異なる教えから守られるために 1.イエス

 異なる教えから守られるためには、まず、イエスがどのようなお方かを聖書から知ることが大切である。使徒の時代から、いやその前から、イエス・キリストの神性を否定する教えはあった。イエス・キリストは神(の子)である」、それは、イエスが十字架にかけられた罪状でもあった。目の前にいて、人にはできない奇蹟を見てさえも、神と認めようとしない人々は存在していた。派生する教えの中には、イエス・キリストを、失敗して十字架にかけられた預言者だとするものもあったが、聖書に書かれている内容を信じ、神を知っていくならば、その誤りに気付かざるを得なくなる。イエス・キリストは、「三位一体なる神」の子なる神、人類に与えられた唯一の救いである。被造物を通じても、神はご自身を知らされている(ローマ 1:20)。その「神」は、どのような存在であるかを聖書は知らせてくれている。それは、人間が作り定めた神ではなく、永遠の昔から存在されている「神」である。聖書のイエスの神性の描写の一部を見てみよう。

「この方(イエス)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべ き名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒 4:12)
「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたし
(イエス)を信じる信仰によっ て、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」(使徒 26:18)
救いは、だた、イエスを神と信じる信仰だけによると聖書は言っている。そして、イエス以外には救いは与えられていないと書かれている。イエス以外には救いは与えられていないのだが、イエスという名ならばどんなイエスでもよいと言ってはいない。聖書が語るところの本質を伴ったイエスである。神の本質を知っていても、聖書や福音を知らないためにイエスという神の名前を知らないでこの世を去る人もいるかもしれない。名ばかりのイエスを語る不法を行なう者たちを「知らない」と言われる神(マタイ 7:20-23)は、名前を知らないでこの世を去ったそのような人に対しては、神がみこころをなさることだろう(ローマ 10:6,7)。救いは、善い行ないや修行によるものではないが、従う心を持ってイエスを信じていれば、イエスの言われた「神と人を愛する行ないをする者」となる(イエスの似姿に変えられていく)。

「それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」(ヤコブ 2:17)
救いのためには、何かの行ないが必要であると言っているわけではない。“実”を結ぶ必要を言っているのである。神の働きと自我による肉の働きとは異なる。良い働きをすることは素晴らしいことであるが、その心次第では偽善になっていて、他の人に負担をかけることにつながっているかもしれない。そうなっていては、神の下での安息も平安もなくなってしまう。神にある行ないは、右の手のしていることを左の手に知られないような自然体の行為である。そこには喜びがある。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ 16:24)
「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何 でも、子も同様に行なうのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。」(ヨハネ 5:19,20)

イエスに従いついて行き、みこころを行なうなら、時がくると“実”を結んでいくのである。それは信仰による。イエスに従っていると言う人がいたとして、何に従っているのか、イエスか、人か、悪かは、その成す実が物語る。異なる実を見て、イエスにつまずく人も多い。正真正銘のイエスは聖書と矛盾がない。聖書は愛と義に満ちた神の書物である。その教えは、愛と愛による義から外れることはない。つまずきから守られるには、イエス・キリストを正しく知っていくことが大切である。

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  オリジナルテキスト「神」
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