「目には目を、歯には歯を」-聖書に見る許し-

マタイの福音書 5章38節~48節

 紀元前18世紀ごろ、メソポタミアの地域では、バビロニアを統治したハンムラビによって、「ハンムラビ法典」が作られていた。すでにあったシュメール人の作った法律を発展させたものと言われている。法典には、「目には目を、歯には歯を」との記述があり、その4世紀後の時代になる出エジプト以降に与えられた聖書の律法にもその言葉があるため、モーセの律法はハンムラビ法典に影響をも受けていると思うかもしれない。

 ハンムラビ法典は、王国内の諸民族を統一的に支配するために、復讐法の原理や平民と奴隷の厳しい身分の区別の既定などが盛り込まれていて、身分の違いによってその刑罰が異なっている法典である。被害者救済法のような被害者遺族への慰謝料の規定や、製造物責任法のような手抜き工事による被害の規定などがあり、復讐法も倍返しのような行き過ぎを防ぐといったように、民を統一支配するための配慮が盛り込まれていた。「目には目を、歯には歯を」でとどめよ、という復讐の概念は、遊牧民社会の伝統に既にあったもののようで、その地方には広く慣れ親しんでいた概念であった。

 その「ハンムラビ法典」にも定められている「目には目を、歯には歯を」という概念は、モーセが神から授かった律法にも書かれているが、神が語られた内容には、身分の違いによる差がないことが異なっている。神の愛による律法は、根底にゆるぎなくえこひいきのない愛があるところが人間が作るものと大きく異なる。 「目には目を、歯には歯を」が出てくる聖書箇所 ↓

「殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。目には目。歯には歯。手には手。足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。」(出エジプト記 21:23-25)
「骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。」(レビ 24:20)
「あわれみをかけてはならない。いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。」(申命記 19:21)

レビ記の後の節には、こう書かれている。「あなたがたは、在留異国人にも、この国に生まれた者にも、一つのさばきをしなければならない。」(レビ 24:22)

 「目には目を、歯には歯を」でとどめよと、人間は、同程度の仕返しが許されたとしても、持ってしまった復讐の心を持ち続けると「目には目を、歯には歯を」では治まらず、下手したら一生涯受けた被害を根に持って人生を破壊的に送るかもしれない。そのような原罪という弱さを持つ人間に、神なるキリストは、教えを説かれ、神の道を示された。
「目には目で、歯には歯で、と言われたことを、あなたたちは聞いている。けれども、私はあなたたちに告げる、〔あなたがたに害を加える〕悪い者に抵抗してはいけない。もしだれかがあなたの右のほお〈上あご〉を打ったならば、別のほうも彼に向けなさい。また、だれかがあなたを訴えて、あなたの下着〈短い上着〉を取りたいと思うならば、彼にあなたの上着も取らせなさい。また、だれかがあなたに一キロメートル行くことを強制するならば、彼といっしょに二〔キロメートル〕行きなさい。あなたに求めてやまない者には与えなさい。また、あなたから〈利子を払って〉借りようとする者を退けてはいけない。あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎まなければならない、と言われたことをあなたたちは聞いている。けれども、私はあなたたちに告げる、あなたたちの敵を愛し、あなたたちを迫害する者たちのために祈りなさい。それはあなたたちが天におられるあなたたちのみ父の子であるということを示すためである。なぜならみ父は、彼の太陽を悪人の上にも善人の上にも上らせ、雨を正しい者にも悪事を行なう者〔同様に〕降らせてくださるからである。というのは、もしあなたたちが自分を愛する者を愛するのならば、なんの報いを得ることができよう。税金取り立て人でもそうしているではないか。また、もしあなたたちが、自分の兄弟にだけあいさつするのならば、ほかの人以上の〈もっとすぐれた〉何を行なっているのか。異邦人〈異教徒〉でもそうしているではないか。それだから、あなたたちはあなたたちの天のみ父が完全であられるように完全にならなけらばならない〔すなわち、徳と高潔のほんとうの高みに到達して、心と品性において完全に円熟した敬けんへと成長しなければならない〕。」(マタイ 5:38-48〈詳訳聖書-新約-, いのちのことば社発行 p12〉)
 これは、何もせずに許し、右の頬を打たれたら左の頬も喜んで差し出せ、盗まれたら他も差し出せ、と言っているのではない。そうであったら、なんと罪に甘い被害者の心の置き場がなくなってしまう歪んだ世界になるだろうか。神がモーセを通じて与えられた律法は廃れたわけではない。だからといって、復讐をしろと言っているわけではない。律法は初めから復讐を積極的にやれということは言ってはいないのである。主イエスの語られた言葉には、被害者に憎しみの心が増大しないようにとの配慮がある。「天の父は、すべて知っているよ。悪い者にこれ以上心奪われることを許さずに、正しいことをして、天の父が完全であるように、キリストの似姿に近づくことに心血を注ぎなさい」と。天には、正しく裁かれる神が存在するのだから、苦しみを神に告げて信じて委ねることで、自身が罪から守られていく。

 出エジプト記 21:23やレビ 24:20の律法の個所を見ると、「いのちにはいのちを与えなければならない。」「自分もそうされなければならない。」(上記下線部)と加害者視点で言われている個所であることがわかる。申命記 19:21については、「もし、ある人に不正な証言をするために悪意のある証人が立ったときには、・・・」(申命記 19:16)という条件が先行して語られていて、「あなたがたは、彼がその同胞にしようとたくらんでいたとおりに、彼になし、あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。ほかの人々も聞いて恐れ、このような悪を、あなたがたのうちで再び行なわないであろう。」(申命記 19:19,20)とも書かれている。つまり、被害者にそうせよと言っているのではなく、悪を除くために、妙なあわれみをかけずに正しく裁くようにと民に行っているのである。
 キリストが言われたマタイの福音書の個所も、「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。」と言っているだけで、そうしなさいとも、やめろとも言ってはいない。許しと償いの適用は、いろいろな要因で異なるだろうし、マニュアル化できるものでもない。キリストの精神で、償いはしっかり償わせなさい、それは、加害者が、与えた被害を重く受け止め、罪を自覚するよう導くという意味も含まれている、ということである。キリストは、律法を拝するためではなく、律法を通じて語られた神の本質を伝え、律法を成就するために来られたのである(マタイ 5:17, 18)

 聖書が語る「許し」は、偏りがない公正なものである。

コメント