『しあわせになるために-教会の原点-』

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 前回、ルツはボアズの畑に導かれ、神の祝福の中で、ナオミとルツの生活の糧である落ち穂を拾い集めたところを見た。ボアズとその使用人、またナオミとルツの間に、ともに神の祝福を喜び合う、麗しい姿が見えるような関係性が描かれていた。ルツ記を流れる「買い戻し(贖い)」の思想が少し出てきていた。今回はその続きを見てみよう。

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聖書個所:ルツ記 3章1節~18節(新改訳聖書)
『しあわせになるために-教会の原点-』

ルツのしあわせを願って

 「こうして、彼女はしゅうとめと暮らした。」(ルツ 2:23)めでたし、めでたし!と締めくくってもよいような2章の終わりであった。

 「しゅうとめナオミは彼女に言った。『娘よ。あなたがしあわせになるために、身の落ち着く所を私が捜してあげなければならないのではないでしょうか。」(ルツ 3:1)ここにナオミの人柄が表れている。生活の糧は得られ、落ち着いてきた。「あなたがしあわせになるために」ナオミは、モアブの女やもめのルツがこの地で、後々までどうしたらしあわせに暮らしていけるか、気がかりだったのだろう。ナオミに与えられた一つの思い(ルツの)身の落ち着く所を私(ナオミ)が捜してあげなければならない」ナオミは、軽々しくは言えないような内容を、この後、ルツに語っている。「ところで、あなたが若い女たちといっしょにいた所のあのボアズは、私たちの親戚ではありませんか。ちょうど今夜、あの方は打ち場で大麦をふるい分けようとしています。あなたはからだを洗って、油を塗り、晴れ着をまとい、打ち場に下って行きなさい。しかし、あの方の食事が終わるまで、気づかれないようにしなさい。あの方が寝るとき、その寝る所を見届けてからはいって行き、その足のところをまくって、そこに寝なさい。あの方はあなたのすべきことを教えてくれましょう。』」(ルツ 3:2-4)何かが違ったら、大恥どころか、ボアズを怒らせ、落ち穂拾いも今までのようにできなくなってしまいかねないような内容である。ナオミ、ルツ、ボアズそれぞれが、それぞれの役割の中での信仰を生きていてこそ、この後の物語は、神のみわざとして進んでいく。ナオミは、重なる偶然の中に神の御手を感じ、信じて行動に移そうとするかのような非常に具体的な指示をルツに与えている。

 ここで、今までの流れを振り返ってみよう。ベツレヘムに帰って、生活の糧の必要のため、律法に従って、ルツが自ら申し出て落ち穂拾いに出かけた。親切そうな刈る人たちのあとについていったら、親戚のボアズの畑で、ちょうど畑の所有者であるボアズがやって来て、いろいろ親切にしてもらって、日々の十分な糧を得ることができるようになった。しかしそれでもその日暮らしであって、将来が見えない。

 ナオミの頭にかねてから一つの思いがあった。嫁たちの将来を考えて夫を持たせたがっていたことは、ベツレヘムへの道中でナオミが語った願いであった(「あなたがたは夫を持たないままでいるというのですか。娘たち。それはいけません。私をひどく苦しませるだけです。主の御手が私に下ったのですから。」(ルツ 1:13))。「ボアズという人の畑で働いてきた」と言ったルツに「その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。」(ルツ 2:20)とすぐに口を突いて出たのも、ずっとどこか思いのうちにあったからである。神から来た思いは、払拭しようとしても離れず残り続け、祈りの中で確信へと導かれる。律法下の旧約時代であっても、律法を守りつつ愛によって適用する者(そういう人たちは右手のすることを、左手に知らせないような、無意識な感覚で愛に生きている)に、主は祝福を惜しまれない。ナオミは、子供が飢えて死の危機に面するようなききんの中でなんとしても約束の地にとどまらなければとか、モアブ人だから無理、とかとはなっていない。文字ではなく愛に仕えていたナオミが見えるようである。「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ 5:6)とあるが、旧約時代、割礼を受ける、律法を厳守することは、神に従うという意味で大事なことであったが、律法はただ義務的に守ればよいというものではない。旧約も新約も同じくいつまでも変わることのない神のみこころであり、旧約も、愛によって働く信仰が大事なことは変わりなかった。

 ナオミは家族が生きる幸せのために約束の地カナンを離れ、その結果、異邦人のルツを嫁にしたのだが、律法に縛られず、愛によって信仰を生きていた。律法は、神の愛を形にしたものであり、文字通りではなく、それを語られた神の真意を読み解く必要がある。神の巡りあわせであるかのように、落ち穂を拾うために畑に行ったルツと出会ったボアズには、エリメレクの土地の買い戻しの権利があった。買い戻しの権利は、最も近い家族や親戚から順にあった。権利と言っているが、律法上の規定である。兄弟が生活に困窮し、奴隷の状態に陥ったり、土地を手放すことになった場合、買い戻さなければならない(レビ 25:25-参照)という決まりであった。

 律法には、また次のような規定があった。「兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、はいり、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。しかし、もしその人が兄弟の、やもめになった妻をめとりたくない場合は、その兄弟のやもめになった妻は、町の門の長老たちのところに行って言わなければならない。『私の夫の兄弟は、自分の兄弟のためにその名をイスラエルのうちに残そうとはせず、夫の兄弟としての義務を私に果たそうとしません。』町の長老たちは彼を呼び寄せ、彼に告げなさい。もし、彼が、『私は彼女をめとりたくない。』と言い張るなら、その兄弟のやもめになった妻は、長老たちの目の前で、彼に近寄り、彼の足からくつを脱がせ、彼の顔につばきして、彼に答えて言わなければならない。『兄弟の家を立てない男は、このようにされる。』」(申命記 25:5-9)「死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。」の直訳は、「死んだ者の妻は、外へ出て、見知らぬ男のものとなってはならない。」であり※1、血縁者が婚姻関係を結んで、生活の面倒と血筋を絶やさないようにする義務があった。(ちなみにこの個所の「彼の足からくつを脱がせ、」というところが、4章で第一の買い戻しの権利を持つ親類が、権利を放棄する証拠としてはきものを脱いで相手に渡して証明する習慣につながっている。)
    ※1 新聖書註解 旧約1〈いのちのことば社〉p635

ナオミの信仰による確信

 神による導きと、買い戻しと子孫繁栄がしあわせの道であるという確信をもって、そして、たとえボアズが子孫繁栄の役目を拒否したとしても、ボアズの性格や神は悪いようにはなされないだろうという信仰に立ってナオミはルツに命じたのであった。「ところで、あなたが若い女たちといっしょにいた所のあのボアズは、私たちの親戚ではありませんか。ちょうど今夜、あの方は打ち場で大麦をふるい分けようとしています。…」(ルツ 3:2-4)ちょうど今夜、ボアズが大麦をふるい分ける作業のために来るということを聞いたことで、「今この時」だと思ってのことだった。行動には、「この時」という主の時がある。神と自分だけのことではなく、関係するあらゆる物事、環境、人間の心情…すべてが整う神の時がある。ナオミは「この時」をつかんで、具体的にルツのなすべきことを指示した。

 「ルツはしゅうとめに言った。『私におっしゃることはみないたします。』」(ルツ 3:5)軽い内容ではないのだが、すぐにこう答えているルツには高ぶりがまったく見られない。自分が置かれた立場(ナオミの嫁)をそのまま受け入れ、「打ち場で寝るボアズのところに行き、その足のところをまくって、そこに寝なさい。」(ルツ 3:4)という普通に考えると従いたくないように思われる指示にも従い通している。「ユダヤ人の伝承では、この時のボアズは 80 歳、ルツは 40 歳」と言っている記事もいくつか見受けられ、伝承なので真偽は不明だが、ボアズとルツは親子ほどの年齢差があったようである。ナオミの方が年齢的に釣り合うのではないかと思うかもしれないが、ナオミ本人が、「私は年をとって、もう夫は持てません。」(ルツ 1:12)と言っているように、その気持ちはなかった。

ルツの信仰による従順

 「こうして、彼女は打ち場に下って行って、しゅうとめが命じたすべてのことをした。」(ルツ 3:6)ルツは命じられたことをすべて行った。ルツがナオミに仕え従う姿勢は、神に従う姿勢の表れでもある。ルツがこのことにもすべて従えたのは、神が与えた関係(ルツの場合、ナオミから信仰を受け継ぎ、ナオミに仕える立場)と信じ、信頼関係ができていたからである。

 「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」(ヘブル 13:17)とパウロが教会への書簡で書き送っているが、神にある指導者に従うことは、古い性質を持つ私たち人間が、神を知るための基本である。が、これを悪用して、絶対服従させ自分の都合のいいようにコントロールしようとする人たちも世の中には存在するので、盲目的に従うことは間違いである。指導者の言うことに何かしら思うことがある場合は、私たちの幸せのための助言か(口ではどうとでも言えるので、平安が伴う命令か、平安がないとしたら手放していない自分の怠慢や欲、自我等からではないか、といったことを祈って神の前に祈ることである)、その通りに従うことによって神の前に罪を犯すことにならないかといったことを考える必要がある。ルツは、ナオミの指示が、家族の幸せに通じ、律法の規定に合致してもいるため、信頼と平安のうちに自然に従い得たのだろう。

ボアズの練られた人柄

 「ボアズは飲み食いして、気持ちがよくなると、積み重ねてある麦の端に行って寝た。それで、彼女はこっそり行って、ボアズの足のところをまくって、そこに寝た。夜中になって、その人はびっくりして起き直った。なんと、ひとりの女が、自分の足のところに寝ているではないか。」(ルツ 3:7,8)豊作で一仕事終え、満腹になり、気分よく麦打ち場で寝たボアズ。そして、ボアズが寝たことを確認してこっそりボアズの足のところをまくって横たわるルツ。ボアズが夜中に目を覚ましてみると、足もとに女性が寝ているのに気づいて驚いて飛び起きた。

 「彼(ボアズ)は言った。『あなたはだれか。』」(ルツ 3:9)現代のドラマであれば、裕福な社長のところに夜中に誰かわからない女性が忍び込んで寝ていたとしたら、警戒され、通報されるような場面である。「あなたはだれか。」とあるが、「おまえは誰だ!」といったところだろう(共同訳「お前は誰だ」、ヨセフォス「おまえは何者だ」)。「彼女は答えた。『私はあなたのはしためルツです。あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから。』」(ルツ 3:9)「おおい」は、heb hebkana (翼, 端, 隅, 境界線, すそ, 先端, 末端)である。「あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。」は、「衣のすそでおおってください」ということである。「わたしがあなたのそばを通りかかってあなたを見ると、ちょうど、あなたの年ごろは恋をする時期になっていた。わたしは衣のすそをあなたの上に広げ、あなたの裸をおおい、わたしはあなたに誓って、あなたと契りを結んだ。――神である主の御告げ。――そして、あなたはわたしのものとなった。」(エゼキエル 16:8)衣のすそを男性が女性に、かけてやることは、結婚のしるしであったそうである※2。ルツは、ボアズに、「私と結婚して義父エリメレクの家系に属するものを引き受けてください。」と申し込んだのである。
    ※2 新聖書註解 旧約2〈いのちのことば社〉p159参照

 ルツの申し出に、ボアズはびっくりするでもなく、冷静に答えている(飛び起きた時は驚いていたが、ルツとわかってからその後は、何を言い出すかとドキドキ冷や冷やするわけでもなく、冷静である)。「すると、ボアズは言った。『娘さん。主があなたを祝福されるように。あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっています。あなたは貧しい者でも、富む者でも、若い男たちのあとを追わなかったからです。」(ルツ 3:10)「真実」heb hebche 良いこと, 善, 誠実, いつくしみ)であり、「先の真実」は、ナオミに仕えてベツレヘムまできたこと、「あとからの真実」は、買い戻しの権利に従って家のためにここに来たことである。「若い男たちのあとを追わなかった」の言葉に、ボアズが年齢差を気にしていることが伺える。嫁いだ先の親類とはいえ、年上の有力者のところに、このような用件で来ることは勇気をふり絞ったであろうことはルツの様子から明白である。ボアズは、続けて言っている。「さあ、娘さん。恐れてはいけません。あなたの望むことはみな、してあげましょう。この町の人々はみな、あなたがしっかりした女であることを知っているからです。」(ルツ 3:11)「このはしためをおおってください。」と恐れながらも勇気をふり絞って言葉を選んで言っているルツの様子に、怖がらないようにと懸命に励ましているボアズの誠実さが伺える言葉である。「ところで、確かに私は買い戻しの権利のある親類です。しかし、私よりももっと近い買い戻しの権利のある親類がおります。」(ルツ 3:12)この流れで、すぐにこの言葉を発しているところを見ると、自分が買い戻しの権利がある親類であることはすでに念頭にあって、「こうしたらルツたちはしあわせになるだろうがなぁ」と考えたことがあったかのようで、それがこの後の行動にも表れている。

 「今晩はここで過ごしなさい。朝になって、もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、けっこうです。その人に親類の役目を果たさせなさい。しかし、もしその人があなたに親類の役目を果たすことを喜ばないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられる。とにかく、朝までおやすみなさい。』」(ルツ 3:13)なんと素早い行動力であろうか。「朝になって、もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、」と、数時間後に行動に移そうとしているのである。「もしその人があなたに親類の役目を果たすことを喜ばないなら、」「私がなんとしても説得します」ではなく、「私があなたを買い戻します。」と言っている。自分は喜んでするという心が隠れているようだ。「主は生きておられる。」「主があなた方を祝福されるように」ではなく、「主は生きておられる。」と言って、夜明けとともに素早く行動したボアズ。信仰によったことはもちろんだが、自分の思いと合致したのだろう。でなければ、このような素早い行動はしない。ボアズが渋々、嫌だと思って義務的にするのではなく、喜んで行おうとしていることが伺えるところである。

 「こうして、彼女は朝まで彼の足のところに寝たが、だれかれの見分けがつかないうちに起き上がった。彼は、『打ち場にこの女の来たことが知られてはならない。』と思ったので、『あなたの着ている外套を持って来て、それをしっかりつかんでいなさい。』と言い、彼女がそれをしっかりつかむうちに、大麦六杯を量って、それを彼女に負わせた。こうして彼は町へ行った」(ルツ 3:14,15)からだを洗って、油を塗り、晴れ着をまとった姿では目立って人目に触れるが、ルツは外套をはおっていたらしい。その外套にボアズは大麦六杯を量って与え、配慮を払って、安心感をも与えてルツを帰らせ、自分は町へ向かった。

 「彼女がしゅうとめのところに行くと、しゅうとめは尋ねた。『娘よ。どうでしたか。』ルツは、その人が自分にしたことをみな、しゅうとめに告げて、言った。『あなたのしゅうとめのところに素手で帰ってはならないと言って、あの方は、この大麦六杯を私に下さいました。』しゅうとめは言った。『娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていなさい。あの方は、きょう、そのことを決めてしまわなければ、落ち着かないでしょうから。』」(ルツ 3:16-18)「大麦六杯」大麦は糧。六(heb hebshe)は3×2、3は完全数、ナオミとルツに三杯ずつといったところである。ナオミとルツのふたりの完全な生活の保障を秘めているような贈り物である。ナオミは、ボアズが早く決着をつけようといそいそと動いてくれるとわかっているようで、後は、委ねて待つだけであった。

教会の型

 今日のルツ記3章には、ナオミとルツとボアズ、相互の間に信頼と愛が見られる。「信頼」「愛」どちらも、主を信じるゆえの実である。「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意(ルツ 3:10の真実)、誠実grea grpis 信仰、信仰が生み出す性格と振舞いの誠実さ。「信頼されること」と「信頼すること」主題からの学び「2.御霊の実」、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ 5:18-23)肉の行ないを避け、神が与えてくださった信仰に生き、御霊の実を結んでいこう。

 ルツを覆い贖うボアズはキリストの型となっている。ボアズと結婚するルツはキリストの花嫁の型である。その型に、ここではモアブの女性が置かれている。イスラエルは神の人類の贖いの計画の中、神の民として立てられて置かれ、導かれ、いろいろあって現在に至る。いろいろある中で、神の民を通して、神のみこころと人間の罪、神の愛と義を教えてくださり、全人類が神の贖いを必要としていること、民族的な差別や偏りもなく、すべての人がイエスを信じることによって救われるという道を開いてくださった(「ふたりは、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』と言った。」(使徒 16:31)「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」(ローマ 10:4))、信じない者は罪に定められる(「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」(マルコ 16:16))。キリストの花嫁の中に、異邦人も含まれるということは、このように旧約にも描かれている。

 「このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ 5:18-23)の御霊の実は、旧約、新約ともに、信仰者に通ずるものである。ボアズはキリストの型、ルツはキリストの花嫁の型、ルツとナオミに見られる関係、その関係が広がって形成される教会、ルツ記に流れる信仰は教会の型となっている。教会とは、一人一人が信仰による実を結び、その関係性によって形成される群れであり、神が愛の内に働いてくださってできていくものである。 「こうして、彼女はしゅうとめと暮らした。」(ルツ 2:23)めでたし、めでたし!で終わらない神の国の世界。神の国は、「信じて救いの道に入った」めでたし、めでたし!でおしまい(救われたのだから、さあ、働け、捧げろ、祈れ、人を連れてこい)ではない(奉仕、献金、祈り、伝道といったそれらのものは、神と人への愛によって、自発的にしたくなるものである)。めでたい後に、互いの愛によって、それから続く永遠のしあわせの道を神とともに歩んでいくものであり、そのようにして神の国を形成し、結果、拡大していくものである。キリストの愛の内を歩んで、関係をつないでいこう。

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