『キリストの花嫁 6』雅歌 5:1-9

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 前回、花婿は花嫁を、気高く危険なきよめ、契約、引きこもりの山々であるレバノン、アマナ、セニル、ヘルモンから降りて、安全で平和なへりくだりの没薬の山、信仰の乳香の丘へ招いていた。花嫁がどんなにうるわしく、最上の実を産み出すかを述べた花婿に応え、「北風よ、起きよ。南風よ、吹け。」とそれらの風が花嫁の産み出したよいかおりを漂わせてくれ、花婿が、庭で最上の実を食べることを願った花嫁であった。北風はきよめ、南風は成長といのちの象徴であった。

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聖書個所:雅歌 5:1-9(新改訳聖書)
『愛の病-へりくだりの学び―』

交わりを喜ばれる花婿

 「私の妹、花嫁よ。私は、私の庭にはいり、没薬と香料を集め、蜂の巣と蜂蜜を食べ、ぶどう酒と乳を飲む。」(雅歌 5:1)“my garden, my myrrh, my spice, my honeycomb, my honey, my wine, my milk” <New King James Version Bible(英国欽定訳)> 私の庭、私の没薬、私の香料、私の蜜の巣、私の蜂蜜、私のぶどう酒、私の乳、私の、私の・・・、花嫁の閉じられた庭は、花婿の所有であった。花婿がそれを設け、木々を植え、育て、水をやったものであった。花嫁が自分で守ろうと固く閉ざしていなくとも、花婿が守りの垣を設けて、守ってくださるものであった。花婿の庭といっても、「私の愛する方が庭にはいり、その最上の実を食べることができるように。」(雅歌 4:16)と花嫁が開放してこそ、入れる庭であった。花婿は、花嫁の心に形成された庭に入り、まず、へりくだりの没薬と他のさまざまなよい香りの香料を集められる。何よりもへりくだりを重視される花婿。庭で、花婿は、蜜がたくさん蓄えられている蜜の巣(蜜の巣からは蜜蝋が取れ、神殿をともす光ともなっていた。)と蜜(蜜はみことばで、みことばは光である。)を食べ、すなわち、みことばによる豊かな交わりをし、ぶどう酒と乳を楽しまれる。イエスの血潮、贖いによる交わり、みことばの養いといった主にある交わりを楽しまれるのである。「友よ、食べよ。飲め。愛する人たちよ。大いに飲め。」(雅歌 5:1)友や愛する人たちに、共に花嫁との関係を祝うように花婿は言う。この後、heb hebnu(段落記号、段落を表わす)が入っている。庭で、友と交わりを楽しむ花婿。愛に病みつつも、もてなそうとする花嫁。時が経った。

 「私は眠っていましたが、心はさめていました。戸をたたいている愛する方の声。」(雅歌 5:2)花嫁のことばである。花嫁は、「眠っていたが、心は目覚めていた」とある。「心がさめていた」は、heb hebavar「目覚める、覚醒する、奮い立つ」という語であって、冷えているということではない。心は、花婿への思い、愛でいっぱいであったのだが、行動、実行するような元気のない状態である。以前、2章では、花嫁が作った壁の外で呼びかけていた花婿が描かれていたが、今度は、壁ではなく、戸をたたき呼びかけている。きちんと出入り口がある花婿が設けた守りの囲いの戸である。「わが妹、わが愛する者よ。戸をあけておくれ。私の鳩よ。汚れのないものよ。」(雅歌 5:2)と呼びかける花婿。汚れのない従順な鳩と・・・。「私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている。」(雅歌 5:2)聖書で、露は、天からの恵み、主の教えとして描かれる。出エジプト時、天からのマナは露とともに降った。「夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれといっしょに降りた。」(民数記 11:9)「天の賜物の露」(申命記 33:13)モーセは死ぬ前に、民に言った。「私のおしえは、雨のように下り、私のことばは、露のようにしたたる。若草の上の小雨のように。青草の上の夕立のように。」(申命記 32:2)花婿は、教えやことばを分かち合おうとたくさん携えて、眠っている状態の花嫁のもとへ、やってきたのである。花婿は、「私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている。」このように言いながら、戸をたたいている。

心を閉ざす花嫁

 「私は着物を脱いでしまった。どうしてまた、着られましょう。足も洗ってしまった。どうしてまた、よごせましょう。」(雅歌 5:3)心は愛でいっぱいである花嫁は、花婿の戸をたたく音に反応はするのだが、起きて戸を開けるのをいやがっている。閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉(雅歌 4:12)であった花嫁は、花婿の客や友人たちに、庭を開くことをいやがっていたのだが、今度は、花婿のためにも戸を自ら開けるのをいやがっていたのである。私たちが、自分の心、自分の庭の戸を主のみこころに従って他の人々に仕えることから逃げるとき、神に対して、花婿なるキリストの個人的な訪れに対してさえも、戸を閉ざしていくことになっていくのである。この花嫁の言い訳は、どうとでもなる言い訳である。着物はまた着ればよいのだし、足も再び洗えばよいのである。「どうしてまた」の原語は、強いことば、間投詞「どうしてまた、ああ!」heb hebeykが使われている。着物、「わたしはまた、あや織りの着物をあなたに着せ、じゅごんの皮のはきものをはかせ、亜麻布をかぶらせ、絹の着物を着せた。」(エゼキエル 16:10)神である主が、花婿なる女性に着せた義の着物である。義を行なうことに疲れているのか、着物をぬいでいる。また、世を歩いて汚れがついてしまった足も、洗ってきれいになっているのである。母の子らにしいたげられた痛みによる花嫁の心は、もとのようないちずな純粋さはなかなか戻らない。花婿の携えてきた尊く優しい露、しずくを分かち合うには、花嫁側に、それを受け取る意志と力が必要なのである。

 「私の愛する方が戸の穴から手を差し入れました。私の心は、あの方のために立ち騒ぎました。」(雅歌 5:4)応答のない花嫁に、花婿は、手を戸の穴に差し入れた。手は「強さ、権力」という意味もある。この庭の所有権は、花婿にあり、花婿はかしらでもある。花嫁は、花婿のこの行動によって動かされ、起き上がった。初めから起きていれば、次にくるような遠回りの苦しみを通らなくてもすむものを、つまらない意地で、花嫁は、再び花婿を見失い、苦しみにあうことになる。

 「私は起きて、私の愛する方のために戸をあけました。私の手から没薬が、私の指から没薬の液が、かんぬきの取っ手の上にしたたりました。」(雅歌 5:5)花婿の手に心動かされた花嫁は、起きて、他のだれでもない花婿のために、戸をあけた。花嫁は、差し入れた花婿の手の何に動かされたのだろうか。私たちの花婿の手には十字架の釘の跡がある。十字架の苦しみにまさる苦しみはない。私たちの合う苦しみは、その十字架の苦しみに比べたら、比較にならないようなものである。花嫁は、自分のつまらない意地を、主の十字架を通して、主のために捨てたのである。そうした花嫁の手から、へりくだりの没薬が、指から滴り落ちるほどに、かたくなに閉ざしていた錠、かんぬきの上に、あふれ落ちたのである。

花嫁の覚醒

 「私は起きて、私の愛する方のために戸をあけました。私の手から没薬が、私の指から没薬の液が、かんぬきの取っ手の上にしたたりました。」(雅歌 5:5)花婿の手に心動かされた花嫁は、起きて、他のだれでもない花婿のために、戸をあけた。花嫁は、差し入れた花婿の手の何に動かされたのだろうか。私たちの花婿の手には十字架の釘の跡がある。十字架の苦しみにまさる苦しみはない。私たちの合う苦しみは、その十字架の苦しみに比べたら、比較にならないようなものである。花嫁は、自分のつまらない意地を、主の十字架を通して、主のために捨てたのである。そうした花嫁の手から、へりくだりの没薬が、指から滴り落ちるほどに、かたくなに閉ざしていた錠、かんぬきの上に、あふれ落ちたのである。

 「私が、愛する方のために戸をあけると、愛する方は、背を向けて去って行きました。」(雅歌 5:6)花嫁が、戸を開け、ふたりは抱き合ってめでたしめでたし・・・、となればよいのだが、そうはならなかった。花婿は、背を向けて去って行ったのである。戸を開けてくれることをあきらめたのではない。花婿が開けようと思えば、開けられた戸である。戒めのためでもない。見限って捨てたわけでもない。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル 13:5)と言われ、愛である性質の花婿の愛は変わらないはずである。とすれば、背を向けて去った行為も花嫁への愛によるものである。このままめでたし、めでたしとなったところで、今のままの花嫁では、このことを繰り返す。これを許すことは、花嫁のためにもならず、愛ではない。人に仕え、人を教え、救いに導く働きをなすように願われている花嫁なのである。花嫁には、そのように成長してほしい。花婿は、花婿の客のためなら、洗ったばかりであっても、矯正されてではなく、喜んで足を汚し、喜んで起きるようになることを花嫁に望んでおられたのである。花嫁の悪い態度は、改められなければ、花嫁の成長はなく、花婿も近づけないのである。「母の子らが私に向かっていきりたった(雅歌 1:6)から、私は愛に病んでいる(雅歌 2:5)。だから、私はこの囲まれた守りの中で、何もせずに、ただ花婿であるあなたを愛し続ける。」ではいけないのである。花嫁は、敵をも愛し、敵にも仕えることを学ぶ必要があった。戸を開けなかったのを悔いるだけでは、不十分であり、更なる愛、犠牲を払っても愛する至高の愛を学ぶ必要があったのである。今までの花嫁も、多少の犠牲愛は持っていただろう。しかし、自分がの傷つかない、害になるほどの損害を受けない程度の犠牲であった。犠牲がひどくなると、文句が出る程度の犠牲であった。母の子らにぶどう畑の見張りをさせられると、立てなくなる程度のものであった。主の言われる愛は、敵を愛し、その敵のためにいのちを捨てるほどの愛である。いのちを捨てるという場面に遭遇したこともなかった花嫁にとっては、この愛の差もあまりわかってはいなかったのではないか。「私は、花婿のために、孤独なのよ(花婿のせいで、孤独なのよ)・・・。少しくらい甘えたっていいじゃない。」花嫁であろうが、苦しみが続くと、こうなっていくのが、完全ではない人間の姿である。花婿は、花嫁に、そのことを学んでほしかったのである。「あの方のことばで、私は気を失いました。私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。私が呼んでも、答えはありませんでした。」(雅歌 5:6)3章で、花嫁は、自分の作った壁のため、いなくなった花婿を捜したことがあった。同じように、花婿を捜しに行く花嫁。あのときは、花婿は、そば近くで、見守っていてくれたようだ。今度も呼べば出てきてくれるかも・・・。花嫁は呼んでみる。しかし、応えはなかった。中に入れなかったために、いなくなったという状況は同じでも、前の時と同じやり方では通用しないのが信仰の世界。その時々で、取り扱いは違う。すでに学んだ同じことを学ぶ必要はない。

 「町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。」(雅歌 5:7)3章と同じである(雅歌3:3)。しかし、今度は、「彼らは私を打ち、傷つけました。」(雅歌 5:7)とある。以前、夜回りたちは、花婿を見つけることができなかった。というか、見つけてあげる気もなかったのかもしれない。3章には、その辺のことは省いてあり、何も書かれていない。花嫁は、夜回りたちに、「花婿を見ませんでしたか。」と尋ねて、その後、さっさとすぐに、しかも夜回りたちを通り過ぎてすぐに(夜回りたちの目前であったかもしれない)、自分で、花婿を見つけて、婚礼の儀をしているのである。町の巡回者としてのプライド、町のことは自分たちがよく知っているというプライドはずたずたである。しかし、3章で、花嫁といっしょに探すこともできた彼らが、花婿の捜索の手助けをしなかったのは、そのことを仕事にしているだけに、十分に職務怠慢なことであった。巡回者が捜索の協力をしないということだけでも、十分な悪であるのだが、今度は、「またか、うるさい奴だ。」と花嫁を打ち、傷つけ、花婿捜しの妨害さえしたのである。「彼らは私を打ち、傷つけました。」の「打つ」heb hebnakahは「強く打つ、殺す、なぐる、追い出す」という意味がある。「傷つけられる」heb hebpatsaは「身が裂かれる」という意味がある。夜回りたちは、今度は、前回と違い、花嫁に尋ねられたわけでもなく(前回の経験からか、力にならないとわかっていてか、花嫁は、尋ねていない)、自分たちから、花嫁を見つけ、近寄り、怒り、憎み、打ちたたき、身を裂くほどに傷つけ、追い出したのである。「城壁を守る者たちも、私のかぶり物をはぎ取りました。」(雅歌 5:7)「城壁を守る者たち」は、「町を行き巡る夜回りたち」と同じように、群れの城壁を見張る者、つまり宗教的な指導者、監督たちといったところであろうか。この者たちの中に、キリストの愛に基づいていない人がいて、彼らは、花嫁のかぶり物をはぎ取ったのである。花嫁のかぶり物とは、「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(エペソ 6:17)とあるように、救いのかぶとである。もちろん、実際に救いをはぎ取られて、なくなったというわけではない。そのようなことは、人にはできない。「打つ」heb hebnakahに「追い出す」という意味があることにふれたが、除名のような状態によって「贖われた者、救われた者」としての自尊心をはぎ取ったということである。花嫁は、このような苦しみを通らされ、徹底的にへりくだらされたのである。

花嫁の成長

 「エルサレムの娘たち。誓ってください。」(雅歌 5:8)前2回、花嫁が、エルサレムの娘たちに誓わせた誓いは、「エルサレムの娘たち。私は、・・・あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 2:7,3:5)であった。今度は、「誓ってください。」と言っている。へりくだらされた花嫁のことばである。「あなたがたが私の愛する方を見つけたら、あの方に何と言ってくださるでしょう。私が愛に病んでいる、と言ってください。」(雅歌 5:8)「私は、花婿に愛されているのよ。」というにおいをぷんぷんさせていた花嫁が(愛されているのは真実だろうが、他人にとってはいやみかもしれない)、「愛を求めている、と伝えてほしい。」とエルサレムの娘たちに頼んでいるのである。花嫁は、自分よりも立場の低い人々に、自分のためのとりなしを頼んでいるのである。「私は愛に病んでいます。すぐに開けるべきであった戸を開けませんでしたが、私はあなたを愛しています。私はこのような状態では生きていけない。喜んで足も汚します。喜んで仕えます。私は、あなたがいないと生きていけません。」花嫁にとっては、夜回りたちからの悪よりも、花婿がいなくなったことのほうが苦しいことであった。自分も決して正しい者ではない。自分も、花婿を中に入れないで(閉め出して)いたのだ。夜回りのしたことを主張するよりも、花嫁の目には、愛しか、目にはいらなくなっていた。自分のなしたことのすべての責任をとれる人間はいない。ただ主の愛にすがるだけである。愛から出るうそは、愛のない本当のことよりもまさるのである。愛に目覚め、正しくないことをした兄弟たちを訴えていた花嫁は、実感したことだろう。姦淫罪で連れてこられた女性に、イエスさまは、「罪を犯したことのない者から、石を投げよ。」と言われた(ルカ 8:7)。年取った者から順に、その場を離れ、だれもいなくなった、とある(ルカ 8:9)。これは、罪を責められた者が、正当防衛するために使うみことばではない。罪を責めてはいけないという教えでもなく(裁いてはいけないが)、罪よりも愛が大事だという教えである。ここでのイエスさまは、うそをついてかばったわけではないが、この女性が姦淫罪を犯していたことは事実である。姦淫罪を犯したという罪の事実よりも愛が大きいのである。

 「女のなかで最も美しい人よ。あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか。あなたがそのように私たちに切に願うとは。あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか。」(雅歌 5:9)エルサレムの娘たちの答えである。彼女たちは、信じ、救いを得ている信者であったが、花婿の何がそんなにすぐれているのかを、悟ってはいなかった。エルサレムの娘たちは、花嫁が、女の中でも最も美しいこと、自分たちが持っていない何かを持っていることを見て、「女の中で最も美しい人よ。」と敬意を払っているのである。キリストの花嫁は、ご自身の妻を、ご自身の目だけではなく、エルサレムの娘たちの目にも、本当に美しい者として、整えてくださるのである。しかし、エルサレムの娘たちは、花婿のすぐれていること、王の王、主の主であることをほとんど知らなかった。「花嫁のような美しい女性には、あなたの愛する方の代わりなんて、いくらでもいるでしょうに。なぜ、そんなに、悲しくつらいのですか?」エルサレムの娘たちにとっては、花嫁の花婿への熱心さが不思議に映っている。これほど美しい人が、たったひとりの花婿しか、しかも見栄えの悪いような(「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ 53:2,3)と、十字架で死なれたお方である)花婿しか求めないとは、そこには、何か隠されたものがあるのに違いない。ひどい目にあったにもかかわらず、そのこともどうでもよくなるくらいに、愛の病にかかり、熱心にたったひとりの花婿の愛を求める花嫁の姿に、人々は、やがて、詰め掛けるようになる。それほどまでに愛される花婿とは、どのような人なのかと、花嫁を見て、知りたくなってくるのである。

 花嫁にとって、すべては、益になるのである。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ 8:28)

 苦難にあったら、次の3つのことによって、後がぜんぜん違うものとなる。① 苦難をどうするか、どう乗り越えるか。② どのような幻、ビジョンを描くか。③ 誰と働くか。例えば、花嫁の苦難の場合、どうすれば、ベストであるか。
 ① 孤独という苦難を妥協せず、花婿にたよりきってのりきる。② 花婿とともに働き、遂には、兄弟たちも一致へ。③ 花婿を愛する人々(花婿の愛について知りたいと聞きにくる人々)

 祝福を祈ります。

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