遠回りしないために

「すると、あなたがたは私に答えて言った。『私たちは主に向かって罪を犯した。私たちの神、主が命じられたとおりに、私たちは上って行って、戦おう。』そして、おのおの武具を身に帯びて、向こう見ずに山地に登って行こうとした。」(申命記 1:41)

主の約束の地であるカナンに入る時に、「主があなたがたのために戦われるから行け」と言われたにもかかわらず、民は耳を貸さずに不平をつぶやいた。
そのため、「主に従い通したヨシュアとカレブだけがその地に入る」と主なる神は告げられた。
今日上げたみことばは、それを聞いた民が言った言葉である。
こうなる前は、確かに主は「上って戦え」と命じられた。
自分に悪いことが起こると、「私は罪を犯した。主の言われたことをします。」となるが、これは信仰でも悔い改めでもない。
状況が悪くなったから言っているに過ぎない。
ここでは、「向こう見ず」と言われている。
状況は既に変わってしまっているのである。
「主が先だって進んでおられる」と「主の怒りをかっている」とでは、全く異なるのである。
そのような民に向かって、主は黙って滅ぼすことはなさらず、「上ってはならない。戦ってはならない。わたしがあなたがたのうちにはいないからだ。」と語られた。
これは冷たいように聞こえるかもしれないが、主の愛から出た言葉である。
この言葉にも民は従わず、打ち負かされることとなる。
この後、主は、民が泣いても聞き入れなかった。これから民は、長い年月をかけて、信仰による従順というものを教わる必要がある。
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「上れ」と言ったり、「上るな」と言ったり…、言葉は正反対だが、主がみこころを変えられているのではない。主のみこころは一つ、「信仰によって上れ」である。民の信仰が主のみこころについていけず、信仰が育つまで主はたれた。
自分の目にはどのように見えたとしても、主に聞くことが一番である。
遠回りのもとである疑い、恐れを退けて、一日一日を歩んで行こう。

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