「私の愛する方は、自分の庭、香料の花壇へ下って行かれました。庭の中で群れを飼い、ゆりの花を集めるために。」(雅歌 6:2)「あなたの愛する方は、どこへ向かわれたのでしょう。」というエルサレムの娘たちのことばに、花嫁は答える。先ほどは、自分も花婿の居場所がわからずに、捜しまわっていたのだが、花婿を語るうちに、花婿の居場所が見えてきたのである。同時に、自分にへりくだりがなかったことに気づかされた花嫁、「私の愛する方は、自分の庭、(良いかおりに満ちた)香料の花壇へ下って行かれました。主のみこころに不平不満をもって答える私を置いて、私がみこころを悟るように、自分にふさわしい庭に下って行かれたのです。庭の中で群れを飼い、(へりくだりの)ゆりの花を集めるために。」

 「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」(雅歌 6:3)花嫁は、花婿の居場所をはっきりと確信したのである。同時に、自分にへりくだりがなかったために、花婿と離れ離れになったことも気づいた花嫁。砕かれた花嫁は、婚約期間から成長したことがわかる。婚約中は、「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」(雅歌 2:16)と言っていたのである。順序が変わった。まず、私は私の愛する方のもの、が先立つ。これが、自分のためでもあり、こうすることが、私の愛する方は私のものと、主のものを共有することのできる道であることを、自己主張を捨て、へりくだりを学んだのである。以前も、花婿がゆりの花の間で群れを飼っていることは知っていた。しかし、ことば上で知っていたにすぎなかった。花嫁は、この後、二度、花婿の居場所を懸命に捜しているのである。今や体験的に、ゆりの花、へりくだることを学んだ花嫁は、はっきりと知ったのであった。

 花婿が望んだ位置にまできた花嫁に、花婿は優しく語りかける。エルサレムの娘たちの前で・・・。「わが愛する者よ。あなたはティルツァのように美しく、エルサレムのように愛らしい。だが、旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。」(雅歌 6:4)主は、このように、証を確かなものとするために、力と栄光をもって、現われてくださるお方である。主のみ前でへりくだる花嫁を、主ご自身が高く上げてくださるのである。「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」(ヤコブ 4:10)とヤコブが言うとおりである。「私自身が知らないうちに、私は民の高貴な人の車に乗せられていました。」(雅歌 6:12)と後に花嫁は、高くされた。花嫁となったために、兄弟からしいたげられ、行き場を失い、群れのかたわらで、子やぎを飼うように命じられた花嫁。その待遇が気に入らず、不平不満をもって、花婿に接していた花嫁であった。花婿が離れるという二度の経験が彼女をへりくだらせ、自我が砕かれた。夜回りたちに打ち傷つけられても、私は愛に病んでいると伝えてくださいというのが、精一杯の花嫁を、花婿は高く上げてくださったのである。誤解され、一時的にみじめな状態に置かれても、へりくだることを学ぶなら、主ご自身が高くしてくださるのである。へりくだることを学ぶとは、苦難をじっと状況が変わるのをただ待つということではない。花嫁にとってのへりくだりを学ぶということは、殻から出て、プライドを捨てて、花婿を捜しに出たことであった。花嫁やエリヤが特別高慢だったから、へりくだりを学ばなければいけなかったのではない。むしろ、他の人よりも、へりくだっていたといえる。人類に罪が入ったアダム以来、人間の従来もつ性質が、神のへりくだりに反するのであり、神に近づけば近づくほど、その性質を変えられる必要が出てくるのである。神から遠ければ、自己中心的な自我をもっていようが、神も気づくまで、そのまま素通りしてくださるだろうが・・・。次回は、この花婿のことば、6章4節からを見ていく。

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