神よ、どうしてですか

「その時、アハズ王はアッシリヤの王たちに人を遣わして、助けを求めた。」(Ⅱ歴代誌 28:16)

ユダのアハズ王は、主の目にかなうことを行なわず、異教のバアルの偶像を造り、異邦の民の忌むべきならわしをまねた。
自らの子供たちをも、偶像礼拝のために、火の中をくぐらせることもした。
その結果、主の怒りがユダに臨み、同朋のイスラエルの手に渡されることとなった。
同朋イスラエルが攻めてきて、ユダの勇士たちを殺し、女・子供たちをとりこにし、分捕りものを首都サマリヤに持ち帰った時、主は預言者を遣わし、イスラエルの行き過ぎた行為をとがめられ、とりこを帰すように言われたのであった。
分捕りものを持たせたとりこが帰された「その時」、アハズは、敵のアッシリアに助けを求めたのであった。
しかし、アッシリアは、アハズの力とはならず、アハズは主に対して不信の罪を増し加えていった。
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何かわざわいが起こった時、神はひどい方だと思うことがあるかもしれない。
しかし、真実はそうではない。
神は愛である。そのことは、揺るぐことのない真実である。
滅びに向かう人間を、何とかご自身に立ち返らせようとする神の愛の御手によるムチである。
問題は、私たち人間の罪にある。
主は、ご自身の民を、必ず守られる。私たちの思いをはるかに超えた主の方法で守られる。
不信の罪の行く先は、永遠の滅び・死・苦しみである。
私たちは、迷いやすい羊である。主の前にへりくだろう。
苦しい中、神がわからなくなった時は、「わからない、わかるように教えてください」と、ありのままを伝えよう。
主は、いと小さきものたちの祈りに耳を傾けて下さるお方である。
主を信頼して、信仰を生き抜いていこう。

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