『贖いにも手順がある-律法に従って-』

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 前回、信仰によってナオミとルツの連携した行動とボアズの応答を見てきたが、その関係性の中には互いを思いやる愛が流れていた。互いがそれぞれの立場で信仰によって行動した結果、キリストの贖いの型としてルツの物語は聖書に残り、それだけではなく、キリストの系図につながる神の計画が進められていったのである。ナオミとルツ、ボアズのうるわしい関係性に教会の原点を見させていただいた思いがした。続く今回の4章は、ルツたちのために行動を起こそうと町に着いたボアズが門のところにすわって第一の買戻しの権利を持つ親類に会うところから始まっている。

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聖書個所:ルツ記 4章1節~22節(新改訳聖書)
贖いにも手順がある-律法に従って-』

町の門で

 3章では、ボアズのところに行っていたルツが姑のナオミの待つ家に戻って、事の成り行きを話したところ、ナオミに期待しつつ待つように言われたところまでを見た。神に期待しつつ、待つルツとナオミ、「一方、ボアズは門のところへ上って行って、そこにすわった。」(ルツ 4:1a)イスラエルの町の多くは城壁があり、城壁に造られた門を通って出入りするようになっていた。門の前には広場があり、そこではいろいろな交流がなされていて、市場が開かれたり、裁判が行われたりする場所でもあった。町に着いたボアズはその門のところへ行って、すわった。「すわった」という動作にどれくらいかかるかわからないが待とうというボアズの姿勢が感じられる。すると、ちょうど、ボアズが言ったあの買い戻しの権利のある親類の人が通りかかった。」(ルツ 4:1b)「すると、ちょうど」と、出来すぎているかのように、話は進む。神の御手の中である。ボアズは、ちょうど通りかかった親類を呼び止めた。「ボアズは、彼にことばをかけた。『ああ、もしもし、こちらに立ち寄って、おすわりになってください。』彼は立ち寄ってすわった。」(ルツ 4:1c)「ああ、もしもし、こちらに立ち寄って、おすわりになってください。」は、日本語訳ではわからなくなっているが、heb hebcuw (離れる, 脇へそれる)の命令形が使われていて、かなり強めの呼びかけになっている。ボアズの身分の高さが表されている。何かの用事があり、出かけようとしていただろう親類は、ボアズに呼び止められて、立ち寄ってすわった。この声掛けは、身分が高い者からの、数分で立ち話で済ませられる内容の話ではない丁重な呼びかけであった。

 「それから、ボアズは、町の長老十人を招いて、『ここにおすわりください。』と言ったので、彼らもすわった。」(ルツ 4:2)ここには、律法に従って、話を進めようとするボアズの姿勢がある。ボアズは、証人として十人の町の長老を招いて、一緒にすわらせた。十は完全数である(十全に見られる完全)。長老は民を治めるために民の中から選ばれた権力を持つ者たちである。ボアズにはすぐに十人の長老を呼び集める力があった。

証人の前での交渉

 十人の町の長老を前にして、ボアズは集まってもらった目的を第一の買戻しの権利を持つ親類に語った。「そこで、ボアズは、その買い戻しの権利のある親類の人に言った。『モアブの野から帰って来たナオミは、私たちの身内のエリメレクの畑を売ることにしています。私はそれをあなたの耳に入れ、ここにすわっている人々と私の民の長老たちとの前で、それを買いなさいと、言おうと思ったのです。もし、あなたがそれを買い戻すつもりなら、それを買い戻してください。しかし、もしそれを買い戻さないのなら、私にそう言って知らせてください。あなたをさしおいて、それを買い戻す人はいないのです。私はあなたの次なのですから。』すると彼は言った。『私が買い戻しましょう。』」(ルツ 4:3,4)律法ではエリメレクとその息子の遺産を所有する権利は、まず第一の親類に与えられることになっていたため、彼は何の躊躇もなく、「私が買い戻します」と言ったのである。律法には、次のような定めがあり、彼の脳裏にはこの個所があったのだろう。「あなたはイスラエル人に告げて言わなければならない。人が死に、その人に男の子がないときは、あなたがたはその相続地を娘に渡しなさい。もし娘もないときには、その相続地を彼の兄弟たちに与えなさい。もし兄弟たちもいないときには、その相続地を彼の父の兄弟たちに与えなさい。もしその父に兄弟がないときには、その相続地を彼の氏族の中で、彼に一番近い血縁の者に与え、それを受け継がせなさい。これを、主がモーセに命じられたとおり、イスラエル人のための定まったおきてとしなさい。」」(民数記 27:8-11)律法には、やもめに対する別の定めもあったのだが、真剣によく考えていなかったのか、遺族については重要視していなかったのか、都合の悪いことは見ないようにしているのか、彼の頭にあったのは、律法の半分だけであった。「兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、はいり、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。しかし、もしその人が兄弟の、やもめになった妻をめとりたくない場合は、その兄弟のやもめになった妻は、町の門の長老たちのところに行って言わなければならない。『私の夫の兄弟は、自分の兄弟のためにその名をイスラエルのうちに残そうとはせず、夫の兄弟としての義務を私に果たそうとしません。』町の長老たちは彼を呼び寄せ、彼に告げなさい。もし、彼が、『私は彼女をめとりたくない。』と言い張るなら、その兄弟のやもめになった妻は、長老たちの目の前で、彼に近寄り、彼の足からくつを脱がせ、彼の顔につばきして、彼に答えて言わなければならない。『兄弟の家を立てない男は、このようにされる。』」(申命記 25:5-9)聖書の言葉は自分の都合で偏って引用するものではなく、愛によってバランスよく引用していくものである。

 「そこで、ボアズは言った。『あなたがナオミの手からその畑を買うときには、死んだ者の名をその相続地に起こすために、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買わなければなりません。』」(ルツ 4:5)このところをヨセフォスはこう記している。「あなたは律法の半分だけを頭に入れておくのではなく、律法のすべてにしたがい行動しなければなりません。ここにマロンの妻が来ています。あなたがその土地を手に入れたいと思えば、律法の定めにしたがって彼女と結婚しなければなりません。」(ユダヤ古代誌2, p.97 筑摩書房)※ 聖書ではマフロン

 ボアズの言葉に、第一の親類はしりごみした。彼にとって、モアブの女ルツを嫁としてめとることは、財産が増えたとしても避けたいことであった。「その買い戻しの権利のある親類の人は言った。『私には自分のために、その土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。あなたが私に代わって買い戻してください。私は買い戻すことができませんから。』」(ルツ 4:6)とササーッと即答している。「私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。」ともっともらしい取ってつけたような理由を言っている。何がどうなったら、私自身の相続地をそこなうことになるというのか、私にはちょっとわからないのだが、とにもかくにも、自ら辞退してくれたわけである。神の御手の中ではあるが、神の系図に名を連ねられるような器ではなかったようである。どこを重視しているか → 「相続財産か、やもめとなった残された女性たちの生活か」、突き詰めて言えば、「自分の利益か、利益抜きの隣人に対する愛情か」、価値観の違いである。

 「昔、イスラエルでは、買い戻しや権利の譲渡をする場合、すべての取り引きを有効にするために、一方が自分のはきものを脱いで、それを相手に渡す習慣があった。これがイスラエルにおける証明の方法であった。」(ルツ 4:7)先ほど挙げたモーセの時代の「…長老たちの目の前で、彼に近寄り、彼の足からくつを脱がせ、彼の顔につばきして、彼に答えて言わなければならない。『兄弟の家を立てない男は、このようにされる。』」(申命記 25:9)がルツ記の時代には、ちょっと変化していっていたようである。そして、また時間が経って、「昔、イスラエルでは、…という習慣があった」と言っているように、この習慣もルツ記が書かれた時代(ルツ記の終わりにはダビデの名が出てくるので、ダビデ時代以降の著作である)には無くなっていたようだ。聖書のことばは廃れないのだが、このように時代とともに変化する個所もある。聖書の神の命令は、軍隊の命令のように、上の命令は絶対であり、疑問に思っても、誰かをふみにじっても従わないといけないといった類のものではない。「俺様が右と言ったら、左であっても右だと思え。(間違いだと思っても従え)」と言われ従っていくと、支配的なマインドコントロールから抜け出せなくなっていくだろう。やもめとなった兄弟の妻をめとる規程を、聖書にあるからと言ってこのまま現代に当てはめる人はいないだろう。だからといって、自分が思う勝手な解釈をしてよいわけでもない。聖書の命令は、その命令を言われた神の本質(神は愛である)を知り、本意を理解して、喜んで愛の命令を実行する(その命令は結果として私たちの益となる)といったものである。

 「それで、この買い戻しの権利のある親類の人はボアズに、『あなたがお買いなさい。』と言って、自分のはきものを脱いだ。」(ルツ 4:8)こうして、当時の証明の方法で、買戻しの権利は、十人の証人と周囲にいたであろう民の前で、合法的にボアズに移ったのであった。

合法的な権利移譲

 「そこでボアズは、長老たちとすべての民に言った。『あなたがたは、きょう、私がナオミの手から、エリメレクのすべてのもの、それからキルヨンとマフロンのすべてのものを買い取ったことの証人です。さらに、死んだ者の名をその相続地に起こすために、私はマフロンの妻であったモアブの女ルツを買って、私の妻としました。死んだ者の名を、その身内の者たちの間から、また、その町の門から絶えさせないためです。きょう、あなたがたはその証人です。』」(ルツ 4:9,10)声高らかに喜びとともに宣言するボアズが見えるようである。

 ボアズやナオミやルツの人柄によるのか、そこにいた民や長老は満場一致で、祝福の言葉を述べている。しかも、ここで挙げられているのが、イスラエルのすべての民の源である「ラケルとレアのふたり」ユダ族の源である「タマルがユダに産んだペレツの家」であり、モアブの女であるルツが民の期待の星のような存在となっているのである。「すると、門にいた人々と長老たちはみな、言った。『私たちは証人です。どうか、主が、あなたの家にはいる女を、イスラエルの家を建てたラケルとレアのふたりのようにされますように。あなたはエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名をあげなさい。また、主がこの若い女を通してあなたに授ける子孫によって、あなたの家が、タマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように。』」(ルツ 4:11,12)

 証人を立てずに、内々な交渉でルツをめとることもできたであろうが、ボアズは、誰にも文句を言わせる隙を与えないように事を進めた。サタンは狡猾である。荒野で四十日四十夜断食したあとのイエスをみことばを使って誘惑しようとした(マタイ 4:1-10)。ヨブは潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていたのだが、「神がヨブを守っておられるからだ。祝福して与えたものを奪うと彼は神を呪うはずだ」と言って苦しみを通るよう仕向けた(ヨブ 1:8-11)。面倒であっても、火矢を受けるような隙を与えない手順を踏むことは大切な人を守ることにもなる。その間、待つことも大切な時である。事が大きいと関連する事も大きく、インスタントラーメンのように3分待てば仕上がるというわけにはいかない。神の人類の贖いの計画は、アダムとエバが罪を犯した時から始まり、主イエスの十字架で罪の赦しの道が開かれ、完了に向けて進められている。信仰者は死を超えても(生きている信仰者も地上を去った信仰者も)、神の計画が完成する時を、期待し待ち続けている。

祝福の到来

 「こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。彼が彼女のところにはいったとき、主は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。」(ルツ 4:13)「子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。」(詩篇 127:3)とあるが、本来、子供という存在は、祝福のうちに、主がみごもらせ生まれてくるのである。子供たちは、主が与えてくださった子供として社会全体で大切に養育されるべき存在なのである。産まない社会、産めない社会というのは、どういった状態なのか、産む、産まないといった個人的な問題だけではなく、社会全体の問題も存在する。

 「女たちはナオミに言った。『イスラエルで、その名が伝えられるよう、きょう、買い戻す者をあなたに与えて、あなたの跡を絶やさなかった主が、ほめたたえられますように。その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから。』」(ルツ 4:14,15)かつて、「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」(ルツ 1:20,21)とみじめな状態で、「マラ(苦しむ)と呼んでくれと語っていたナオミだったが、ここでは女たちの羨望の的となっている。雅歌で見た「見て、見て、あの美しい栄誉ある座についた花嫁は、だれ?」とエルサレムの娘の羨望の言葉を浴びたキリストの花嫁のようなことが起こっている。「没薬や乳香、貿易商人のあらゆる香料の粉末をくゆらして、煙の柱のように荒野から上って来るひとはだれ。」(雅歌 3:6)『煙の柱のように-婚礼の時―』参照)

「見て、見て、あの美しい栄誉ある座についた花嫁は、だれ?」といったところである。『キリストの花嫁 1』で見た雅歌 4:13,14の花嫁から産み出される9つのかおりの実とガラテヤ 5:22,23の御霊の9つの実の対比によると、「没薬」は「柔和(へりくだり)」、「乳香」は「誠実( grpis〈信仰〉」にあたる。ささげものに添えられた純粋な乳香は、主の御前に立ち上る信仰のかおりとなって立ち上った。「貿易商人」heb hebnu「交易する、取り引きする、商人」)私たちと取り引き契約されるのは、神であられる主イエスである。ここは、「没薬(へりくだり)や乳香(信仰)、貿易商人のあらゆる香料の粉末(主イエスの持たれるあらゆるかおり、これは、砕かれたかおりであった)をかおらせて、煙の柱のように(柱のようにまっすぐに神の御前に立ち昇るような祈りを携え)、(試練の)荒野から上ってくるあの人はだれ。花嫁はだれ?」と参列している人々が、花嫁を見て、ためいきが出るほどの賛嘆の声を上げたのである。王と結婚したシンデレラを見る人々のような・・・。

 ここでは、ボアズの花嫁はルツなのだが、ナオミに焦点が当たっている。「七人の息子にもまさるあなたの嫁」という表現で、ルツに重きを置かないように(シンデレラガールのような世的な方向に行くことを避けるかのように)控えている。「七」もまた完全数である(神の完全さ)。キリストの花嫁は教会の型であるが、ルツ記では、ナオミ、ルツを総合しての型となっている。ルツ記に出てくるルツの名は、前の節の「ひとりの男の子を産んだ。」(ルツ 4:13)の後は出てこない。異邦人が救われて神の民の一員となることを予表し、男の子を生んだところでルツの出番は終わり、苦しみからの贖い(ナオミ)、救い主(系図)へと物語は焦点がずれることなく進む。

期待しつつ待ち望め

 「ナオミはその子をとり、胸に抱いて、養い育てた。」(ルツ 4:16)ナオミに焦点を当てて喜びが描かれているが、ルツが子供を放置していたわけではなく、共にいたことだろう。ルツの名が出てこないのは、異邦人であるからとか差別的にとか、なかったかのように描写を避けているわけではなく、贖いの観点からである。

 「近所の女たちは、『ナオミに男の子が生まれた。』と言って、その子に名をつけた。彼女たちは、その名をオベデと呼んだ。オベデはダビデの父エッサイの父である。」(ルツ 4:17)ルツに男の子が生まれたのだが、ここでも「ナオミに男の子が生まれた。」と一貫して語っている。ルツの物語のルツ記なのだが、あえて「ナオミに…」と書かれている。「彼女たちは、その名をオベデと呼んだ。」名づけられた「オベデ」は、「仕える者」の意を持つダビデの祖父である。ヨセフォスのユダヤ古代誌2では「彼女はその子を女たちの相談によってオベデと呼んだ。」とあり、神と人々に仕える人という周囲の信仰による期待を担って名づけられたようである。

 ルツ記は、ユダの息子のペレツからダビデ王までの系図の一部で締めくくられている。永遠から永遠に続かせるかのように、ペレツからダビデまでの系図を記している。「ペレツの家系は次のとおりである。ペレツ(マタイ、ルカでは「パレス」)の子はヘツロン(マタイ、ルカでは「エスロン」)、ヘツロンの子はラム(マタイでは「アラム」、ルカでは「アルニ」「アデミン」の2人)、ラムの子はアミナダブ、アミナダブの子はナフション(マタイ、ルカでは「ナアソン」)、ナフションの子はサルモン(ルカでは「サラ」)、サルモンの子はボアズ、ボアズの子はオベデ、オベデの子はエッサイ、エッサイの子はダビデである。」(ルツ 4:18-22)マタイ 1:1-17にはアダムから、ルカ 3:23-38にはアブラハムから、それぞれダビデ以降のイエス・キリストまでの系図が載っている。イエス・キリストは永遠に続く神であり、アダムを造られた神もまた永遠である。

 マタイとルカの系図の同じ部分を見てみよう。「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが 生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれた。」(マタイ 1:3-6)「アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。」(マタイ 1:17)マタイは十四代に重きを置いている。

ダビデの子、エッサイの子、オベデの子、ボアズの子、サラの子、ナアソンの子、アミナダブの子、アデミンの子、アルニの子、エスロンの子、パレスの子、ユダの子、」(ルカ3 31-33)

 ダビデ以降キリストまでを見ても、書簡によって系図に多少の食い違いがあるのだが、これは、必要に応じて書かれた違いであり、だからと言って真理に影響するものではない。聖書の系図で重要な事はその書簡が意図する系図の流れである。(マタイとルカのダビデ以降の系図にも違いがあるが、それはマタイはヨセフ側、ルカはマリヤ側の系図によってイエスの系統がダビデの血筋であることを示しているからである。)

 こうしてルツはボアズと結婚してしあわせに暮らしましたとさ、めでたし、めでたしでは終わらないルツ記は、信仰による神の贖いについて、新約にも通ずる物語となっている。

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