神への依存とは

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ 11:28-30)

人とうまく関わることができず、一人で悩んではいないだろうか。
人間同士がうまく交流し上手に助け合って、自立した歩みができ、皆が不満なく幸せに暮らせたなら、神を必要としないだろう。
自立できず、人や神に依存し、もたれかかっていれば、楽かもしれない。
が、人に依存し続ければ、人には限界があり、いずれ関係は悪くなる。(助けを求め依存してくる人を助けることが愛だと思っていたとしても、限界は来る。)
依存は、主導権を相手に渡すということであり、神の望んでおられることではない。
主導してくださるのは主なる神である。
では、人ではなく、神に依存すればよいのではと思うかもしれない。
確かに、神により頼むのは信仰であるのだが、依存と信仰とは質が全く異なる。
神は、私たちが自分の頭で考え、祈りの中でみこころを知り、神への信仰を働かせ、自発的に喜んで聞き従い、自分の足で神とともに歩むことを望んでおられる。
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自分の足でしっかりと神に立ち、主とともに歩み出そう。
ゆっくりでいい。確かな歩みを、主に導いていただこう。
どうすればよいか決められない時は、立ち止まって、祈りの交わりの主との中で、主のみこころを知っていこう。
主との交わりで、徐々だが確かに人との関わり方も身につく。
主の道には、平安がいつもある。そして、負えないくびきを負わされることはないのである。
一歩、一歩、踏み固めて歩んだ道は、たやすく崩れ去ることはない。
祈りをもって、確かなものを築き上げていこう。主がともにおられる。

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