『キリストの花嫁 11』雅歌 8:5-14

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 10回にわたって講解してきた雅歌であるが、とうとうというか、やっとというか、今回が、最後の項目となる。花嫁は、どうなるのか。壮大な小説を見ているようである。花嫁は、試練の苦しみを抜け、動かぬ平安をいただき、後に続いてくる者たちのために、「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 8:4)と言っていた。この4節の終わりには、heb hebnu(段落記号、段落を表わす)が入っている。花婿と花嫁は、祈りの部屋へ行き、親密な交わりを持ち、時が経っていった。

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聖書個所:雅歌 8:5-14(新改訳聖書)
『愛する者に寄りかかって-すべてに高く-』

花婿の権威を帯びた花嫁

 「自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って来るひとはだれでしょう。」(雅歌 8:5)これを花婿のことばとする人もいるが、訳によっては、男性が女性に語りかけているように訳されていたり(シリヤ語訳)、女性の語りかけのように訳されていたり(マソラ本文〔6世紀から10世紀に、伝統的な聖書本文を正確に残そうとマソラ学者によって印などをつけてまとめられた聖書〕)するようだ。雅歌は、誰が誰に言ったことばといった説明書きがあるわけではないので、誰が誰に言ったのかは、注意深く内容を照らしていかないと、わからなくなり、そのため、いろいろな見解が出てくる。3章6節では、婚礼の行列を見て、「荒野から上って来るあの美しい人はだれ。」と人々が賛嘆の声を上げているのを見てきた。ことばの意味を考えても、それと同じような周囲のことばである。ところで、「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌 2:6,8:3)と花嫁は、二度、雅歌の中で言っていた。初めからずっと、変わっていない花嫁の花婿への願いであった。花嫁は、花婿の平安、安息の左の腕を枕にし、力強い右の手で抱かれ、守られることをずっと願っていた。今、花嫁は、ずっと願っていたように、寄りかかりながら、荒野から現われた(上ってきた)のである。寄りかかりながら、と言ったが、その寄りかかりは、「私は何もできないから、守ってね。」と相手に責任を置くような甘えからの依存ではなく、花婿の愛という支配の中、花婿と歩調を合わせながら、ともに同労者として歩んでいくというような、寄りかかりである。それでは、助け合いではないかとなるのだが、「助け合い」とならないで、「寄りかかり」となるのは、相手が完全である花婿だからである。花婿である主イエスは、完全なるお方である。人間は、一人一人、不完全であり、個人でする働きには、限界がある。その人の性質、特質、特長によってなすべき働きは、それぞれ異なる。異なるからこそ、同じ志を持つ者が、多く集まれば集まるほどに(一致が欠かせないが)、完全ではない相手の弱さをカバーし合え、完全な働きとなっていくのである。「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」(ローマ 12:4,5)ここで、花嫁は、完全である花婿に、寄りかかりながら、花嫁として、地上で自分のなすべき働きをしていくのである。厳しい試練の荒野から、花婿に寄りかかって、出てきた花嫁は、キリスト者として、みごとな成長を遂げていた。

花嫁の成長

 「私はりんごの木の下であなたの目をさまさせた。そこはあなたの母があなたのために産みの苦しみをした所。そこはあなたを産んだ者が産みの苦しみをした所。」(雅歌 8:5)2章で、花嫁は、花婿を「林の木の中のりんごの木」(雅歌 2:3)にたとえた。赤く際立つ実をたわわにつけるりんごの木は、花婿の象徴であり、りんごの実(雅歌 2:3,5, 7:8)は、「主のみおしえ」「主のあかし」「主の戒め」「主の仰せ」「主への恐れ」「主のさばき」(詩篇 19:7-10)といったような、主がそのご性質から私たちに与えてくださるものであった。2章3節で、「私はその(りんごの木)陰にすわりたいと切に望」んだ花嫁の願いが、いつの間にか、ここにきて、かなっている。というか、すわるどころか、すっかりくつろいで(安息して)、花婿が目をさまさせるまで、ぐっすり寝ていたわけである。りんごの木の下は、「あなたの母があなたのために産みの苦しみをした所。そこはあなたを産んだ者が産みの苦しみをした所。」と、花婿は言っている。「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ 8:26)産みの苦しみというべきとりなしをもって、絶えず働いておられる聖霊さまは、罪の世を歩んでいる私たちを救うために、また、救われた後も、主にふさわしいものとなるために、私たちに「主のみおしえ」「主のあかし」「主の戒め」「主の仰せ」「主への恐れ」「主のさばき」といったりんごの実を与えてくださる母である。花嫁は、孤独だと思っていたわけだが、母が、花婿にふさわしい花嫁として整えるという目的をもって、りんごの木の下で、ずっと花嫁のために、産みの苦しみをしていたのである。花嫁は、孤独を感じていたときでも、ずっと、母の愛のとりなしの祈りの中にいたのである。

献身への思い

 「私を封印のようにあなたの心臓heb hebleb〔心〕)の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。」(雅歌 8:6)と、りんごの実を十分に味わった花嫁は願う。古くから、石や金属などにさまざまな模様や像を刻み、印章にして、封印として使われていた。この封印はひもを通し、胸の辺りに掛かるように首からかけていたり、または、右の手に指輪にしてつけていたりした。封印は、所有を表わす鍵の役割を果たすものであった。今の割印をイメージしていただければ、わかりやすい。ここで見られるのは、花嫁の献身の願いである。成長した花嫁は、花婿の心の上にしっかりとつけられ、また、腕の上にしっかりとつけられ、歩むことを強く願っている。腕はヘブル原語では「腕,肩,力,腕力,(政治・軍事的)力」である。花婿の力を帯びて、出て行こうとする花嫁。

 「愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。」(雅歌 8:6)神であられる主は、ねたむほど強く愛されるお方であることが、聖書のあちらこちらで、描かれている。「主であるわたしは、ねたむ神」(出エジプト 20:5)「あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである」(申命記 4:24)「主はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた。」(ヨエル 2:18)「わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。」(ゼカリヤ 1:14)などである。十字架の死という究極の愛、この死のように強い愛は、愛するものを奪う敵に対しては、よみ(抵抗し、拒むことのできない絶対的なもの)のように激しくねたむものでもある。それは、焼き尽くすすさまじい炎のように、激しいものである。不義に対しては、激しい炎をもって、対処する愛。この神の愛(アガペーの愛)を、花嫁は本当の意味で、理屈ではなく体験により、知ったのである。この愛があるなら、恐れるものなどない。この愛の中にとどまった花嫁は、この愛を受けたから、献身を表明したのである。

 続けて、花嫁が知った愛の力が述べられている。「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。」(雅歌 8:7)すさまじい炎のような勢いをもった愛。大水も洪水も、その炎を消したり、流したりできない。カルメル山で、バアルの預言者たちと対決したエリヤがもたらした神の火に見られる愛である。リバイバルの炎である。神とバアル、どっちつかずによろめいていたなまぬるい民たちの前で、エリヤとバアル預言者は、それぞれ祭壇を築いた。火をもって答える神が、真の神であると。バアル預言者たちが、まず先に、バアルの名を呼んで、祭壇のあたりを躍り回った。朝から真昼まで呼んだり、踊ったりしていたが、何も起こらない。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」というエリヤに、自分たちの愚かさを悟ろうとも、間違いに気付こうともせず、バアル預言者たちは、さらに、大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけることをした。ささげ物をささげる時(夕のささげ物で、普通午後3時頃からささげられる)まで、騒ぎ立て、頑張っていたが、当然の結果ではあるが、無駄であった。次に、エリヤが、壊れていた主の祭壇を建て直し、祭壇の周りにみぞまで掘り、全焼のいけにえの一頭の雄牛とたきぎに、たっぷりと(三度とある、三は完全数)水を注ぎ、みぞを流れるほどに、水を満たした。エリヤが「主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」と言うやいなや、天から主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言った(Ⅰ列王記 18:18-39)。主の炎が、エリヤを通じて、リバイバルを起こしたのである。同じように、花婿の愛を流す管となった花嫁から注ぎ出される大水にも洪水にもびくともしないすさまじい炎のような愛は(花嫁自らの愛であったなら、大水どころか、小雨でも、しおしおになりやすい頼りない火であるかもしれないが、火の基は、花婿なのである)、リバイバルをもたらす愛となるのである。

 「もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。」(雅歌 8:7)かつては、花婿に寵愛されていても、母の子らに愛されたい、エルサレムの娘たちや夜回りたちや城壁を守る者たちに親切にされたい(愛されたい)と、孤独を感じていた花嫁であったが、今や、愛という性質を体験的に知った。愛は、得よう得よう、欲しい欲しいと、がむしゃらにそのための努力をすればするほどに、そして、たとえ、自分の財産をすっからかんになるまでに、ことごとく与えるほどにまで、頑張っても(そのような頑張りは、自我である、私たちのなすべき努力は、「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(Ⅱペテロ 1:5-7)である。)、ただのさげすみしか得られないものであるのだと。愛は、得ようと努力するものではなく、一方的に与えるものであり、花嫁が、花婿の大きな愛に気付き、以前よりも花婿を愛するようになったと同じように、花婿を模範として与え続けていれば、愛を持っているものならば、必ず、自分が花婿に応答したように、その愛に応答してくるものなのだと、知ったのである。この後、heb hebnu(段落記号、段落を表わす)が入っている。花嫁が献身を表明して、更に時が経っていったようである。

私たちの妹へ

 「私たちの妹は若く、乳房もない。私たちの妹に縁談のある日には、彼女のために何をしてあげよう。」(雅歌 8:8)時間が過ぎて、花婿と花嫁の働きによって、妹ができた。「私たちの妹」とあるが、花嫁の献身の結果、救われてくる人は、花婿と花嫁の妹である。救われたての若い妹。まだ愛(乳房で象徴)も知らないような幼い妹。彼女が、花嫁として召される日には、「彼女のために何をしてあげよう。」と配慮する花婿。「もし、彼女が城壁だったら、その上に銀の胸壁を建てよう。」(雅歌 8:9)もし、彼女が、城壁のように妥協なく堂々と救いという土台の上に立つゆるぎない者であったなら、その上に、銀(贖い)の胸壁(ヘブル原語の「野営,駐屯,石壁,宮殿,石段,狭間胸壁」)を建てようと、贖いというゆるぎない敵からの守りを置くことを約束する花婿。「もし、城壁だったら、」という条件があることに注意したい。救われた後、ぐらぐら歩んでも敵からの守りはOKとは言っていない。「彼女が戸であったら、杉の板で囲もう。」(雅歌 8:9)もし、妹が、戸(ヘブル原語の「戸,戸口,門」)のように、出入りの多い門のように、スカスカ何でも通すような者であったなら、杉の板で囲もう(ヘブル原語の「敵意を示す、包囲する、作る、制限する、抑制する」)と言う花婿。杉は、聖めの象徴である。杉の板は、聖めの板である。聖めという柵で包囲し、制限を設けようと言っている。

 「私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。それで、私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」(雅歌 8:10)花嫁のことばである。今の花嫁は、城壁のように、妥協なく堂々と立つゆるぎない者となっている。また、花嫁の内には、やぐらのように、高くそびえ立つ愛が形成されている。花婿による銀の胸壁と、杉の板によって、つまり、花婿の配慮ある愛の守りによって、花婿の目に、平安をもたらす者のような(花婿に喜ばれているような)、今の自分になったのだという証しのことばである。この後、heb hebnu(段落記号、段落を表わす)が入っている。妹ができて、また、時が経っていった。

すべての者の中で高く上げられた花嫁

 ここからの3節は、花婿でも花嫁でもない、第3者のことばのようである。「ソロモンにはバアル・ハモンにぶどう畑があった。」(雅歌 8:11)バアル・ハモンの位置は、不明とされている。バアル(ヘブル原語の「主、夫、所有者」)、ハモン(ヘブル原語の「群集、豊かさ、富」)で、バアル・ハモンは、「群集の主」という意味がある。ソロモン(花婿)には、「群集の主」という所にぶどう畑があった(大勢の信者があった)。「彼はぶどう畑を、守る者に任せ、おのおのその収穫によって銀千枚を納めることになっていた。」(雅歌 8:11)花婿は、その群れを、「守る者、管理する者」に任せ、その者たちは、おのおのその収穫によって銀千枚を納めることになっていた。「おのおのその収穫によって」とあるが、「銀千枚」と決められている。銀は聖書では、贖いの代価として支払うものである。千は、10(十全)×10×10(三次元すべて完全)で、また、千年王国の千年の統治に見られるように、平和の象徴である。完全な平和。花婿なる夫から、花嫁なる妻を預かった者が、花嫁なる妻を夫に返す時に、銀千枚支払った例が、創世記にある。アブラハムはその生涯で、サラを、二度、妹であると偽った。二度目、ゲラルでのこと、王アビメレクは、サラをアブラハムの妹だと思い、召し入れたわけだが、夢の中で、神にとどめられた。アビメレクは、サラをアブラハムに返したとき、アブラハムではなく、サラに言った。「ここに、銀千枚をあなたの兄に与える。きっと、これはあなたといっしょにいるすべての人の前で、あなたを守るものとなろう。これですべて、正しいとされよう。」(創世記 20:16)銀千枚は、夫アブラハムからサラを預かった(実際は、だまされてであったが)アビメレクが、サラを夫のもとに返すときに、平和のうちに、サラを、すべてのものから守り、すべて、正しいとされるために、夫アブラハムに支払われたものであった。こう説明していても、ややこしいのだが、ぶどう畑を任せられた者(花婿から花嫁〔ここでいう花嫁は、今までずっと見てきた花嫁ではなく、後に続いてきた花嫁なる信者(妹)たちである〕なる信者を預けられた者)が、花婿に納める銀千枚は、預かっている花嫁なる信者のために支払われるものなのである。何のためにか。花嫁なる信者がすべてのものから守られ、すべて、正しいとされるために、である。完全な平和を保つためにである。自分のもとにいる花嫁なる信者は、自分のものではなく、花婿のものであることの表明でもある。花婿のものであることの自覚がないなら、花嫁はどのように扱われるかわからない。

 「私が持っているぶどう畑が私の前にある。ソロモンよ。あなたには銀千枚、その実を守る者には銀二百枚。」(雅歌 8:12)ぶどう畑を任された者のことばである。花婿に、銀千枚は、先程と同じ花嫁なる信者のための代価である。「その実を守る者には銀二百枚。」実を守る者への報酬。この二百枚は、銀千枚と合わせて、千二百枚となる。十二は、統治に関する数。実を守る者へ、報酬として、御国の一部の統治が任されることの型であろうか。二はまた一致の数でもある。統治は、一致をもってなされなければならない。

 「庭の中に住む仲間たちは、あなたの声に耳を傾けている。私にそれを聞かせよ。」(雅歌 8:13)12節の後半からは、ソロモン(花婿)に向かって呼びかけている。庭園の中に住んでいる仲間(heb hebcha〔1)団結した 2)共同者, 友, 礼拝者 3)仲間〕)たちは、花婿のことばに耳を傾け、指示を待っている。指示を聞かせてくれるように言っている。

 雅歌の最後は、花嫁のことばで締めくくられる。「私の愛する方よ。急いでください。香料の山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください。」(雅歌 8:14)「私の愛する花婿よ、急いで来てください。ぶどう園の管理者たちが、あなたの声を聞きたいと、指示を待っていますよ、急いでください。よいかおりをただよわせている山々の上にいるさっそうと雄々しいかもしかや若い(雄)鹿のように速やかに駆けつけてください。」花嫁は、管理者や実を守る者など、ぶどう園で働く者たち、また、礼拝者など庭に住む仲間たちよりも、高い位置に上げられ、花婿といつもともにいて、その者たちの間に立って、とりなす者となっていた。

 後半部分は、とりわけ難解な箇所であった。しかし、こうして、後半4節(11節から14節)を見ていくと、天の様子がかいま見えるような箇所であった。雅歌に出てきた人物は、花婿に対して、花嫁、エルサレムの娘たち(おとめら)、花嫁と同じ母の子であるが花嫁ではない者、町を行き巡る夜回りたち、イスラエルの勇士たち、王妃たち、そばめたち、ぶどう畑を守る者たち、実を守る者たち、庭に住む仲間たちである。重複しているものがあるかもしれないが、すべての者が、花嫁ではないことが、雅歌で明らかにされている。たとえで、奥義が語られる理由は、「確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟ら」ない人たちがいて、その人たちが、「悔い改めて赦されることのないため。」である(マルコ 4:12)と、主イエスは言われた。雅歌は、御名のために、迫害などの苦しい中におかれ続けているクリスチャンたちに、多くの慰めを与え続けている愛にあふれた書簡である。

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