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前記事では、雅歌1章11節までより、王なる花婿イエスさまの大きな愛とキリストの花嫁となる女性の初々しい愛を見てきた。王に、引き寄せられ、その深い愛を知り、奥の間から出てきた花嫁。孤独を訴える花嫁に、花婿は、銀をちりばめた金の特性の飾り輪を作ること、つまり、購いと神性、イエスの似姿で花嫁を飾ってくださることを約束した。
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聖書個所:雅歌 1:12-2:7(新改訳聖書)
『かもしかや野の雌鹿をさして-干渉の禁止―』
羊飼いの愛
王なる花婿に励ましの言葉を受けて、花嫁は言う。「王がうたげの座に着いておられる間、私のナルドはかおりを放ちました。」(雅歌 1:12)と。「わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録 3:20)と言われる王が、私たちとともに、うたげの座、つまり食事の席についてくださっている間は、花嫁は、平安に満たされて、その平安、平和のかおりが周囲にも満ち溢れるのである。ナルドは、おみなえし科の宿根草で、平安の象徴である。「あなたの産み出すものは、最上の実をみのらすざくろの園、ヘンナ樹にナルド、ナルド、サフラン、菖蒲、肉桂に、乳香の取れるすべての木、没薬、アロエに、・・・」(雅歌 4:13,14)と花嫁から産み出されるかおりのある実について書かれている箇所がある。この後は、「香料の最上のものすべて、庭の泉、湧き水の井戸、レバノンからの流れ。」(雅歌 4:14,15)と続いているのだが、かおりのある実は、ちょうど9つ(ざくろからアロエまで)である。私たちから産み出されるかおりのある実とは、何であろうか? 「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ 5:22,23)ちょうど9つある。対比してみると、ナルドは、平安となる。ベタニヤのマリヤは、十字架を目前にした主イエスに(マルコ 14:3では頭から、ヨハネ 12:3では足に)ナルドの香油をぬった。この香油は、大変香りが強く、家が香油の香りでいっぱいになった、とある(ヨハネ 12:3)。強い香りゆえに、ピラトの法廷に、ヴィア・ドロロサに、ゴルゴダの丘にと、埋葬されるまで、香り続けたことだろう。平安、平和をもたらした主の十字架の香りである。
次に、花嫁は、花婿を、2つのものに例える。「乳房の間に宿る没薬の袋」と「エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花ぶさ」である。「私の愛する方は、私にとっては、この乳房の間に宿る没薬の袋のようです。私の愛する方は、私にとっては、エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花ぶさのようです。」(雅歌 1:13,14)没薬とは、ミルラという植物の樹脂であり、古くから、通経薬(月経を通じさせる薬)、胃薬、うがい薬、ミイラ作りの薬として用いられてきた。没薬は、柔和、へりくだりを象徴する。当時の女性は、自分の体によい香りを漂わせる香水の代わりとして、におい袋を胸元につけた。花嫁にとって、よい香りを放つ柔和、へりくだりのかおりの源は、愛する花婿である。乳房の間=心の中心に宿るへりくだりは、イエスさまによる。また、エン・ゲディとは、「子やぎの泉」という意味である。そこは、死海の西岸中心にあるオアシスの地で、石灰岩の裂け目から泉が湧き出るとともに、死海水面200メートルの高さからも滝が落ちて、美しく深い泉をつくっているそうである。ヘンナ樹は、高さ2~5メートルの潅木で、多数の花をつけ、香りも高い。化粧やしみを隠すためや香水などにも使われ、また、皮をなめすときや、堅くしたりするときにも使われた。ヘンナ樹は、喜びを象徴する。しみやしわを主におおってもらうことは、喜びである。また、「主を喜ぶことは、あなたがたの力である。」(ネヘミヤ 8:10,欄外)というが、皮をなめす時に、堅く強くするヘンナ樹は、まさに喜びの象徴である。美しいきれいな泉のそばの多くのおいしそうな実をつけているぶどう畑、その中にあるよい香りを放ち、喜びの種を多くならせるヘンナ樹の花房に、花婿を例えているのである。まことに、主イエスは、へりくだりのかおりの源であり、おいしい実とともに、よい香りと多くの喜びを与えてくださるお方である。この後、 (段落記号、段落を表わす)が入っている。段落が変わる。
花婿は告げる。「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ。」(雅歌 1:15)2度繰り返されている「なんと美しいことよ。」ということばから、花嫁としての孤独の苦しみから目を上げ、花婿が与えるへりくだりと、喜びを理解した花嫁への思い、感嘆ぶりが伝わってくるようだ。鳩の目は、素直で優しい。その目を花嫁に当てはめている花婿。この柔軟に主の思いを受け取る花嫁を花婿は、このように、感嘆して喜んでくださるのである。
花嫁は返す。「私の愛する方。あなたはなんと美しく、慕わしい方でしょう。私たちの長いいすは青々としています。」(雅歌 1:16)まことに、雅歌は、比喩が多く、主を知ることなしには、理解できない、奥深く主の愛情にあふれた書簡であるとつくづく思う。「私を美しいなどとおっしゃいましたけど、美しく慕わしいのはあなたです。」と花嫁は言っているのである。「長いいす」は、休息の場を表わす。「青々としています。」は、 (新鮮な)」である。想像していた特上のゴージャスな牧場ではないけれど、花嫁の霊の目は開かれた。こここそが、最上の求めていた安息の牧場であったと。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」(詩篇 23:1,2)乏しいことがなく、安息の新鮮な牧場にいたことに、花嫁は気づいたのであった。こうして見ていくと、私たちは、王であり、羊飼いである花婿が、雅歌1章に表わされていることを知ることができる。
「私たちの家の梁は杉の木、そのたるきは糸杉です。」(雅歌 1:17)花嫁は、ここで、花婿と花嫁の家についてふれている。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(Ⅰコリント 3:16)とパウロは言っていることをふまえ、この霊的な家について見ていく。花嫁の内には、内なる家、霊的な家が成長してきたのである。家の梁、梁は建物の内部に見られるように、内部の構造であり、壁の中や天井で支えとして使われるものである。この支えは、杉の木(レバノン杉)でできていた。杉の木とは何を意味しているのか? 民数記19章にその答えを見出せる。罪のためのきよめについての神の定めが書かれているが、汚れをきよめる水を作るために保存される灰を作るときに、ヒソプや緋色の糸とともに使われるのが、杉の木であった。霊の家は、きよめという支え、基礎の上に成り立つものであることを忘れてはならない。次に、たるきであるが、たるきは屋根を形づくるものである。糸杉は、果樹園の防風樹の生垣に用いられている木である。樹脂を含むこの木は、腐敗しにくい。聖ピエトロ大聖堂の扉は、この糸杉で作られているそうである。このような腐敗しにくく風よけに適している木で守られた家は、さぞかし安全で強いことだろう。
比喩ばかりで、ため息が出てきそうだが、なぜ、このように、困難なたとえで、雅歌はつづられているのか。主の愛の宝庫である雅歌、イエスさま自身のことばで言うなら、「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」(マタイ 13:13)である。「すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。『なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。』イエスは答えて言われた。『あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』」(マタイ 13:10-15)イエスさまの愛に自らの欲で近づかないためにである。
愛のことばの交し合い
花嫁は続ける。「私はシャロンのサフラン、谷のゆりの花。」(雅歌 2:1)シャロンは、地中海沿岸のヨッパの町から北にカルメル山まで続いている平原のことである。エルサレムからは遠く離れている。「サフラン」は口語訳や新共同訳、New King James Version Bible(英国欽定訳)は、「ばら」と訳され、文語訳は、「野花」と訳されている。赤い小さな花で、シャロン平原ならどこにでも見られるようなありふれた花である。「谷のゆりの花」も日本人は、大きなやまゆりやおにゆりを想像しやすいが、イスラエルの野にあるアネモネのような可憐な花であると思われる。ここで、花嫁は、花婿に美しいと言われても、エルサレムの洗練された娘たちに比べると、自分は、洗練されていない一輪の野花であり、谷の中にうもれるようにひっそりと咲く野花であると、けんそんに言っているのである。
このような花嫁のことばを受けて、花婿は言う。「わが愛する者が娘たちの間にいるのは、いばらの中のゆりの花のようだ。」(雅歌 2:2)私の愛する花嫁が、エルサレムの他の娘たちの間にいることは、とげだらけのいばらの中のゆりの花のように、美しいと告げる。ゆりは、いばらのとげが当たって痛いかもしれないが、いばらの中にあって、ゆりの美しさは、花婿の目には、いっそうきわだっているのである。
今度は、花嫁が返す。「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。」(雅歌 2:3)聖書には、しばしば、人を木に例えて描いている。イエスさまがおいやしになった盲人は、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」(マルコ 8:24)と言った。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」(ヨハネ 15:5)イエスさまはご自身をぶどうの木に例えた。同じ実のなる木でも花嫁は、「林の木の中のりんごの木」と言っている。他の若者たちと比較すると、実のならない他の木の中で、花婿は一際目立ち、赤く際立つ実をたわわにつけるりんごの木のようだと言っているのである。ぶどうは多くの木の中にあると、目立たない色の果実であるから、ここではりんごの木となっているのではないかと思う。花嫁は、そのりんごの木陰で、つまり覆われ、守られて、休むことを切に望んだ。実のないスカの木の木陰で休んだとしたら、お腹がすいても満たしてもくれず、のどが渇いても潤してももらえず、見栄えばかり立派で、飢え乾いてしまうが、多くの実をつけたりんごの木陰は、その実がのどもお腹も満たしてくれることだろう。実がなく、葉っぱばかりをつけていたいちじくの木をイエスさまがのろわれたことを思い出す。「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。」(詩篇 19:7-10)とあるが、主が、私たちに与えてくださる食物は、蜜よりも、蜂蜜の巣のしたたりよりも甘いのである。
「あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。」(雅歌 2:4)直訳すると「ぶどう酒(宴)の家に連れて行った。」である。そうして、花嫁は、喜びの宴の席に伴われて行ったのである。主がくださった食物は、私たちをどんな境遇にあっても喜びで満たしてくださるのである。「私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています。」(Ⅱコリント 7:4)とパウロが言えたのは、主によって酒宴の席に伴われたからであった。旗は、勝利を意味する。花嫁の頭上にはためいている主の勝利のしるしは、愛であった。愛が、勝利の要なのである。主の愛にとどまり続け、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、主を愛すること、相互の愛である。
愛が要であることは、花嫁も知っているのだが、先週見てきたように、兄弟たちのしいたげによって、無気力になっている花嫁は、愛する力も出てこない。そこで、花嫁は言う。ここまでの花婿の語りかけで、花嫁は、次のように言う力を得たのである。「干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。」(雅歌 2:5)こんなに愛のことばをもらって、やっと、花嫁は、「力を得たい、元気づきたい、私は愛に病んでいる。」と言えたのであった。「干しぶどうの菓子」は、「干しぶどう」とは異なる、ケーキ状に圧縮したぶどう菓子のことである。ぶどうの実そのままよりも、圧縮しているので、多くの実を口にすることができる。シナイ修道院では、今日でも旅人を元気づけるために、この種のケーキを出しているそうだ。そのぶどうの実の食物、ぶどうの木からとれる食物、主イエスから直接いただく食物は、私たちを最も力づける食物である。「りんご」も先ほど見たように、「主のみおしえ」「主のあかし」「主の戒め」「主の仰せ」「主への恐れ」「主のさばき」(詩篇 19:7-10)といったような食物である。花嫁は、無気力で、愛する力が出てこないことを「私は愛に病んでいるのです。」と表現している。「病む」は、 「病気になる、病気である、悲しい、弱くなる、懇願する、自分で病気にかかる、病気にされた、疲れた、弱くされた、傷つけられる」などの意味である。
より強い愛を求め、愛に病む花嫁は懇願する。「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌 2:6)同じことばが、8章3節でも言われている。左側の腕の付け根には心臓がある。母親が左側の腕に赤ん坊の頭がくるように抱くと、心音によって、赤ん坊は安息できる。そうすることによって、赤ん坊は、母に守られているという愛を感じるのである。左の腕は、平安、安息の象徴である。「主よ。あなたの右の手は力に輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く。」(出エジプト 15:6)「あなたの右の手は義に満ちています。」(詩篇 48:10)「私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし、あなたの右の手が私を救ってくださいます。」(詩篇 138:7)他にも多くあるが、右の手は、力、救いとして表わされている。主の左の腕を枕に安息し、主の力強い右腕に抱かれ守られることは、なんと心地よいことか。
「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 2:7)雅歌に3回繰り返され、念をおされていることばである。花嫁は、今度は、エルサレムの娘たちに、お願いする。「かもしかや野の雌鹿をさして、誓いを立てることを。」かもしかや野の雌鹿は、「純粋さ」を表わし、誓いの純粋さの意味であろうとある註解書には書かれている。私は、後の9節で花婿のことをかもしかや若い鹿に例えていることから、ここは、主なる花婿の象徴であると思える。誓いのゆるぎなさを表わしている。「山々をとび越え、丘々の上をはねて」(雅歌 2:8)花嫁のもとに馳せてくる花婿の性質。かもしかが駆けてくるさまは、軽やかにすばやい。主イエスの再臨をも思わせる描写、かもしかは、主イエスの象徴である。野の雌鹿は、鋭い認識力を備えている。雌なので、母として例えられるご聖霊の性質のようである。ご聖霊は、私たちの心の畑の見張りをもしてくださる敏感なお方である。花嫁は、ここで、主イエスと、エルサレムの娘たちの内にも住まわれているご聖霊にかけて誓わせているのである。誓いとは、神聖なもの、何にでも誓えばよいというものではない。「軽々しく誓ってはならない。」とあるように(マタイ 5:34-36)。しょうもないものに誓っても、仕方がない。誓いにならない。完全である神にではないと、その誓いはあてにならないものになる。「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」と。花嫁は、花婿とのさらなる愛の関係を望んではいるのだが、それは、娘たちに揺すられたり、かき立てられたりして、無理やりに目覚めたいと思ってはいない。花婿との愛の関係は、花婿自身によって、なされるべきだからである。他人が干渉することではない。他人ができることは、見守り、応援することだけである。花婿だけが、花嫁の愛を目覚めさせることができるのである。
主イエスの愛がわからなくなるほど、無気力になったときは、花嫁がしているように、懇願すればよいのである。「干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。」(雅歌 2:5)と。そして、主の左の腕に枕し、右の腕でしっかりと抱いてもらうのである。ただし、その間、決して、エルサレムの娘たちによる干渉を受けないように・・・、と聖書は言う。
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