1994年5月 日比谷公会堂で行なわれた「東京福音クルセード」という福音派の聖会にピーターワグナーとシンディ・ジェイコブスが来日し、超教派の聖会が開かれた。あれから30年弱が経過し、「レストレーション(後の雨運動)、第三の波」「リバイバル運動」「吟味なき霊的現象の歓迎」「オカルト的な霊的現象」「使徒職の回復」「新使徒運動」を歓迎する教会の中で、カルト化が見られるようになっていき、珍しくないほどにカルト化のことばが聞かれるようになった。そのような運動の中で、「悪霊の追い出し」を強調し、「霊の戦い」を重要視し、「土地の聖め」が必要だという教えが起こり、「オリーブ油等での聖め」をする信者たちが起こり、「四隅に杭を打っての祈り」や「戦いの天使ミカエルを呼び出す祈り」をする人たちも出てきて、中には、病人や弱っている人への暴力的な悪霊追い出しをしたり、素手で体内から悪霊をつかみだすというパフォーマンスをする牧師・伝道師を語る人たちも見られるようになっていった。
世界の国民性を語るジョークというものを聞いたことがあるだろうか。沈没する豪華客船から客を海に飛び込ませるために、船長が放つ言葉として、国民性をよく現わしているジョークである。アメリカ人はヒーローになりたがる性質、日本人は周囲の皆に合わせる性質などをジョークにしているのだが、日本人の多くには、「皆さん、そうしてますよ。」と言われると、安心してしまうような性質がある。これは悪いことではなく、和を大事にし、協調性を美徳とする性質でもある。また、いろいろ外国の文化を取り入れ、うまく日本流に融合させ、独自の文化に定着させていくような面にも表れている。それはそれで、よいところである。が、周囲に合わせるという性質が、聖書の福音となると話は別である。
「使徒職」への認識の差によって「油注ぎによる絶対的な権威」というものが教えられ、神への軽視による「個人的な口当たりの良い預言」を神からのものとし、「オカルト的な要素による悪霊との戦いでの勝利」をも信じることで、一般社会では「ハラスメント」としか言いようのない言動を、時には自己流のみことば解釈を用いてまでも正当化していくことが見られるようになり、正統と呼ばれていた教会の内部に融合されていくことによって※1、居場所をなくしていく信者たちが出てきた。
※1 もちろん、融和しない教会もあったが、それはそれで意図せずに閉鎖的になり、少しでも関係した者にとっては落ち着けず足を運べなくなる。
キリストの愛とかけ離れた異質な教えが教会の内部に浸透してしまい、罪を正当化していくことを繰り返していくと、結果として「罪に麻痺していく」ことになる。社会組織の中でのハラスメントは、加害者と被害者双方への配慮と心理的な対応を要する難しい問題であるが、キリスト教のカルト化にみられるハラスメントには、そこに、「神」という絶対的な権威が絡むので、より難しくなっている。キリスト教のカルト化には、神の愛に反し、聖書基準ではなく指導者の気分による「悔い改めのない罪の赦し、罪の容認」が必ず存在している。結果、聖書の言わんとしている神の愛がわからないまま、信徒は指導者依存になっていく。
左の図は、米国の組織犯罪研究者ドナルド・R・クレッシ―教授が提唱した不正の仕組みに関する理論を一般化した「不正のトライアングル」をカルト化への移行時の例に当てはめた図である。
この理論では、不正の共通の背景として、下記の3つの条件が存在するとされている。
① 不正を犯す動機の存在(不正を働こうとする動機があること)
② 倫理観の欠如および不正の正当化(不正を犯す気があること、不正を正当化する理由があること)
③ 不正を犯す機会があること(対策が不十分で不正を犯すことが可能な状態にあること)
そのため、「動機」「正当化」「機会」この3つの条件を満たさないように、事前に予防するためのリスク管理と早期に発見できるようなリスクへの対応を整備・運用することが組織としての不正対応の基本となる。
リスクというものは、意識していないと見えないものである。見ようとしなければ見えないのである。結果が出た後では、被害も大きくなる。結果として表れる前に対策を取り、予防するためには、意識をもってリスクに対するアンテナを広げ、必要な感性を高めていく必要がある。何がリスクであるかを知り、リスクに対する感度(センシティビティ)を高めることである。
逆に、リスク感度が低くなる要因が「同調」と「服従」であると言われている。「同調」とは、根拠がはっきりしていないのに、周囲の人や集団の意見や態度に合わせ、同じ行動を取ろうとする心の動きである。初めは違っていると思っていても同調していくうちに、その人の中では本当になっていってしまう。←麻痺 もう一つの要因「服従」とは圧力のもとで、不本意ながらも相手の指示に従ってしまう心の動きである。服従していくうちに、何も考えなくなって、従うことが定着してしまい、ついには、社会悪であっても従うようになっていく。
日本人の美徳である国民性が、裏目に出ることのないよう、キリスト教においても、神任せではない人間側にできる責任としてのリスク管理を心掛けるシステム作りが必要である。
コメント