『落ち穂拾い-神の保護により-』

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 前回は、モアブに避難していたナオミが、苦難を経て、嫁のルツとともに帰郷したところまでを見た。続きを見ていこう。

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聖書個所:ルツ記 2章1節~23節(新改訳聖書)
『落ち穂拾い-神の保護により-』

ボアズの畑に導かれ

 「ナオミには、夫の親戚で、エリメレクの一族に属するひとりの有力者がいた。その人の名はボアズであった。」(ルツ 2:1)故郷ベツレヘムに、ナオミの夫エリメレクの親族にひとりの有力者(heb hebgib 勇士、権力者、金持ち)がいた。名はボアズ(「彼のうちに力がある」「俊敏さ、速い、敏速」の意)といった。

 ナオミたちがベツレヘムに着いたのは、ちょうど大麦の借り入れの始まった頃でもあった(ルツ 1:22)ので、「モアブの女ルツはナオミに言った。『どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。』すると、ナオミは彼女に、『娘よ。行っておいで。』と言った。」(ルツ 2:2)律法の規定には、次のようなものがあった。

 「あなたがたの地の穀物を刈り入れるときは、その刈入れにあたって、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの穀物の落ち穂を拾ってはならない。貧しい者と寄留者のために、それを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である』」(レビ 23:22)
 ※ 日本聖書協会. 口語訳聖書・パブリックドメイン版
(下線部「寄留者」は、新改訳聖書では「在留異国人」)

当時のイスラエルの社会では、落ち穂を拾い集める律法上の権利があり、ルツはナオミの許しを得て、落ち穂拾いに畑に出かけて行って、生活の糧を集めることにした。ルツの言葉の中に「私に親切にしてくださる方のあとについて」といったなくてもよいような修飾語がある。規定上の権利はあったが、人間には感情と感情に伴う態度があり、ルツにとっては異国の初めての土地、不安がなかったわけではないだろう。それでもルツはナオミとの生活の糧を得るため、落ち穂拾いに出かけて行くことにし、ナオミの許しを求めたのであった。

 「ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。」(ルツ 2:3)大麦を刈る人たちのあとについていったところ、意図したわけではなかったが、ナオミの夫エリメレクの親族のボアズという人が所有する畑のうちであった。よいところにつながってよかったよかった、となるところ、偶然の中に神の御手が見える。というのは、後の節で、「ほかの畑でいじめられなくても済みます。」(ルツ 2:22)とナオミが言っているところがあるが、モアブの女ということでのルツに対してのいじめがあったことが伺える。神の民イスラエル人ではない異邦人で、しかもモアブ人(ロトとその姉娘との子孫)、一度は神の約束の地を離れ、不幸の連続で帰ってきたナオミが連れてきたモアブ人の嫁に対して、どのような態度で接するかは、人それぞれだっただろう。律法には、このように書かれている。

 「もし他国人があなたがたの国に寄留し共にいるならば、これをしえたげてはならない。あなたがたと共にいる寄留の他国人を、あなたがたと同じ国に生まれた者のようにし、あなた自身のようにこれを愛さなければならない。あなたがたもかつてエジプトの国で他国人であったからである。わたしはあなたがたの神、主である。」(レビ 19:33,34、出エジプト 22:21, 23:9, 申命記 24:14も参照)
 ※ 日本聖書協会. 口語訳聖書・パブリックドメイン版
(「寄留の他国人」は、新改訳聖書では「在留異国人」)

在留異国人や貧しい者ややもめといった社会的立場の弱い者への配慮である。神の律法下にある人たちであっても、神や神が与えた律法をどのように捉えているかでずいぶんと異なってくる。自分の益になりそうもないと思える人や取るに足りないと見られる人に対する態度で、人の本性は現れる。

 ルツがボアズの畑のうちで落ち穂を拾い集めた「ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。『主があなたがたとともにおられますように。』彼らは、『主があなたを祝福されますように。』と答えた。」(ルツ 2:4)「ちょうどその時、」ここにも神の御手の中での偶然があり、畑の視察のためなのか何かの用事のついでなのかはわからないが、ボアズが町からやってきた。時は、士師記も終わりに近づいているような時期(ダビデの曽祖父の時代、「サムソンが死ぬと、大祭司エリがイスラエル人の指導者になった。そして彼の治世中に、イスラエル人の土地が飢饉に見舞われて苦しんだことがあった。」(ユダヤ古代誌2, p93 筑摩書房))であるが、ここには「主」への信仰の存在が表されている。ボアズの雇用者への挨拶は「主」を中心とした相手(使用人)への祝福の挨拶であり、挨拶を受けた使用人たちの返しの挨拶も「主」を中心とし、雇用主ボアズへの祝福を返している。ベツレヘムに向かう時のナオミとルツのやり取りもそうであったが、権威者である雇用主と使用人との間の主にあっての相互の麗しい平和な関係が見えるようである。

 ふと、ボアズが畑に目をやると見慣れない若い娘の姿があった。「ボアズは刈る者たちの世話をしている若者に言った。『これはだれの娘か。』刈る者たちの世話をしている若者は答えて言った。『あれは、ナオミといっしょにモアブの野から帰って来たモアブの娘です。彼女は、『どうぞ、刈る人たちのあとについて、束の間で、落ち穂を拾い集めさせてください。』と言い、ここに来て、朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています。』」(ルツ 2:5-7)ここで、ボアズはルツについてのことや、ルツの働きぶりを聞いた。ルツのことを使用人から聞いたボアズは、ルツに声をかけた。

ボアズの並みならぬ親切

 「ボアズはルツに言った。『娘さん。よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしてはいけません。私のところの若い女たちのそばを離れないで、ここにいなさい。刈り取っている畑を見つけて、あとについて行きなさい。私は若者たちに、あなたのじゃまをしてはならないと、きつく命じておきました。のどが渇いたら、水がめのところへ行って、若者たちの汲んだのを飲みなさい。」(ルツ 2:8,9)初めに「よく聞きなさい。」と、重要なアドバイスだということを告げている。「ほかの畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしてはいけません。私のところの若い女たちのそばを離れないで、ここにいなさい。」含みをもったようなボアズの言葉である。ほかの畑へ行ったらどうなるというのだろうか。「私は若者たちに、あなたのじゃまをしてはならないと、きつく命じておきました。」落ち穂を拾わせまいとじゃまされ、糧を得られず(生死にかかわる)帰ることになるのだろうなということがここからは見て取れる。ボアズの畑であっても「きつく命じて」おかないといけないくらいに、イスラエルの社会に浸透していたのだろう。

 神の愛を目で見える形で具現化される前の旧約の時代である。いじめやハラスメント、虐待は、する側が自分の価値観から外れ、自分の価値観に従わない(気に入らない)者を排除しようとする時に起こりやすい。人が群れるところ、いじめは大小どこででも見られ、昨今のニュースでも、子供への虐待や学校でのいじめの問題がよく流れている。自分を立てて他を落とすための強い批判の言葉を耳にすることも多い。神の民であっても、神の律法を愛で解釈し受け取るか、権力による絶対的な命令と取るかによって、かなり違ってくる。これは、律法重視の旧約時代だけではなく、キリストが神の愛を示していかれた新約以降の時代においても同様である。神が人の形を取ってこの世に来られ、神の愛を目で見える形で具現化されたのだが、これをどのように受け取るかによって違ってくる。まず、神というお方を知ることである。律法を知らなくても神を知るならば、真理にたどりつくだろう。逆に、神というお方を知らなければ、いくら聖書を学んで、文字として正しいことを実行していたとしても、パリサイ人たちのように、自分が学んだ価値観から外れた人たちを裁き迫害していくことになっていく。まず、神にどれだけ愛されているのか、今も生きて働いてくださっている神を知ることである。そうすれば、文字に仕える者とならず、愛の性質を持つ御霊に仕える者となっていく(Ⅱコリント 3:6)「愛によって働く信仰だけが大事」(ガラテヤ 5:6)だと、かつて律法を熟知し文字に仕えるあまりに、キリストにある者たちを迫害していたパウロは言っている。

 モアブ人の女であるというだけで風当たりが強いイスラエルの社会でのボアズの親切な言葉は、ルツの心深くに響いた。「彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。『私が外国人であるのを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか。』」(ルツ 2:10)ルツには、イスラエル人であるボアズが(実はハーフであるが)、見ず知らずのやもめ女である外国人の自分に、身に余るほどの親切を施してくれる理由がわからなかった。

 「ボアズは答えて言った。『あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。』」(ルツ 2:11-12)ボアズの親切の理由は、主に仕えるように姑に仕えてきたルツの様子やルツの信仰にあった。主である神のみこころを行なうこと(同じ信仰者ルツが不自由をしないよう、主にある喜びの中で主の栄光を反映させるように暮らせることを願い、ルツを助けること)であった。ボアズは、苦難を承知でナオミについてきたルツから醸し出された品性の中に主への信仰を見ていた。

 理由は「イスラエルの神」と聞き、ルツはナオミのうちに見て信じたイスラエルの神の恵みだと知った。「彼女は言った。『ご主人さま。私はあなたのご好意にあずかりとう存じます。私はあなたのはしためのひとりでもありませんのに、あなたは私を慰め、このはしためにねんごろに話しかけてくださったからです。』」(ルツ 2:13)ルツの謙遜さが現れている。

 「食事のとき、ボアズは彼女に言った。『ここに来て、このパンを食べ、あなたのパン切れを酢に浸しなさい。』彼女が刈る者たちのそばにすわったので、彼は炒り麦を彼女に取ってやった。彼女はそれを食べ、十分食べて、余りを残しておいた。」(ルツ 2:14)『酢』は酸っぱくなったぶどう酒で、これに少量の油を混ぜたもので、暑い時には渇きをいやし、食欲を増進するのに最良の飲み物であった。『炒り麦』は、まだ十分に乾燥していないまままの大麦を炒ったもので、美味とされた」(新聖書註解 旧約2〈いのちのことば社〉p159)(炒り麦=焼いた麦は芳ばしい香りを放ち、穀物の捧げものにもなる)。落ち穂拾いに来た者(貧しい者や在留異国人)が、共に食事をすることはなかっただろう。同じ食卓に着き、分け合ってともに食事をする、主の食卓のようである。「十分食べて、余りを残しておいた。」何のため?「彼女はそれを持って町に行き、しゅうとめにその拾い集めたのを見せ、また、先に十分食べてから残しておいたのを取り出して、彼女に与えた。」(ルツ 2:18)家で待っている姑であるナオミのためであった。 

 「彼女が落ち穂を拾い集めようとして立ち上がると、ボアズは若者たちに命じて言った。『あの女には束の間でも穂を拾い集めさせなさい。あの女に恥ずかしい思いをさせてはならない。それだけでなく、あの女のために、束からわざと穂を抜き落としておいて、拾い集めさせなさい。あの女をしかってはいけない。』」(ルツ 2:15-16)ボアズは、自分の畑で嫌な思いをせずに落ち穂を拾わさせてくれるように手配してくれ、飲み水を飲む自由も与えてくれ、昼食も共にし、それだけでも十分であったが、ルツのために、穂をたくさん持ち帰ることができるような手配までしてくれたのであった。(ルツの)じゃまをしてはならない」に加えて、「恥ずかしい思いをさせてはならない。」「あの女をしかってはいけない。」の命令が加えられている。こう命じないといけないような状況があったのだろうことが伺える。権威者の権威は、このように正しく生きようとする弱い人のために使われるべきである。人のための愛から出ている行為に対して、さげすんだり、恥ずかしい思いをさせたり、しかったりするとしたら、その人たちの行く先はどこなのだろうか。

流れる祝福

 「こうして彼女は、夕方まで畑で落ち穂を拾い集めた。拾ったのを打つと、大麦が一エパほどあった。」(ルツ 2:17)ルツは、夕方まで落ち穂を拾い集め(実際は、ボアズの命令でわざと抜き取って落としてもらった穂を拾い集め)、帰宅した。持ち帰った大麦の量一エパ(二三リットル)というのは、落ち穂を拾った量にしては、異常に多い量であった。その量にナオミは驚いた。「しゅうとめは彼女に言った。『きょう、どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いたのですか。あなたに目を留めてくださった方に祝福がありますように。』」(ルツ 2:19a)「ボアズという名の人の所で」(ルツ 2:19b)働いてきたと答えるルツ。ナオミは、持ち帰った大麦(炒り麦のおまけ付き)にも驚いたが、「ボアズ」の名が出てきたことにも驚いた。

 「ナオミは嫁に言った。『生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように。』それから、ナオミは彼女に言った。『その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。』」(ルツ 2:20)ルツはここで初めて、親切にしてくれたおじさんが、買い戻しの権利を持つ親戚のおじさんだったことを知ったことだろう。主の働かれる時は、面白いほどに主の恵みとしか思えない偶然が重なっていく。苦難続きであったナオミに一筋の光が差し込み、喜びがやってきた。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主」「死んだ者にも」という言葉には、ナオミには死んだ夫や息子たちへの思いが常にあり、主の恵みをかみしめ、慰められているナオミの様子が見える。夫の親族であり有力者(お金持ち)のボアズには、「買い戻しの権利」があった。「買い戻しの権利」heb hebgaal 贖う、親族の身代金支払い役を務める、復讐する、報復する、身代金を払う、土地を身代金で買い戻す、奴隷状態から身代金を支払う、個人を死から救う…)買い戻し(贖い)については、この後の章で触れるが、ルツ記を流れる重要な思想である。

 続くルツの言葉に、ルツもまた驚き喜んでいる様子が伺える。「モアブの女ルツは言った。『その方はまた、『私のところの刈り入れが全部終わるまで、私の若者たちのそばを離れてはいけない。』と私におっしゃいました。』」(ルツ 2:21)ともに神の祝福を喜び合う、麗しい姿が見えるようだ。

 「モアブの女ルツ」「ルツ」はルツ記に16回出てくるのだが、その中で「モアブの女」という修飾がついている個所が5個ある。なんとなく気まぐれにつけたわけではない。

  • 1:22 帰郷の個所 ベツレヘムに入る時
  • 2:2 落ち穂拾いに行かせてくださいとナオミに言う個所 イスラエル社会に一人で初めて出かける時
  • 2:21 ボアズの親切をナオミに語る個所 ボアズの親切がモアブ人である女に対するものであることを忘れないようにということだろうか、この後の2:22のナオミがルツに言う個所では、「この娘はうちの嫁だよ」とでも言うように、「嫁のルツ」となっている。「ナオミは嫁のルツに言った。『娘よ。あの方のところの若い女たちといっしょに出かけるのは、けっこうなことです。ほかの畑でいじめられなくても済みます。』」(ルツ 2:22)
  • 4:5 買戻しの権利を第一の権利者に話す時の個所 買い戻しを了承した親類の者に、念押しするため
  • 4:10 ボアズが買取を皆の前で宣言する個所 このモアブ人の女ルツを含め、買い取ったことを証人をつけて、イスラエルの一員となったことをイスラエル社会に認めさせるため

 ボアズに「私のところの刈り入れが全部終わるまで、私の若者たちのそばを離れてはいけない。」と言われたことを聞いて、ナオミもまた、「ボアズのところの畑ならば、いじめられなくて済む」と平安であった。「それで、彼女(ルツ)はボアズのところの若い女たちのそばを離れないで、大麦の刈り入れと小麦の刈り入れの終わるまで、落ち穂を拾い集めた。こうして、彼女はしゅうとめと暮らした。」(ルツ 2:23)めでたし、めでたし!でもよいのだが、主の計画の中、祝福はまだまだ続く・・・。

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  • 掲載している聖書講解は、落ち穂の会で語ったメッセージの内容を記しています。
  • 落ち穂の会では、新改訳聖書を使用していますが、訳を比較し、他を引用することがあります。また。著作権の都合上、著作権フリーに差し替えて掲載することもあります。いずれの訳にしても、原語ではない以上、完全にはなりえないので、翻訳を比較検討してその意味するところをくみ取る努力をしています。
      関連記事:「聖書の訳について

余談になるが・・・

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落ち穂の会の覆いとなってくださる牧者と教会を祈り求めていた時、このルツ記の聖句が照らされたことがある。そのことは、「「小羊うるちゃん物語Ⅳ」part 2 開かれた道」に記しているが、今ではなつかしく必要な道であったと回想している。

ルツ記を読み解きながら、聖書の中にある宝を掘り出し、恵みを感じ取り、分かち合える現在の会に落ち着くまでの道は、喜びばかりではなかったが、振り返ると、自分自身や会にとって、すべて必要な学びであったと思える。

落ち穂の会にとってボアズなる人物は見つからなかったが、ルツが生きた旧約時代は、ボアズを通して型としてのみ表されていたキリストが、今、新約時代以降に生きる私たちには共にいてくださる恵み、なんと幸いなことだろう。人間側の他の必要はすべて与えて下さる主を信じて、聖書に隠されている宝を大切に、主を喜びながら、ひとあし、ひとあし歩んでいこう。

God Bless You!!
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「一匹の羊」より抜粋   全文「小羊うるちゃん物語Ⅱ」一匹の羊(うるちゃんの詩)

 一匹の赤ん坊の迷子の羊が
      まきばを求めてさまよっていた。
    歩き出してすぐに、小さなまきばを見つけた。
 一匹の羊はそこにはいって
      他の羊たちの仲間になろうとした。
        いっしょうけんめいに
            仲間になろうとした。
 ある大きなめすの羊がやって来て
      そのような行為をとがめた。

    なんで仲間になれないんだろう?
  悩む一匹の羊に
     やぎが来て言った。
        こっちへおいでよ。
        あんたは私たちの仲間よ。
  悩んでいた一匹の羊は
      喜んでついて行った。

 はじめのうちは
   新しく来た羊にやぎたちは
     やさしく接した…
 そのうち、やぎは、冷たい心をのぞかせたが、
   仲間になったと思いこんでいる一匹の羊は
          気のせいかと耐えた。
 ある日、狼が群れをおそった。
    慣れているやぎたちは、一匹の羊をおいて逃げた。

    助けを求める一匹の羊に目もくれず… 

 一匹の羊は、大きな傷をおったが、
      なんとかよろよろ逃げることができた。

          力つきたとき、
      やさしい羊飼いの姿を見た。
 目がさめたとき、小さな羊の群れの中にいた。
   その中の数匹は、よく世話をしてくれた。

・・・・・

父がくれた大切なもの
   それは、他の羊に分けてもなくなることのない
         すべての羊を助けることのできるもの。

・・・・・

 ともだちになった羊が、あとを追いかけてきた。
      一匹の羊のもっていたものが
         よいものだと知っていて、
           群れにいられなくなったのだった。

群れにいられなくなった2匹の羊を
    優しい羊飼いが
        引いて
        羊の安らげるまきばへと
                みちびいた

※ 今回、一部「群れにいられなくなった2匹の羊を」部を変えています。(元は「2匹になった羊を」)

落ち穂の会 落ち穂の会

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