主の熱意ー何とかして幾人でもー

「弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」(Ⅰコリント 1:22)

 パウロの救霊は、自分を捨てて、すべての人に応対できるよう、へりくだりの中でなされた。
しかし、福音を語る姿勢は、きっぱりとしたもので、混ぜ物はなく明確に伝えたのである。
それは、神であられるのに、人の姿をとって、私たち罪人のところに来て下さったキリストに通じるものであり、神の心から出たものであった。
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 愛の現れ方は個人個人、異なっている。
優しく柔和に接することは詐欺師にもできるものだ。
しかし、主の愛はそのようなものではなく、不動のものである。
ダメなことはダメとはっきり伝えることだ。
コントロールすることなく相手の意思を尊重し、待つことができるものだ。
神の名を利用して、人を自分につけようと根回しすれば、その人を神を信じるように自分のほうに誘導することはたやすいことである。
人の働きによって「救われた」人たちが本当に神なるイエス・キリストを必要としているならば、神がその人を導く。
導くのは、神であるご聖霊がなさる。心配はいらない。
人が自我で救霊の働きをしていたとしても、それを用いても神は救いに導きたいと思われている。
だから、救霊の働きをしている者が、たとえ自我の矯正を拒んでいたとしてもそのままにしているのだ。
そうしても、何とかして幾人かでも救いたいのだ。
矯正を拒んでいた者が神なるイエス・キリストにとどまり続けるなら、いずれ、必ず自我を手放す時が来る。
あなたがたは、人に見られる自我や罪につまずくのではなく、救われた人たちが、つまずきを覚えた時に、正しく導けるよう適度な正しい距離を保ちつつ関わっていなさい。

主が語られた言葉である。

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