預言の訓練?~小羊うるちゃん物語へのコメント~

以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。

   預言の訓練というのは、とても不思議でした。神が主権を持たれ、語られるものだと思っていたからです。
聖書的根拠として、訓練の前に次のようなみことばを引用したメッセージが語られていました。(当時のメモより)
「彼らは、預言者の一団が預言しており、サムエルがその監督をする者として立っているのを見た。」(Ⅰサムエル 19:20)→預言者のサムエルが監督者となって、ラマで預言者を集め(預言者の一団)、「預言者学校」を開いていた。預言の訓練は、聖書的であり、サムエルが開いていた「預言者学校」のようなものである。
「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」(エペソ 2:20)→預言してもらうと土台ができる。
「長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。」(Ⅰテモテ 4:14)→賜物を受けた後はヘルプが必要。
どうしたら、主の声を聞けるか?実践していくことである。なぜならば、羊は羊飼いの声を聞ける、だから誰でも主の声を聞ける。
そして、預言を受けたら、預言をもって霊的戦いに行かなくてはならない。←「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。」(Ⅰテモテ 1:18)
ふむふむ、わしの見立てを言うとじゃな・・・

Ⅰサムエル 19:20については、サウルの手から逃れたダビデが、サムエルのところに身を寄せ、サウルがダビデを捕らえようと使者を遣わした記事である。サムエルは確かに、神の言葉を預かる預言者の一団を形成し、その指導監督にあたっていた。しかし、聖書には「預言者の一団が預言しており」とあるのみであり、預言できるように訓練していたということは書かれていないのぉ。預言とは、神が主体であり、神が語られた言葉である。人間が操作できるものではなく、祈りの中であっても心に浮かぶ思いがすべて神からというものではない。ある時神の声を聞いたとしても、神主体から外れ、「私」が主体となったら、もはや預言ではなくなるじゃろう。
エペソ 2:20については、その前節で、「あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのだよ」と言った後の言葉である。
Ⅰコリント 3:9,10でパウロは、自分たち使徒のことを神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物であると言っている。与えられた(自分からではない)神の恵みによって、パウロは賢い建築家のように土台を据え、他の人がその上に家を建てていると言っている。ここは、使徒と預言者(神から預かった言葉を語る者)がキリストの礎石で神の家の土台を据え、あなたがたは、ともに神の家を建てる重要なパーツを形成しているのだよと言っている個所であるのじゃ。「預言してもらうと土台ができる。」とは語られていないのじゃよ。
Ⅰテモテ 4:14については、「聖霊の賜物」は神のみこころのままにそれぞれに与えられる霊の賜物のことである。霊の賜物のヘルプは、日々の神からの訓練と聖霊からくるじゃろう。人からのヘルプは、神が遣わされてのヘルプもあるじゃろうが、違ったものもある。主を信じて神の子とされた信者であれば、誰でも主の声を聞けるじゃろうが、語られる主体は神である。霊の賜物であっても、むさぼる行為になってくると神の道から逸れていってしまうことになるのじゃ。聖書には「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道」(Ⅰテモテ 6:6)「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ 4:6)とある。地道に祈って神のみこころを教えてくださいとへりくだって願うならば、神はご自身のことばを預けてくださるじゃろう。預けられることばは、私たちの幸せのための計画をお持ちの神の栄光のためである。誠心誠意、大切に扱わなければならない言葉じゃ。
Ⅰテモテ 1:18については、テモテはその正しい心で、神の言葉を預かる預言者から個人についての預言を受けたようであるのぉ。それは神の国を建て上げるための職務についてのものだったようじゃ。若い牧会者であり他より経験が浅かったテモテは、さぞかし苦労していたじゃろう。そのためにパウロは励ましのことばとして語っている個所じゃ。「預言を受けたら、預言をもって霊的戦いに行かなくてはならない。」と言っているわけではないのぉ。霊的な戦いは、この世で神と歩調を合わせ歩んでいく限り、この世の支配者サタンから、出向かなくても神の許しの中でやってくる。神への祈りと共に、神主権のもと、聖霊なる神と歩調を合わせて戦う戦いである。自ら飛び込んでいくものではないのじゃが・・・。
「神の声をききたい」という思いもいろいろあり、「神ご自身を知りたい」という神への渇望から思う人もいるだろうし、「神の声を聞き、一儲けしたい」というむさぼりが根底に隠れていても自分すらも気づかずに「神の声をききたい」と 思う人もいるだろう。
吟味も罪の取り扱いも悔い改めもなく、ただ神の声を聞こうということを始めるならば、そこには、混乱が待ち受けているだろう。聖書は、読み方や取り上げ方次第で、どのような教え方もできる書物だから、神をよく知ることが大切なことじゃ。神の愛をよく知ることじゃ。
当時を改めて思い出し、当時からこの教えが長年かけてキリスト教界内に拡大していった様子に、語る側も聞く側も、双方、神をよく知り、キリストの律法(神を愛し、隣人を愛する)を全うしていかなくてはならないと、痛感しています。

コメント