聖書個所:ルカの福音書21章1~38節(新改訳聖書)
『献金の真実-金持ちと貧しいやもめの献金-』
献金の心
前章では、主イエスは、律法学者たちについて気を付けるよう弟子たちに教えられていた。主イエスが目を上げて見ると、「金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。」(ルカ 21:1)現代の日本で言うなら、賽銭箱に賽銭を投げ入れるような感じである。賽銭箱に金持ちたちがお札を投げ入れる行為は、人々の目を引き、時にニュースになることもあるが、多く捧げる人は、当時も人々の興味を引いていたことだろう。金持ちたちが献金を投げ入れる中、ある貧しいやもめがレプタ銅貨2つを投げ入れているのが、主イエスの目に留まった。
レプタ銅貨というのは、1デナリ(当時の1日分の賃金に相当)の128分の1で、現在の1日分をざっくり1万円として換算するならば、1レプタは約78円となる。レプタ銅貨2つは160円に満たない額である。聖書では、神への捧げものの目安として、十分の一が示されているが、聖書の個所を見てみよう。
- 創世記 14:20で、アブラムはすべての物の十分の一を、いと高き神の祭司メルキゼデクに与えている。
- 創世記 28:22で、ヤコブは神に「すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」と請願を立てている。
- 律法での捧げものの規定で、十分の一という割合が示されている(レビ 5:11, 6:20, 14:21, 27:30, 27:32、民数記 5:15他12ヶ所、申命記 12:6他6ヶ所、レビ 27:30では「それは主の聖なるものである。」と書かれている)。
- 続く旧約聖書では、至る所で十分の一の概念が出現し、マラキ 3:8に続いている。
- 新約聖書でも主イエスは、十分の一を土台として語られている(マタイ 23:23、ルカ 11:42, 18:12)。
- ヘブル 7章でもこの概念は引用されている。
十は神の十全を象徴する数値である。
これをそのまま掟としてとらえると、神の愛が見えなくなる。献金を税金のような規則としてとらえると、神は取り立てる方のようにしか見えなくなるだろう。まだ累進課税を取り入れている税金のほうが公平に見えてきてしまうことになり、ミナのたとえの1ミナを預けられた者のように、「あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方」(ルカ 19:21)と歪んだ神に見えてしまうことになりかねない。
十分の一は目安であると言ったが、金持ちの十分の一と困窮者の十分の一は、額も重みも違う。金持ちが十分の一としていくら大金を捧げても、ありあまるほどの十分の九が残る。痛くもかゆくもない。ただし、目安がなければ、捧げる行為は軽んじられていくことになる。どうでもよい額(量)ではなく、さりとて困窮することのない額(量)が十分の一なのである。ただし、捧げものは、額(量)ではなく捧げる心が大切である。捧げる対象は人や教会ではなく、神に捧げるものである。また、喜んで捧げることができない時は、捧げることができなくても、神はその心をご覧くださる。献金は、人との関係ではなく神との関係だ。主イエスはパリサイ人たちが律法通りにすべての十分の一を捧げているのを知っておられたが(マタイ 23:23、ルカ 11:42,18:12)、行ないを自負する心を秘めながら、みもとに聞きに来る人たちには、持ち物全部を売り払い、貧しい人に施すように言われている(ルカ 18:22、マタイ 19:21)。
主イエスは、やもめがレプタ銅貨2つを献金箱に入れるのを見て、「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」(ルカ 21:3-4)「真実を告げる」と重要な教えであると前置きされている。貧しいやもめが捧げた160円(レプタ銅貨2つ)は、惜しんだ末に、少ない額を捧げたものではなく、手持ちの全生活費であった。今日食べるものがない、明日もどうなるかわからない、その中で、神のもとに来て信仰によって捧げた生活費全部であった。
「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩編 51:16-17)
「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」(Ⅱコリント 9:7-8)
終わりの時
額(量)ではなく心だとは言っても、人間は豪華できらびやかな物や裕福さに目を留めがちである。「宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。」(ルカ 21:5)その会話を聞いた主イエスは、「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」(ルカ 21:6)と言われた。
ユダヤ人とローマ帝国の戦い(ユダヤ戦争)で、起源70年にエルサレム神殿は崩壊した。しかし、この時の崩壊では、神殿の壁の一部(嘆きの壁)の石は積まれたまま残っている。27節には、「そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。」と主イエスの来臨が語られているが、これは、世の終わりに起こることである。恐ろしいことが書かれているが、それはどの視点で見るかによる。信仰者にとっては贖いの日であり(ルカ 21:28)、恵みの時であることも盛り込まれている。「あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。」(ルカ 21:18)
この章では、その時になすべきこともいろいろ教えられている。罪の結果を刈り取る終わりの時が近づく中での、主の愛である。その一つ、「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私がそれだ。』とか『時は近づいた。』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。」(ルカ 21:8)イエスの権威を自分のものであるかのようにふるまい、「時は迫っている」〈詳訳〉と人々をあおる者たちが大ぜい出てくるが、「そんな人々のあとについて行ってはなりません。」と言われている。この章に書かれている教えをよく理解し、心に留めて歩んでいこう。
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