預言について

「聖書における預言は、聖霊によって示された神の啓示を意味する。新約聖書では,預言はすべてのキリスト者が求めるべき聖霊の賜物の一つに数えられている(Ⅰコリ14:1,5,39)。・・・旧約時代には、一般に預言者と言われる特定の人だけに預言の賜物が与えられたが、新約時代には、預言の霊はすべての人に約束され(ヨエ2:28‐29,使2:16‐18)、事実、教会の中にそのことが起った(使21:9,Ⅰコリ12‐14章)。」(新聖書辞典より)

「イエスのあかしは預言の霊です。」(ヨハネの黙示録 19:10)とあるが、預言というのは、イエス・キリストの証に結びついていくものである。
実現せずに、結果、イエス・キリストの証とならない実を結んだとしたら、それは神なる主が語られたものではない。
「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」(申命記 18:22)
いろいろ言い訳があるかもしれないが、語る人間は神ではない。誤って捉えることも、主観が入ることも、感情から自分を語ることもありうる。
「預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。」(Ⅰコリント14:29)とあるが、吟味する者が、同じ思想、同じ価値観の者だとしたら、あまり意味をなさない。大切なのは、聖書全般を知り、聖書が示している神によっての吟味である。

 語られた預言が信仰者にとって、信仰を送る上で励ましとなり、自分の足で神と共に信仰を歩む力となり、自分の内でキリストへの感謝として育んでいけば、成長と共に、それが神だったか明らかになっていくだろう。あなたに成る実がそれを証明する。
神の預言と言って語る人は、良くも悪くも人間である。一時的に神に用いられることもある。(Ⅰ列王記28章では、サウルへのみこころを語るために、神は霊媒師をも使って、サウルに真実を告げられた。)逆に、民数記22章のバラクのように、事実を語っていた者が神に反していくこともある。
神からの預言は、しがみつくものではなく、人間が実現に向けて頑張るものでもなく、信仰によって受け止め神を待ち望む信仰が練られていき、御霊の実を結ぶものである。

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【参考】新使徒運動の教役者たち ~小羊うるちゃん物語へのコメント~(2020.6.9)
    神の声を聞く人々(2015.4.21)
    「主は本当にそう語られたのか?」(ジョン・ビビア著 サムソン・パブリケーション発行)(2014.2.21)
    預言(2011.12.14)
    聖霊体験(2011.11.22)

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