「ヨハネの黙示録注解 恵みがすべてに」(いのちのことば社発行 岡山 英雄著)は、黙示録を理解するのにとても役立つ書籍である。
やはり、聖書は恵みに恵みを増し加える書物であるという喜びが湧き出た。
聖書の中でもヨハネの黙示録は、聖書の集大成であり、創世記から旧約、新約時代をまとめ上げて、暗闇の世の中であっても主の光を反映しつつ歩むよう励ましを与えるために書かれている。
聖書全体を矛盾なく、調和を持って描かれていることを知り、改めて驚かされた。
落ち穂の会の礼拝では、ひとりひとりの考え方を尊重しつつ、聖書を学ぶ時を持っているのだが、黙示録を22週かけて1章ずつを丁寧に学ぶ時を持った。
近年、誤った聖書概念で、666(獣のしるし)を受けないようにと、人々を恐怖に陥れるような教えが見られる。(ローマ 8:15)
確かにヨハネの黙示録には、世の終わりに、右の手か額に獣の刻印(666)を受けさせるような世の中になることが記されている。(3:16)
そして、「また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。」(3:17)とある。
これを文字通り受け止めて、666の数字がついたコードを右の手か額に埋め込まれるから、拒否して備えないといけないとする教えがもう何年も前から横行している。
最近、ますます語られているように見受けられる。
ヨハネの黙示録では、「ここに知恵がある。」(3:17)と『知恵』に目を留めさせて「思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。」と666の数字が語られている。
正統なキリスト教では、この数は他の聖書箇所でもあるように、象徴的な数字だと解釈する。
理由は…
7章では神のしもべたちに神の印が額に押されるが、実際に目に見える形で押されるわけではない。
ヘブル語を数値化すると、キリストは888になるというが、888のコードを印として実際に押されるわけではない。
神の印が目に見えない霊的なものであるように、獣の印も霊的なものである。
(聖書で6は完全数7から1足りない人間を象徴する。666はそれを完全数の3並べた数である)
獣の印とは…
獣というのは、罪がわからず欲のままに生きる。他人の迷惑を顧みず、自分の存在を誇示する。
神への賛美をしても絶えずその前面に「私の」「私に」「私が」…と出ていたバビロンの王ネブカデネザルのように。(ダニエル 2,3章)
金の欲、暮らし向きの自慢などに注目させる。(Ⅰヨハネ 2:16)
獣に仕えだすと、欲に仕えるようになり、罪を容認し、自己顕示するようになる。
それが、思想(額)や行動(右の手)に現れる。(詩編26:10)
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神の三位一体(父・御子・御霊)を真似るように、悪の三位一体がある。竜・獣・偽預言者である。
時には神のように見えるかもしれないが、そこには真実への愛はない。
悪の三位一体は神の真理を知っていて、偽物にすり替える。99%正しいようなことを言っていても、行きつく先を変えてしまう。
大きなしるしや不思議なことをして選民をも惑わそうとする(マタイ 24:24)者たちからのマインドコントロールに陥らないためには、実を見て神にあって自分で判断していくことが大切である。
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