聖書で見る「教会」

【教会とは】

gre grekk(教会、集会、集まり、議会)
heb hebqah(集会、集い、集団)assembly, convocation, congregation
英語のchurchは、「主に属する」の意味のギリシア語(クリエイコス)から来た語。

【神の民としての教会】

「また私はあなたに告げる、あなたはペテロ〔ペトロス(男性名詞)大岩石〕である。この岩〔ペトラ(女性名詞)ジブラルタルのような巨岩〕の上に、私は私の教会(単数)を建てる。ハデスの門〈地獄の権力〉は、それに打ち勝つことはない〈それに害を及ぼすほどに強くなく、対抗しえない〉。」(マタイ 16:18〈詳訳〉)
  ★「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ 16:16)とペテロが告白した、啓示された真理そのものの土台の上に集められた集まり。

「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」(使徒 20:28)…エペソの教会の長老たちを呼んで語ったパウロの言葉
  ★御子の血によって贖い出され、神に召し集められた集団、新しい契約の民の群れ。

「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ 4:21)
  ★神を礼拝する集まり。

【キリストのからだとしての教会】

「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ 1:22,23)
  ★いっさいのものの上に立つキリストをかしらとし、そのからだとして、つなげられた者たちの集まり。

「これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。」(エペソ 3:10,11)
  ★天にある支配と権威とに対して、神の豊かな知恵が示されるための「管」。通り良き管であるべき

「なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。私たちはキリストのからだの部分だからです。『それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」(エペソ 5:23-32)
  ★キリストと教会は一心同体であり、聖なるものとして、ご自分の前に立たせるために、愛され、養い育てられた。

「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」(Ⅱコリント 5:1-4)

「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」(Ⅰペテロ 2:5)


  ★私たち一人一人は、神の御霊が宿る幕屋である。そして、キリストを信じる者が、集められ、キリストのからだとして、一致の中に築き上げられたのが、教会である。

【聖霊の御住まい・交わりとしての教会】

「コリントにある神の教会(単数)へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。」(Ⅰコリント 1:2)

「主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる。」(ヨエル 2:32)


  ★神の恵みが具体的な形となって現われたものである教会は、それぞれの地域に存在する(地域教会である)が、その地域に限定されるものではなく、いっさいの人間的差別を越えた、公同の教会の豊かな交わり(イエス・キリストを主とする一致した交わり)の中に生かされているもの(普遍的教会)である。

「しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」(Ⅰコリント 12:11-13)
  ★一つの御霊によって、キリストのからだとなるように、バプタイズされた(バプテスマを授けられた)者たちによる共同体。

「それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」(Ⅰテモテ 3:15)
  ★真理の柱、土台。

「互いの交わりの中で互いの信仰によって、ともに励ましを受け」(ローマ 1:12)
  ★教会に期待できること。

【教会の構成】

聖書のいう教会は、建物ではなく、信者の集まり、集会である。

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ 18:20)
  ★イエスの名における集まり。

「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」(Ⅰコリント 12:28)

「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」(エペソ 4:11-15)


  ★神の召命による秩序ある集まりであり、キリストの似姿に整えるという目的がある。

「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」(ヘブル 2:12)
  ★賛美の場

「あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。」(Ⅰコリント 14:26)
  ★賛美、聖書の学び、黙示(預言)、異言、解き明かしの場・・・どれも主観で差し引くことはできない

「わたしの家は祈りの家と呼ばれる。」(マタイ 21:13)

「私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」(使徒 6:4)


  ★祈りとみことばの解き明かし

「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」(使徒 2:44-47)
  ★分かち合い、交わり、賛美  そのあり方は、すべての民に好意を持たれた → 救われる人々が起こされていった

「聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。」(Ⅰコリント 16:1,2)
  ★聖徒たちの働きのための献金

「彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。」(Ⅱコリント 8:3-5)
  ★献身、奉仕

—————
教会には、さまざまなものがあって、キリストの「教会」と名乗っているものが、必ずしも神が建てられた教会とは言えない現状がある。
イエスがかしらである教会は、上記が満たされている群れである。
教会を見て「イエスはどこにおられるのか?」と言いたくなるようであるならば、かしら(トップ)が違っているかもしれない。
健全な組織であれば、最終的には組織のトップによって治められて、組織としての実がなっていく。キリストの「教会」であれば、キリストの実である。
不要な苦しみ、被害から自分を守るには、改変でトップが変わっていないか、ありえない実ができていないか、まず知ることからである。

–> 次の記事:初期の教会~聖霊とともに

関連記事:教会の機能

コメント