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雅歌も後半に入ってきたので、今までの部分をまとめてみる。母の子らが花嫁に向かっていきりたったところから、始まった孤独の試練(雅歌 1:6)の中、愛に病んでいく花嫁。それを花婿にぶつけても、いやされなかった(雅歌 1:7)。そのような中、今まで、二度、花婿の臨在が感じられなくなり(雅歌 3:1, 5:6)、だんだん、花婿の存在の大切さを知り、花婿以外のことにとらわれなくなっていった(雅歌 5:8)。そして、そんな花嫁と花婿との他にはないほどの愛の絆を知ったエルサレムの娘たちが、花婿を知りたいと、花嫁のもとに、やってきた(雅歌 6:1)。やっと、他のとらわれていたことから抜け出し、花婿だけに、目を留めることができた花嫁は、最初から告げられていたのに見えていなかった花婿の居場所に気づいたのであった(雅歌 6:3)。この3節の後、 (段落記号、段落を表わす)が入っている。花婿の深い愛に気付き、愛の病から立ち上がり、エルサレムの娘たちに、証を始めた花嫁。そうして、しばらくが過ぎた。
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聖書個所:雅歌 6:4-13(新改訳聖書)
『二つの陣営の舞のように-信仰覚醒-』
花婿から花嫁への賛辞
「謙遜は栄誉に先立つ。」(箴言 15:33)とあるが、一段とへりくだった花嫁のもとに、花婿が現われ、言った。エルサレムの娘たちの面前で、花嫁に栄誉を与えるためにである。「わが愛する者よ。あなたはティルツァのように美しく、エルサレムのように愛らしい。だが、旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。」(雅歌 6:4)花婿からのことばである。花婿のことばは、いつも変わらない。状況や時間経過によって、変わることなく、いつも、「わが愛する者よ。」と花嫁を呼ばれる(雅歌 1:9, 1:15, 2:2, 2:10, 2:13, 4:1, 4:7, 5:2, 6:4)。「あなたはティルツァのように美しく、」ティルツアとは何ぞや???となるのだが、ティルツアというのは、町の名で、サマリヤの東に14㎞ほどにあるマナセの領土内にあり、その言葉の意味「快適、快さ、喜び、香り、受け入れることのできること、疑いのないこと、非常に幸福なこと、立派で一律な建物」のように、心地よいさまを表わしている。近寄りがたい美しさではなく、心地よい美しさを表現しているのである。「エルサレムのように愛らしい。」エルサレムは、ダビデとソロモンが築いた美しく整えられた小さな町であり、神の民が愛する町であった。エルサレムは聖なる町であり、その存在自体が、誉れであり、喜びでもあった。その町は、賛美と礼拝がささげられ、良いかおりの香といけにえのなだめの香りを立ち上らせている場所でもあった。「だが、旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。」美しく、愛らしくはあったが、愛玩動物のように、ただにこにこ心地よく、愛くるしいというだけではなかった。あなどれない強さを備えていた。守備力と、悪に対しては、総攻撃ができるほどの恐ろしい力を備えていた。
「あなたの目を私からそらしておくれ。それが私をひきつける。あなたの髪は、ギルアデから降りて来るやぎの群れのよう、」(雅歌 6:5)花嫁の鳩のように素直で識別力にたけていた目(雅歌 1:15, 4:1)、打ちたたかれても、花婿を捜すのをあきらめずに、追ってくる目、その熱心な一途な目が、花婿が花嫁のためにそっけなくしようと思ってもできなくなってしまうほどに、ひきつけるのであった。「あなたの髪は、ギルアデから降りて来るやぎの群れのよう、」全く同じことばを、4章1節で花婿は語った。このことばで、花婿は、花嫁の頭をおおっているのは、花婿の権威へのへりくだった従順さとかしこさであることを表わしていた。花婿の語彙が乏しくて同じことばを繰り返しているわけではない。必要のないことばを言っているわけでもない。花婿の権威の前に、さらにへりくだった花嫁への賛辞である。
「あなたの歯は、洗い場から上って来た雌羊の群れのようだ。それはみな、ふたごを産み、ふたごを産まないものは一頭もいない。」(雅歌 6:6)これも、4章2節で花婿が語ったのと一言一句違わない全く同じことばである。花嫁に拒絶されても(雅歌5:3,4)、変わらない花婿の愛である。堅い食べ物であっても良い物と悪い物とを見分け、噛み砕いて人に分け与え、みことばの食事をふるまい、霊の子供を産む花嫁。
「あなたの頬は、顔おおいのうしろにあって、ざくろの片割れのようだ。」(雅歌 6:7)これも、4章3節で花婿が語ったことばである。へりくだった愛にあふれた意志、また、愛の多くの種を含む頭と口のちょうつがいであるこめかみ、この愛で結ばれた完全といえる知識と口であった。この6章の賛辞では、4章の賛辞と似通ってはいるが、目と髪と歯と頬にのみ、ふれている。花婿のことばは途中で変わったりしない、そして、その都度の必要を語られるのである。4章は、孤独の試練の中、花婿への愛に目覚めた花嫁への、婚礼の儀の後の賛辞であった。すべてへの賛辞、「素直でへりくだりの中の識別力のある目。花婿の権威へのへりくだった従順さとかしこさを表わす髪。成長し、みことばによって、霊の子を産み出す歯。自分の罪深さを知っているへりくだりを持っているため、簡単には切れない強さを持っているくちびる。へりくだった愛で結ばれた完全といえる知識と口。愛のために戦う備えができている意志、不要な戦いはせず、守りも万全であり、祈りの勇士たちに守られている首。片寄ることのない愛のバランス、一致の愛を持つ乳房。」が述べられていた。6章で、ことばは減っていても、賛辞が減ったわけではない。試練を抜けた花嫁に対し、ここでは、へりくだり、従順、みことばの解釈の成長が特に上げられているのである。このことばで、変わらぬ花婿の愛を確認し、花嫁は平安に満たされたことだろう。
「王妃は六十人、そばめは八十人、おとめたちは数知れない。」(雅歌 6:8)ソロモンは、七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがいた(Ⅰ列王 11:3)。そのことを言っているのだろうと解すると、ああ、聖書では、女性を何人囲ってもいいんだとなるし(そんなわけはない、夫婦は一体である。)、花嫁は女性問題に巻き込まれ悲惨であるし、花嫁の存在もかすんでしまうし、だいたい数が違っている。聖書の数は意味を持つため、何らかの意味がある。これは、霊で解釈しなければいけない。小羊の婚宴にはさまざまなグループがいるだろう。信じて救われた者は、キリストの花嫁になるのであるが、この箇所には、そばめや、おとめたちが存在している。雅歌は、天に挙げられてからのことを語っているわけではない。地上での花嫁の状態が述べられている。そう考えると、そばめというのは、救われて、結婚関係を味わったにもかかわらず、法的な妻ではない者のことである。しかし、花婿との関係で見るなら、それなりの位置にいるわけである。神のみこころと一つになった関係を持っても、信仰をなんとか保ちながら、脇にそれていきがちなクリスチャンや、信じていても、神の愛まっしぐらとはいかず、それなりに自分と神を区別しているクリスチャンは数多くいる。それが、そばめであり、結婚の年齢に達しない求道者、それがおとめたちということである。満ちた信仰の王妃(花嫁、妻)は、六十人、六十は、6(人を表わす数)×10(十全、欠けたところのない完全)である。そばめは、八十人、2×2×2(縦も横も高さも2(一致の数)×10(十全、欠けたところのない完全)で、神の一致をくずさなかった人(保っていた人)である。そして、数知れないおとめたち。「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。」(黙示録 6:9)
「汚れのないもの、私の鳩はただひとり。彼女は、その母のひとり子、彼女を産んだ者の愛する子。娘たちは彼女を見て、幸いだと言い、王妃たち、そばめたちも彼女をほめた。」(雅歌 6:9)多くの王妃、そばめ、おとめたちはいるが、花婿にとっての汚れなき鳩、花嫁はただひとりであり、えり抜きの女性なのである。キリストの花嫁がたったひとりであると言っているわけではない。これほど、かけがえがない存在であるということである。黙示録 21:2 に、信者たちの群れによって形成された新エルサレムなる教会が天からおりてくる情景が描かれている。「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」(黙示録 21:2)この花嫁のように整えられた信者の群れは、ひとつである。花嫁は、聖霊である母が愛するひとり子である。神のみことばによって、子供を産まれるのは、ご聖霊である。エルサレムの娘たちの目にも、もはや、花嫁の花婿への愛による服従ぶりは、非のうちどころがないくらいに、明らかであった。エルサレムの娘たちも王妃たちもそばめたちも、口々に、花嫁を幸いだと言ってほめた。この後、 (段落記号、段落を表わす)が入っている。エルサレムの娘たちや王妃、そばめたちの目に、花嫁が際立ち始め、時が経った。
「暁の光のように見おろしている、月のように美しい、太陽のように明るい、旗を掲げた軍勢のように恐ろしいもの。それはだれか。」(雅歌 6:10)暁(明け方)の光、闇を照らしていくこうごうしい光に覆われ、花嫁はいつしか自分では気づかないうちに、他の人々より高い位置に上げられて、見おろす形になっていた。月のようにほんわりとまわりを照らす美しさを持ち、太陽のように周りを明るく元気にするような他にはない輝きを放ち、旗を掲げた軍勢のように悪に立ち向かうための防御力も攻撃力も兼ね備えている花嫁。周囲の人たちは、今までそのような人に出会ったことはなく、「それは、どなたなの?」と問いかけている。この後、 (段落記号、段落を表わす)が入っている。再び、時が経った。
解放された花嫁の役割
「私はくるみの木の庭へ下って行きました。谷の新緑を見るために。ぶどうの木が芽を出したか、ざくろの花が咲いたかを見るために。」(雅歌 6:11)花婿に会えた花嫁は、くるみの木の庭へ下って行った。「くるみ」には、「与える、分ける、分かち合う」という意味があるそうだ。くるみを割ると実が入っている部屋が分かれているのがわかる。苦しみから解放された花嫁は、へりくだって、他の人たちに、花婿から来る恵みを進んで分かち合うために、くるみの木の庭へ下っていったのである。分かち合う心にもいろいろあるが、花嫁は、自分があがめられるために上っていったのではなく、へりくだった思いから下っていったのである。「谷」 は、「流れ,ワジ,川,渓谷,急流,激流」である。激しい流れのほとりに、または、低く険しい渓谷に新しいいのちは芽吹いていないか、将来実をつけそうなぶどうの木が芽を出してはいないか、愛のざくろの花は咲いているかを見ようと、花嫁は下っていった。ただ、ああ芽が出たなとぼんやりながめて見ているだけのためではない。花婿の愛を分かち合い、芽吹いたばかりの幼い芽を、励ますためにである。
「私自身が知らないうちに、私は民の高貴な人の車に乗せられていました。」(雅歌 6:12)花嫁自身、知らないうちに、花嫁は、民の中でも高貴な人の(戦)車に乗せられていた。ヘブル原語の「アンミー・ ・<民の高貴な人>」であるが、New King James Version Bible(英国欽定訳)などは、これを固有名詞アミナダブとして訳し、口語訳や米標準訳などは、<民,同族の者>を <そばに>と読み、「わが君のかたわらに(わが高貴な人のそばに)」と訳している。この節は、雅歌の中でも破損によって、読解が難解な箇所であるそうだ。いずれにしても、花嫁は、高く上げられたということである。
「帰れ。帰れ。シュラムの女よ。帰れ。帰れ。私たちはあなたを見たい。」(雅歌 6:13)エルサレムの娘たちは、花嫁の美しさに魅せられ、もっと見たいと興奮する。「シュラムの女」については、聖書にこの節の二回だけ出てくる語であり、平和、平安の君という意味のソロモンの女性形であり、平和、平安の姫ということである(ソロモン、シュラムは、シャローム<平和、平安>の派生語である)。エルサレムの娘たちは、花嫁を、平和の姫と呼んだのである。マザーテレサはノーベル平和賞を受賞したが、キリストの花嫁は平和を作る者でもある。「どうしてあなたがたはシュラムの女を見るのです。二つの陣営の舞のように。」(雅歌 6:13)帰れ、帰れと熱望するエルサレムの娘たちに、どうしてあなたがたは、シュラムの女を見たいのかと、花婿は尋ねる。「二つの陣営の舞のように。」何のこっちゃ???と、よくわからない表現がなされている。欄外を見ると、「マハナイムの舞」となっている。マハナイム、創世記 32:2に出てくる「二つの、一対の陣営」のことである。「さてヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現われた。ヤコブは彼らを見たとき、『ここは神の陣営だ。』と言って、その所の名をマハナイムと呼んだ。」(創世記 32:1,2)ヤコブが、故郷のカナンに帰るときの出来事である。「神の陣営」とは「神のキャンプ、または軍勢」であり、宿営している軍隊のことである。この後、ヤコブは、この神の二つの(一対の)陣営に倣ったのか、兄エサウを恐れ、自分の宿営を、守るために二つの宿営に分けた。み使いを見た神への聖なる恐れ(創世記 32:1)、エサウへの恐れ(創世記 32:7)、神の救いへの訴え(創世記 32:11)、これらをこの二つの宿営に託した。この舞である。花嫁と自分たちの違いを目の当たりにし、エルサレムの娘たちの心には、神への恐れが出てきたのである。また、花嫁を揺り起こし、かきたてたりしていたエルサレムの娘たちは(そういうことをしていなかったら、花嫁が、「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 2:7, 3:5)と二度までも誓わせるようなことはしなかったであろう。)、花嫁への恐れも出てきた。そして、神への飢え渇き、救いを訴えたくなったのである。そういう思いを引き出し、明確化なされる花婿のことばである。
ここで、私たちは、幼い魂の世話をする花嫁の姿、また、なまぬるい信仰を目覚めさせる役割をもつ花嫁の姿が見て取れた。花嫁自身は、何も意識していない。ただ、喜びの中、行きたい所(くるみの木の庭)へ行き、存在していただけである。その存在自体が、他への信仰覚醒の役割をなしたのである。
雅歌は、あと2章を残すのみとなったが、花嫁はどのような成長を遂げていくのか、楽しみである。
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