堕落した世に~神の計画による備え

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 こうして、ローマ教会を中心に、いろいろな動乱を経つつ、使徒がいた頃の初代教会のような純粋な教理とは言えないようなキリスト教ではあったが、貿易と植民地化と宣教が入り混じって、世界を舞台に布教が進められていった。

マルチン・ルターの準備期間

 14世紀のイタリアに始まったルネサンス運動がヨーロッパ各地に広がり最盛期を迎え、1445年頃にグーテンベルグが活版印刷術を発明した後の1483年に、ドイツのザクセン地方の小村アイスレーベンにマルチン・ルターが生まれた。小さな農村出身の父親ハンス・ルターは仕事を探しつつ移住生活を送っていて、半年ほど滞在したアイスレーベンの一時宿泊所にてルターはハンス・ルターの長男として生まれた。やがて、もう少し北のマンスフェルトという町に移り、ハンスは銅鉱山の仕事につき、こつこつと働いて成功を治め、事業家になって、町の代表者の一人にも選ばれるようになっていった。

 ルターの両親は非常に素朴なキリスト教信仰を生きているような人物であったという。倹約家でつつましい生活を送っていたらしく、ルターが残しているエピソードによると、クルミを一つつまんで食べてしまったら、母親に手から血が出るほど叩かれたというような、教育において厳格な両親であった。父親のハンスは上昇志向が強く、長男のルターに家業への期待をかけ、法律家にするべく、早くから学校に通わせた。1

 ルターは、父親の手によって、5歳になるかならないうちに(1488年?)、教会付属学校に通わせられた。教会の司祭が子供たちを集めて基本的な読み書きや算術を教えているような初等教育をしている学校であり、ルターはそこに数年間通い、勉学に励んだ。

 13歳(1496年)になると、父親に家から離れた北ドイツの町マルデブルクの学校に入れられ、修道院で寄宿生活を送ることになった。そこで1年ほど過ごしたルターは、修道士たちや共同生活をしている兄弟たちの生活に深く感銘を覚えたという2。次に、父親は、大学に行く前の高等教育機関として、母親の親戚が大勢いるアイゼナッハの町を選んだ。15歳(1498年)から17歳(1500年)にかけて、ルターは、アイゼナッハの教会付属の修道院校(ラテン語学校)で高等教育を受けた。3

 高等教育を終えた後、父親が選んだのはエルフルト大学であった。「大学へ行くのならエルフルト大学へ行け」という言葉が残っているほど、当時は有名大学の一つだった。そこで、ルターは、法律家になるために順調に勉学に励んだ。成績優秀であったルターは、1年半で教養学士を取得し、2年半を修士課程で学び、父の期待するエリート・コースに乗るかに見えた。

神に誓ったマルチン・ルター

 修士課程を終えて、1505年(22歳)法学部(ロースクール)に進んですぐの6月にルターは学友と共に帰郷の旅をした(学生の旅行には修道士と同じように一人旅はなく、必ず学友が一人同行していたそうだ)。家からエルフルト大学へ戻る途中、大学が近づいてきたエルフルト近郊のシュトッテルンハイムの草原で二人は突然の激しい雷雨に見舞われた。地面になぎ倒されるほどの激しい雷による死の恐怖に、ルターは思わず叫んでいた。「聖アンナ様、お助けください。命が助かれば、私は修道士になります」と。

 中世末期では、キリストは恐ろしい審判者と考えられていて、マリアをはじめとして、恐ろしい審判者である父なる神やキリストに仲立ちの取り次ぎをしてくれる役目をするたくさんの聖人がいて、聖人たちにそれぞれの職業に応じた職業分担ができていたようである。ルターの口を突いて出た「聖アンナ様」というのは、イエスの母マリアの母親であり(下記参照)、父親ハンスの職業であった炭鉱労働者たちの守護聖人とされていた。信仰的な教育熱心な家庭で育ち、小さい時から、困った時や怖いことがあったら、聖アンナ様に祈るよう教育を受けて身にしみついていたであろうルターが、死に直面した際の心からの叫びであった。その時、物凄い閃光と轟音を伴ってちょうど自分たちのいた場所に雷が落ちてきて、一緒にいた友人は命を失い、ルターは生き残ったのであった。

古い伝承(2世紀に記されたマリヤの誕生を記した外典「ヤコブ原福音書」にも書かれている)では、マリヤは、ヨアキムという名の大変裕福な男性とアンナという女性のもとに生まれダビデの家系に属していたと言われている。
『特別に恵まれた方-マリヤ-』より)

献身への道

 この恐怖の体験と誓いにより、マルチンは2週間思い詰めて考え抜き、父親に相談せずに、大学を辞め、大学の学生寮の近くにあったエルフルトの聖アウグスチヌス修道会に入り、修道士に転進したのであった。父親は激怒したが、時間が経つにつれて、ある程度は関係は修復されたという。(ただし、完全な理解には至らなかった)

 修道士になったルターは、聖書を深く読むようになり、1507年(24歳)には司祭に叙階された4。初ミサで、ルターは「神よ、生ける神よ」とラテン語で唱える声を発した時に、「このただの土の塊の罪人に過ぎない自分がどうして神に向かって親しげに、神よ、神よと呼びかけることができようかと恐怖のあまりに、そこに倒れそうになった」と言うほどの緊張を覚えたそうである。

 厳しい両親に育てられ、罪人に過ぎない自分というものを、ルターは熟知していた。どれだけ熱心に学び、修道生活を送り、祈りを捧げていても、心からの平安が得られないとルターは感じていたのである。「信仰による義」の概念がない中世時代の話である。修道院時代には「私はいかにして恵みの神を獲得するのか」という問いを抱いていたとルターは述べている。5 ルターは、その問いを模索し続け、「救いは、人間の行いによらず、ただ神の恵みによる」という真理にたどり着いた結果、宗教改革につながっていったのだが、カトリックからの分離、分裂まで、ルターが意図していたわけではなかった。ルターは、神学者として、聖書教師として、原罪を抱える一人の人間として純粋に真理を探究していたにすぎなかった。

 修道士として、模範的な行い(物乞い〈ルターの修道院は乞食、物乞いをして歩く行があった〉、徹夜の祈り、断食、懺悔など)をしていたというルターに、修道院の指導者たちは目を止めるようになった。当時の大学では、上級の専門学部にあたるのは、法学部、医学部、神学部と三つあり、中でも神学部が一番すぐれた学部であった。この上級学部に進むには、教養学部を卒業して、学士、修士になっていなければばらなかった。既に大学の教養学部で学士、修士になっていたルターには学問の土台があるため、指導者たちは、ルターに大学での神学の研究を命じた。そこで彼は、エルフルト大学で神学の学びをし、聖書学士になり、神学命題集講師の資格もとり、神学の研究を続けていった。6

新生

 1511年(28歳)にルターは少し前に新設されたヴィッテンベルグの大学に移り、翌年の1512年(29歳)に神学の最高学位である神学博士の学位を取得した。この学位を取ると、直ちに大学で神学の講義が出来ることになっていた。おりしも、活版印刷術が普及し出した頃、ルターは詩篇を取り上げることにし、半年ほどかけて講義のための資料を念入りに準備し作っていった。1513年(30歳)夏にルターは、新任教授として講壇に立った。詩篇の講義にあたって、ルターは150篇ある詩篇全篇を念入りに丁寧に研究していた。ルターの聖書解釈は、中世風の解釈方法で解釈してはいるものの、信仰の基本は何であるかとか、教会に対する批判のような言葉が神学的に顔を出しているところもある独自性があるものであった。特に詩篇に度々出てくる「神の義」について、恐ろしい基準、義の基準とは違うものをルターは感じ取り、今まで教えられていたこととの矛盾に混乱してきたため、深く考え出し、神が意図する本当の意味を知ろうという探究心をもって聖書研究を進めていったのであった。

 1年ほどかけてルターはこの「神の義」についての難題に取り組み、ついに「義人は信仰によって生きる。それは神のあわれみによるプレゼントだ」ということを発見した。善行を積んでも積んでも満たされず、父親の支配と重なる「神の義」という言葉に激しく憎しみすら感じていたルターは、この発見に心が躍ったようで、「今や私は全く新しく生まれたように感じた」と表現している。厳しいまでに正しさを求める神の義に恐怖を覚え、押しつぶされそうになっていた(罪人の自覚を持っていた)ルターにとって、ただ恵みによる義の発見は、すばらしいものであり、神の愛に大きく捕らえられたのであった。7 これが、ルターの新生体験であった。

ただ主を見上げて

 新生したルターは、詩篇に続き、ローマ人への手紙の講義に着手した。ルターの講義は、人気を博していった。学生たちは、印刷された書物でルターの聖書の読み方に触れていき、自分たちなりにルターの言うように祈って黙想して、1521年(38歳)にルターがドイツ語訳聖書を出版すると(1517年に「95か条の論題」を明示した後である)、生活のただ中で聖書を読むようになるという人たちが増えていった。

 聖書や聖書の理解、聖書の読み方の分かち合いを、大学の外に出て、恵みを民衆にも広げようと、ルターは、ヴィッテンベルグの教会でも民衆のための説教を始めた。民衆たちにも理解できるように配慮し、時には民衆の必要や問題を理解しながら、神というお方をわかりやすく話して聞かせたのである。民衆への愛、それがルターの教会での説教の原点であった。

 ルターはフランシスコ修道会の系列に属していたのだが、競争関係にあるドミニコ修道会の系列も説教には熱心であった。同じ説教であるのだが、双方の説教は、全く違っていた。神の恵みに沿った説教をするルターと他の説教者(中には歴史的に数世紀にわたって民衆に説教をしてきたドミニコ修道会の当代一とまで言われている名説教者もいた)の説教は全く異なっていた。

 当時のドイツでは、過去から未来に至るまでの罪が完全に帳消しになるという「免罪符」が売られるようになっていた。「免罪符」のお札を売る時には、行列が組まれ、先頭に教皇の真紅の旗を掲げ、お供がついていた。真ん中には輿に乗った説教者がかつがれて進み、その後ろに、お札のためのお金を入れる重く鍵がかかった樫の木の箱(鉄のタガで補強された頑丈な箱)が従者によって担がれて、一番最後には、その箱を開けるカギを持った男が従っていた。このご一行は、教会の前にきて箱を据えることになっていて、箱をすえた後に説教者が立ち上がって説教していた。説教者のためには「贖有権販売指示書」というような営業マニュアルのようなものがあった。説教者はこれに基づいて、死んだ両親の罪や煉獄での炎の苦しみ、民衆の罪を述べ聞かせ、「今、金貨1枚を箱に入れれば、これからの罪も含めてすべて帳消しになる」というような内容を、心に訴えかけるように説教していた。難しいことがわからない民衆は、こういう説教を聞き、免罪符を買い求め、購入した人たちの中には、「生きている限りはもっと悪いことをしよう」となる人も出た。罪の悔い改めがないのだから、当然である。ある日、ルターが歩いていたところ、路上にぐでんぐでんになった酔っ払いを見つけ、「よいつぶれるほどに飲むことはよくない」と諭したところ、その酔っぱらいは免罪符を見せ、「ご心配なく」と言われたことがあったという経験をしている。免罪符は、人から悔い改めの機会を奪い、神から遠ざけるものであった。

免罪符(贖宥状)

 免罪符(贖宥状)は、教皇が軍隊への参加者には免償(罪の償いの免除)が与えられると宣言した第一回十字軍(1096-1099年)の頃から大々的に出回るようになったとされている。はじめのうちは十字軍が招集される度に贖宥状が発行されていて、戦場で敵を殺す罪を犯しても、その罰は免ぜられるという性格のものだった。十字軍が下火になったあとは、100年に1度、50年に1度と限定的に発行されていたが、しだいに安易な集金手段として乱発されるようになっていった。8

 そういう流れがあって、1515年(ルターが説教を始めた2年後(32歳)、「95か条の論題」の2年前)に教皇レオ10世(217代教皇)の名の下に売りだされた贖宥状は、イタリアの聖ピエトロ大聖堂の建設費を集めるという名目で、ドイツで売りに出された。実際の発行者はマインツ大司教(マインツ大司教はドイツにおける最高位の聖職者であり、アルプス以北でのローマ教皇の代理人であった)、販売の実務を担うのはドミニコ修道会であった。

 このイタリアの聖ピエトロ大聖堂の建設費を集めるという名目での免罪符の大売り出しに至るには、とある事情(裏事情)があったのである。マインツに、ブランデンブルク選帝侯(選帝候:神聖ローマ皇帝の選挙に関与することのできた諸侯)の息子のアルブレヒトという大領主がいて、マインツ大司教の座に就こうとした。アルブレヒトは贖宥状を売り出す1年前の1514年にマインツ大司教に選任されたのだが、その時ローマ教皇レオ10世に納めるお金がなく、金塊にしておよそ5億円(現代の価値に換算)ほどをドイツの高利貸し業者フッガー家から借金して支払い、大司教の座に就いた。教皇は5億円の借金の返済のために、総額5億円のお札売りの許可を与えた。こうして、教皇、マインツ大司教、フーガ家の3者が一体となって、「聖ピエトロ大聖堂の再建費用」という名目を立て、贖宥状を発行し、その売上で借金を返済することを計画し実行したのであった。売り上げの半分はローマ教皇のもとに送られ、半分はフッガー家のものとなる約束が取り交わされていた。この時の贖宥状説教師には、フッガー家の手代がぴったりと貼りつくように付き添い(一番最後にいた、箱を開けるカギを持った男である)、お金を回収する役目を担っていた。9

 ところで、お札売りのご一行は、マルチン・ルターが住んでいるザクセン選帝候の領内に入ることを禁じられていた。ザクセン選帝候はヴィッテンベルグ城に、聖遺物をいろいろな所からたくさんコレクション収集し、カタログまで出版していた。聖遺物の中には、聖人の足の骨とか、イエスの十字架の切れ端とか、乳飲み子イエスをくるんだ布の切れ端とか、いろいろなものがあり、カタログには霊験あらたかな効能書までつけていた。そして、この遺物を拝見すると、煉獄の苦しみは2万年帳消しになるとかと謳われていた。ザクセン選帝候は、これを1年に1回だけ「全聖徒の日(天に帰ったすべての聖人と殉教者を記念する日、「万聖節」)」の祝日の11月1日に開帳していたのであるが、もっと効能が完全だとする免罪符が自分の領地で売られると、1年に一度のご開帳日に誰も来なくなってしまうため、禁止していたわけである。10

見過ごせなかったルター

 ルターは、背後の借金返済のためという目的は知らなかったようだが、免罪符の概念は彼の聖書理解、神認識とは相容れず、神を曲げてしまうものであったため、「95か条の論題」を一枚の神に書き綴り、マルチン・ルターの教会直属の上司のずっと上にあたるマインツ大司教(5億円の借金返済のために免罪符を発行した当の本人)宛に手紙をつけて送った。「このようなことについては、きちっとしていただくのがあなたの責任です」と。知らなかったとはいえ、ルターは、ことの発端の張本人に向かって、「95か条の論題」を添えて手紙を送ったのであった。手紙を出し、ヴィッテンベルグの城付属の教会の扉(当時大学の掲示板として使われていた扉)に「95か条の論題」の一枚の紙を掲示したようである。この辺は、「掲示はしなかった」という説、「手紙と掲示が同じ日だった」と言う説、「掲示は一日遅れだった」という説と3つの学識的な見解があり、事実はまだ判明していないそうなのだが、手紙の日付は1517年10月31日となっている事実があり、「95か条の論題」はともかく提示された。手紙の日付の翌日は、「ご開帳の日」であり、ルターは、この日を定めて問題を提示したわけであった。11

 「95か条の論題」の第一条は、次のように書かれている。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『あなたがたは悔い改めなさい』と言われた時、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである」

カトリックの理解では

 この後、ルターはローマ・カトリック教会から破門されるのだが、教皇やローマ・カトリック教会の教え=キリストの教えだと信じるしかなかった時代の体制から、印刷術が普及されて一人一人が聖書を読めるようになり、神を知りたいと黙想し、インターネットによる情報社会となり、多くの人の目で教えが検証できる時代へとなっていった。

 さて、現在のカトリックでは、マルチン・ルターをどのように捉えているのだろうか。カトリック中央協議会のサイト12には、「宗教改革と呼ばれる大運動は、単に宗教の分野だけに限定されるものではない。それは政治闘争、経済、民族、国家、階級の対立、思想や文化が複雑にからんだ歴史的変動という性格を帯びている。こうした動きの発火点となったのはマルチン・ルターであった。」とある。




 カトリックが贖宥状の販売や金銭による取引を禁止したのは、宗教改革が進んだ影響を受け、1545年(「95か条の論題」から28年後)に開かれたトリエント公会議であった。が、禁止しつつも依然「贖宥」の意義は保たれること、聖人や聖遺物の崇敬、煉獄や諸聖人の通効(過去にさかのぼってこれからも有効)といった(聖書というよりは)教会の伝統に由来する教義が依然有効なものであることを認めたのであった。

まとめ

 誤った教理がわがもの顔で横行し、羊がさまよい苦しむとき、神は手を差し伸べられる。こうして、繰り返されつつ、すべての人が救われて真理を知るように望んでおられる(Ⅰテモテ 2:4)神の御手によって、歴史は動かされていく。

「ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。」(エゼキエル 34:2,3)

「わたしは生きている、――神である主の御告げ。――わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。神である主はこう仰せられる。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない。」(エゼキエル 34:8-10)

 キリストの贖いが成就し、ローマ支配の中、4世紀の終わり頃に国教化され広がっていったキリスト教、分裂しつつもキリスト教は存続し、11世紀に始まった十字軍を経て、16世紀の頃にはキリストの愛による教えはどこ?というような堕落としかいいようがない状態となっていた。そのような時代に、神は、ルターを起こされ、用いられた。ルターが神聖ローマ帝国のドイツに生まれ育ち、導かれた過程を見ると、神の御手が見えてくる。ルターは、神に純粋に従う心を持った青年であり、救いを求め神の恵みにたどり着き、新生された後は、そのような世の中にあって、一途に神の教えを説くことに努めた人であった。

 カルト化の根は、「罪」である。時代が変わって、環境が違っていても、「罪」が高じると、人は同じような動きをする。神に従う道は、徹底した悔い改めである。口先だけの悔い改めは、表面を取り繕い、「もう悔い改めた、許せ」となかったことであるかのように、行き過ぎる。口先だけの悔い改めは、そのことに誰かが触れようものなら、「あれは、過去のことだ」としてしまい、違う形で罪が芽吹いていく。罪のパン種は、そんなに甘くはない。

 悔い改めを説き、自らも実践していたルターであるが、「95か条の論題」を教会の最高指導者である大司教に提示した後のことを、次回以降、見ていこう。

  1. 徳善義和『マルチン・ルター——生涯と信仰』教文館、P24 ↩︎
  2. 同 P25 ↩︎
  3. https://ja.wikipedia.org/wiki/マルティン・ルター ↩︎
  4. 徳善義和『マルチン・ルター——生涯と信仰』教文館 P32 ↩︎
  5. 同 P33 ↩︎
  6. 同 P41 ↩︎
  7. 同 P51 ↩︎
  8. https://ja.wikipedia.org/wiki/レオ10世による贖宥状 ↩︎
  9. 徳善義和『マルチン・ルター——生涯と信仰』教文館 P76, P77、世界史の窓「贖宥状/免罪符」 ↩︎
  10. 徳善義和『マルチン・ルター——生涯と信仰』教文館 P77 ↩︎
  11. 同 P81,P82 ↩︎
  12. https://www.cbcj.catholic.jp/catholic/history/reformation/ ↩︎

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