罪に対する態度

「かえって、彼らも、その息子たちも、これらの国々の娘をめとり、聖なる種族がこれらの国々の民と混じり合ってしまいました。しかも、つかさたち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです。」(エズラ 9:2)

神の民は、自分たちの犯した罪によって、捕囚という苦しみを通り、他国で奴隷生活を送っていた。
その中で、もう神の約束も忘れられ、人々は神の忌み嫌う国々の民と縁を結び、混じり合ってしまっていた。
この不信の罪を犯した張本人は、本来ならば、神のみこころを教えるはずのつかさたちや代表者たちであった。
宮は再建されたが、これからの課題は多かった。
このことを知ったエズラはショックを受け、夕方のささげ物の時刻まで、色を失ってじっと座っていたが、気を取り戻して、この状態を恥じ入って、とりなしの祈りを始めたのであった。
——–
あたり前のようになってしまった罪であっても、罪は罪である。
周囲の人たち全員が同じようにしていたとしても、罪は罪である。
基準は人ではなく、神である。
罪の状況を見てショックを受けるのは、神にある正しいあり方である。
ショックを受けなくなり、妥協するのがあたり前になってしまう前に、神のみ前に悔い改め、とりなしをしていこう。
そして、ショックを受けた後に、まずなすべきことは、へりくだった心での神へのとりなしの祈りである。
祈らずに、人間的に進んでいくなら、疲れ果て、妥協の道が待ち構えている。
あきらめるその前に、神のみ前にひざまずいて祈ろう。
神は、その祈りを受け入れて下さるから!

コメント