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前回は、ローマ帝国がユダヤを含む世界を治める中、ご聖霊の導きに従い異邦人宣教の基礎を築いたパウロを始めとする使徒たちの死をも恐れない熱心によって、各地に信者が増え教会が形成されてきたことを見た。
ローマ支配の世の中で、ユダヤ地方の王となったヘロデ一族は、ローマ皇帝との友好関係を築き、ユダヤ地方の領有、統治の権利を与えられていた。ヘロデが治めるユダヤ社会の中でキリスト者たちが神の真理のために信仰を守り、時には死を前にして戦いつつ宣べ伝えていったことで、神の国が拡大し教会が形成されていった。「ローマ支配者との友好関係を築いたヘロデ」というと平和を築く外交を連想し聞こえは良いかもしれないが、ヘロデが結んだ友好関係は、神がイスラエルの民を聖別し教え導いてきた真理からは、遠く離れた関係であった。
バビロン捕囚から帰還し、神殿を再建した後のイスラエルや、キリストが地上に来られた頃の世の中の状態を知ることは、人の罪の根深さと神の愛による全人類への計画を知るために欠かせない要素を含んでいる。
時が満ちて、神はメシアなるキリストを地上に遣わしてくださり、人類の贖いを成し遂げられ、神の教えを宣べ伝える使命を教会に与えられた。それは、「すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられる」(Ⅰテモテ 2:4)神の愛によるものである。
今回は、主イエスがこの世に来られる頃から教会が定着するまでの世と人々の状態を見ていこう。
ヘロデ治世のユダヤ
前々回の「初期の教会~聖霊とともに」でも見たが、ヘロデ大王の父アンティパトロスはローマ軍の軍事行動を積極的に援助することでローマの政務官ユリウス・カエサルの信用を勝ち取ることに成功し、紀元前47年、ユリウス・カエサルによってローマ皇帝の職務を代行するユダヤの行政官に任命された人物であった。ヘロデ大王は、ローマの権力者に取り入ることで、ローマとの協調関係を構築していき、エルサレム神殿を大改築して壮大な神殿に造り替えもし、ユダヤ人の歓心を買うことにも務めた。こうして、要領よく関係を築こうとし、神抜きで人間的に見たら、国の維持と平和のために繁栄に努めた権力者という見方も可能であろう。ヘロデ大王は前4年(約70歳ほど)に病死し、その後は、領地は三人の子ども(アルケラオス〈アケラオ〉、フィリッポス〈ピリポ〉、アンティパス)に分割され、ガリラヤ地方はヘロデ・アンティパスが領有した。ヘロデ大王には、10人の妻と多数の子供たちがいて、その系図は複雑である。 ヘロデ大王の系図参照
ヘロデ・アンティパスは、イエスさまがこの世を過ごされた時代のユダヤの支配者である。彼は現在のガリラヤ湖のほとりに都を造り、当時のローマ皇帝ティベリウスの名をつけてそこに住んだ(ティベリア)。しかし、その場所は古くからの埋葬地だったため、敬虔なユダヤ人たちからは忌み嫌われた。主イエスが宣教を始められたガリラヤの地はそのようなところであった。ちなみにベツレヘムでお生まれになった主イエスが、エルサレムでなくガリラヤのナザレで宣教を始められたことは、ヘロデ大王とアルケラオス〈アケラオ〉が関係している。
主イエスが、ベツレヘムでお生まれになった時、東方の博士たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(マタイ 2:2,3)とエルサレムに来て言ったことで、ヘロデ大王は恐れ惑い、イエスを殺そうとしたことがあった。自分の脅威となる「ユダヤ人の王」を消そうとしたのであった。御使いが夢でイエスの父であるヨセフに現われ、ヘロデの手から守られた。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」(マタイ 2:13)ヨセフとマリアは赤子のイエスを連れ、エジプトに行き、ヘロデ大王が死ぬまでエジプトにとどまった。ヘロデ大王が死に、御使いが、再びヨセフの夢に現れて言った。「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。」(マタイ 2: 20)そこで、ヨセフとマリアとイエスはイスラエルの地に戻ったのだが、当時のエルサレムを含むユダの地は、アケラオの領地であった。アケラオは、残忍で身勝手な統治を行っていた。「アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた。そして、夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方に立ちのいた。そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して『この方はナザレ人と呼ばれる。』と言われた事が成就するためであった。」(マタイ 2:22, 23)すべてをご支配されている神によって、イエスはナザレに住まわれることになったようだ。
一方、ガリヤラ地方の統治を任されたヘロデ・アンティパスはユダヤ教に対して、皇帝の肖像を飾ることをやめるようにしたり、自身の肖像を刻まなかったりと、ある程度の律法を守っていた。が、洗礼者ヨハネの処刑の記述からもわかるように、自身の行ないは律法とは離れたものであった。ヘロデ・アンティパスの聖書の記述を見てみよう。「それはヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたからである。また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた。」(マルコ 6:17)自分に関係のないよい教えは喜んで聞いていたのだが、気に入らないからとヨハネを殺そうと企んでいた。「実は、このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、牢に入れたのであった。それは、ヨハネが彼に、『あなたが彼女をめとるのは不法です。』と言い張ったからである。ヘロデはヨハネを殺したかったが、群衆を恐れた。というのは、彼らはヨハネを預言者と認めていたからである。」(マタイ 14:3)ヨハネの教えを喜んだ反面、殺そうとする、二面性があるようにも見えるが、ヘロデが見ていたのは、神ではなく、自分自身であり、自分が統治する民からの評判であったようだ。神を信じていたのではなく、ユダヤに生まれ、ユダヤを統治するに都合がよい程度にユダヤの国教としての宗教をある程度守ろうとしていたにすぎない。イエスは弟子たちに命じて言われている。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」(マルコ 8:15)と。ヘロデと名指しで言われたパン種―この世的、地位や権力を喜び、信仰に人間的な力や信念を混ぜ込み、神をも利用する―に注意を払うよう言われた。ヘロデ・アンティパスは、ヘロデ大王の孫で自身の甥にあたるヘロデ・アグリッパ(皇帝カリグラと仲良しだった)に、非難目録(ヘロデ・アンティパスの非行や周囲の国々との衝突、ローマの掟に背いている証拠に大量の武器を貯蔵していること等)を使って当時のローマ皇帝のカリグラに報告され、流刑に追い込まれて失墜した。その後、ユダヤの統治者は、ヘロデ・アグリッパ1世となった。
皇帝と仲良くし、叔父を計略によって失墜させ、王座に就いたヘロデ・アグリッパ1世は、ローマ皇帝ティベリウスの息子ドルススとともに育ち、金遣いが荒く、口を滑らせて皇帝の悪口を言うこともあったような素行において疑問の人物であった。ヘロデ・アグリッパ1世は、統治権を手に入れたものの、その統治は、3年で終わっている。このヘロデ・アグリッパ1世は、使徒ヤコブを殺したことが聖書に書かれている。「そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕えにかかった。」(使徒 12:1-3)と神への恐れを知らない人物である。3年という短い統治で終わったのは、神のようにふるまって虫にかまれて死んだためである。「定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに向かって演説を始めた。そこで民衆は、『神の声だ。人間の声ではない。』と叫び続けた。するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。」(使徒 12:21-23)その後、領地継承権は、息子のヘロデ・アグリッパ2世に引き継がれていくが、父の領地すべてを引き継ぐ前に、ユダヤ戦争が始まって、ユダヤの国は消滅した。神への罪よりも、国の存続や民の関心、権力への依存と執着を大事にした指導者に導かれ、キリストの十字架後も罪を悔い改めず、神の律法の本質である真理を知ろうともせず、支配下に置かれたローマに身を低くすることなく抵抗した結果であった。
ローマ下の迫害時代
ユダヤ戦争を経たユダヤ人たちはイスラエルの地を追放されて世界各国に離散していき、そのようなユダヤ情勢の中で、キリスト者への迫害は激しさを増していった。ローマの宗教政策は寛容であったと言われていて、国家統一の象徴であるローマの神々や神格化された皇帝を拝めば、それぞれの宗教は認められていた。皇帝を拝むことが条件であったが、一神教のユダヤ教だけは、ヘロデの功績からか、教団として公認されていて、国家儀礼であった皇帝崇拝を免除されていた。キリスト教は、初めはユダヤ教の一派とみなされていたため、同じく皇帝崇拝も免除されていたのだが、別の宗教であることが明らかになってくると、法的な規制が強められていった。キリスト者が一切の偶像礼拝を拒んだことは、治安維持を脅かす犯罪とみなされていった。地域的な迫害が散発的におこり、ネロが皇帝になった時に、激しい迫害が起こった。ネロ治世の64年にローマに大火が起こり、ネロが新しい都市計画のために自分で火をつけたとの風評が起こったため、ネロはキリスト者たちを放火犯に仕立て上げて大迫害を行ったのであった。キリスト教信者たちには、ローマ社会の貧しい人々や差別を受けている人々が多かったことや、人肉を食しているといううわさが流れていたことなども迫害の要因となった。このネロの迫害下で、ペテロやパウロは殉教の死を遂げた。
地域的、散発的であった迫害が国家的に本格化したのは、249年に皇帝となったトラヤヌス・デキウスが、ローマ帝国の市民を対象に治安維持を目的に神々に奉納物を捧げることを命じる布告を出してからであった。
迫害を受けながらも、教会は各地に共同体としてできていて、使徒たちの按手によって信仰を受け継ぎ立てられた教父と呼ばれる指導者たちによって導かれていた。信仰生活の体制も整えられていき、主教、司祭、補祭といった奉仕職ができていった。日曜日(キリストの復活の日)を主日とし、礼拝儀式の形も整っていった。信仰生活の形が整い、兄弟間の結束(助け合い、交わり、礼拝、信仰教育など)が強くなるにつれ、周囲からは独自の秘密結社のように見えたことも迫害につながっていった。284年に皇帝となったディオクレティアヌスは、自らをローマ神話の主神(ユーピテル)の子と宣言し、303年にローマ全土にキリスト教徒の強制的改宗、聖職者全員の逮捕および投獄などの勅令を発布した。教会財産や書物を破壊、焼却し、信徒らを捕らえて円形競技場でライオンに襲わせるといった公開処刑を実行した。このような迫害で、多くの者が殉教したが、キリスト教徒は増加していった。
そこで、306年に皇帝となったコンスタンティヌス1世は、313年(ディオクレティアヌスの大迫害からわずか10年後)にミラノ勅令を発布して、キリスト教の公認に踏み切った。真相は不明であるが、その前年の312年、コンスタンティヌス帝は戦いの前夜、夢に現れた天使から「十字架を軍旗に掲げよ」という神の啓示を受け、その啓示に従って十字架を軍旗に掲げて戦い、勝利を収めたという伝説があり、絵画になっている。
キリスト教の公認と国教化
キリスト教がローマの公認となった時は、キリストの時代から約280年経っていて、ローマの多神教とヘレニズム文化の土壌の中で、教義や儀礼において、様々な分派が起こっていた。キリストの神性を否定するような教義もできていて、キリスト教内部の対立も表面化していた。特に、グノーシス主義などイエス・キリストの神性を否定する教えは深刻な対立を生じさせていた。コンスタンティヌス帝は教義の統一を図る必要のため、325年にニカイア公会議を開催した。ここで、正当な教義を示すニカイア信条が制定され、三位一体の教理が確立された。
キリスト教は公認されたといっても、ローマ帝国は、皇帝礼拝をしていれば、宗教に寛容であったので、領内には古来からのローマの神々への偶像崇拝や伝統的な儀礼の他に、マニ教やミトラ教などといった異教の信仰も盛んであったため、混乱が生じていた。
379年に皇帝となったテオドシウス1世は、民族や文化の違いを超えた国家の宗教的な統一を図るため、392年にキリスト教を国教とした。
200年以上の迫害を乗り越えてこうして整えられていったキリスト教であったが、公認・国教化されたことにより、ローマ帝国の手厚い保護下に入った。
キリスト教は、その土地や環境によって、外部からは迫害、内部ではさまざまな教えの融合による分派がつきまとっていたが、ゆるがない真理のもとに、一致を見出し、乗り越えて今日まで継承されてきた。時代や形が変わっても、人間の罪や本質は変わらず存在し、歴史は繰りされている。キリストが語られた真理による一致を求め続けていこう。
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