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聖書個所:ルカの福音書 1章25節~56節(新改訳)
『特別に恵まれた方-マリヤ-』
イエスが生まれる頃の時代背景
ペルシャのクロス王によって、バビロン捕囚から解放されて、神殿を再建したユダヤは、捕囚という苦しみを経て罪を悔い改めて罪から離れていったかというと、そうとはならなかった。ペルシャやギリシャの支配を経て、エルサレムに神殿と祭儀はなんとか復興し、一時は自治・独立したこともあった。紀元前167年ごろのことであるが、セレウコス朝の王であったアンテオコス・エピファネスがエルサレム神殿を略奪し、ユダヤ教を迫害して、偶像崇拝を強要し、異教の偶像を神殿に捧げるという行為を行ったため、祭司マタティアとその5人の息子たちが立ち向かい反乱を起こした。紀元前166年の祭司マタティアの死後、息子のユダ・マカバイが中心となり、紀元前165年についにエルサレムを奪還し、異邦人に汚されたエルサレム神殿の聖所を清め、神殿でのユダヤ教の礼拝を復活させた。ハヌカの祭りはこれを記念したものである。その後、ハスモン朝(祭司マタティアの祖父の名が、ハスモンであったことが由来とされている)下でユダヤは、紀元前63年にローマ軍司令官ポンペイがエルサレムを占領する時まで、自治、独立体制を取ったのであった。
捕囚解放後、自治、独立体制の時期もあったが、紀元前63年から、ユダヤはローマの支配、監督下に置かれた。ローマ政権下では、イドマヤ(エドム)出身のヘロデ大王の父がカエサルの信用を勝ち取ったことで、ヘロデ大王がユダヤの統治を任されていた。そのような時代、神の御手によって、メシアなるキリストをこの世に遣わし、人々に救いを与えるという神の計画が動き出したのであった。メシアの働きの前段階として、人々の心を神に向けさせ、人々に自身の罪と向き合わせ、悔い改めて神に贖われる必要がある存在であるということを知らせてイエスにつなげていく(メシアの道を備える)任務を担ったヨハネを、子供のいなかった祭司のザカリヤとエリサベツ夫婦に与えられた。前回は、このヨハネが夫婦に与えられたところを見たが、今回は、その続きである。
御使いのお告げ
場面は変わる。「ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。」(ルカ 1:26,27)ガブリエルがザカリヤに告げた通り、不妊だったエリサベツは身ごもり、五か月間の引きこもり生活をやめ、落ち着き安定し六か月目になった頃、ガブリエルは、ナザレに住んでいたひとりの処女(マリヤ)のところに神に遣わされてやって来た。ヨセフ(加える、増やす)、マリヤ(ミリアム(高められたもの)のギリシャ語名)はどちらもダビデの家系であった。ヨセフがダビデの家系であることは、マタイの福音書、ルカの福音書に書かれている(マタイ 1:1-17, ルカ 3:23-38)。では、マリヤは? 古い伝承(2世紀に記されたマリヤの誕生を記した外典「ヤコブ原福音書」にも書かれている)では、マリヤは、ヨアキムという名の大変裕福な男性とアンナという女性のもとに生まれダビデの家系に属していたと言われている。聖書では、アロンの子孫のエリサベツは、マリヤの親類とも書かれている(ルカ 1:36)。マリヤは、ダビデの家系ユダ族の子孫でもあり、アロンの家系レビ属の子孫でもあるということになる。
ガブリエルは、マリヤのもとへ何をしに来たのか。「御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。』」(ルカ 1:28)いきなり家の中に現れて、「おめでとう」とサプライズでの御使いの登場である。犯罪が多発している今の時代に、いきなり家の中に知らない人が現われ、同じ言葉を語られたとしたら、強盗か詐欺かと疑い通報も考えそうな登場の仕方である。天的な存在に見えたとしても、トリックではないかと疑うかもしれない。そういう純粋に生きることが難しい不信仰な時代である。このサプライズの言葉にマリヤはどのように反応したか。「しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」(ルカ 1:29)とある。半年前、ザカリヤの前にガブリエルが登場した時は、ザカリヤは、祭司の務めの最中だったこともあり、不安を覚え、恐怖に襲われていた。マリヤは、「おめでとう、恵まれた方…」という挨拶に心当たりがなく、「ひどくとどまって」とある。信仰的に生きることはマリヤにとっては自然なことだったのだろう。「何のあいさつだろう?」と考え込んでいる純粋で素直な性格のマリヤが垣間見えるようだ。
「すると御使いが言った。『こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。』」(ルカ 1:30)人間は、自分にふりかかる可能性があるような予測のつかないわからないことに対し、不安を感じるものである。恐怖に襲われたザカリヤには、「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです…」(ルカ 1:13)と言っていたガブリエル、マリヤにも同じ言葉「こわがることはない。」と語りかけている。ザカリヤには「あなたの願いが聞かれた」(祈りの応答)と言い、マリヤには、「あなたは神から恵みを受けた」と一方的な神の恵みであるということが伝えられている。マリヤは、特別な恵みを受けるような、神に心を向けて生活していた女性だったのだろうが、マリヤには信仰を自負するような思いはみじんも見られない。マリヤは主の祝福のことばに考えても心当たりがなく、考えてもわからないことでかえっておそれを抱いてしまったようである。
続けて、ガブリエルは恵みの具体的内容を語った。「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」(ルカ 1:31-33)いいなずけはいたが、結婚前の処女であるマリヤにとって、「ご覧なさい。」( ほら,ごらん,そら,それ,さあ,まあ等。口語訳では「見よ」)とすぐにでも起こるというような勢いで、「男の子を産む」と名前まで具体的に指定されて言われたことは、人知を超えている内容であった。すばらしいことが語られているのだが、後にも先にも例がないような人間の頭では理解できない特殊なことであった。しかも、時は、ローマ支配下のヘロデ大王治世の世の中で、生まれる子は、「ダビデの王位が与えられ」「とこしえにヤコブの家を治め」「その国は終わることがない」(永遠にイスラエルを治める王)であることが語られたのである。焦点の置き所によっては恐れが増大するような内容であるが、マリヤは、どう反応したか。
マリヤの信仰
マリヤは、ガブリエルが語った人知を超えた内容を聞いても、まったく実感がわかなかったようだ。「そこで、マリヤは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。』」(ルカ 1:34)素朴な疑問である。「来年の今ごろ、あなたに男の子ができている」と言われたサラが心の中で笑って言った言葉、「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」(創世記 18:12)という断定の言葉とは違う疑問の言葉である。サラは年齢的、身体機能的な理由、また、祈っても与えられなかった長い年月から望みは失せ、あきらめに心が占められていたのだが、マリヤは、若さもあるからか、一笑に付すことなく、真摯に受け止めて尋ねている(比べることもないのだが…)。時に人間的な経験や知識は信仰の妨げになる。
そのように率直に問うてくるマリヤにガブリエルは答えている。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカ 1:35-37)丁寧な説明にわからないなりに、マリヤは神の恵みがこの身に成るということを理解したようだ。「聖霊の力でみごもること」「聖なる者で神の子と呼ばれる子を産むこと」を。信仰は、「神にとって不可能なことは一つもない。」これを信じられるかどうかである。神よりも他のもの(自分の築いた権威、地位、お金…等)を信じていると、自分の理解を超えていることに遭遇した時に、それが神のみわざであっても不安から「悪いことが起こるに違いない」と思ってしまい、それが「サタンの使いだ」→「私の言うことを聞け」となり、言うことを聞かないと「自分はあなたより神にある者だから経験上、わかる」とかと言って、支配しようとし、カルト的方向へと向かってしまうことになる。この「経験上」というのが曲者であり、目上の人などから言われると、聞けない事情がある若者等は困ってしまうことになる。信仰者同士であれば、隣人に働く神を認めず、神を自分の頭に納めて小さくしてしまい、自分で自分を高くする罠に陥っていることに気付く必要がある。
真実のキリストにある信仰者は、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ 8:28)と信じ、悪いように見えるようなことも益になる道であると信仰を働かせ、恐れは率直に神に心を注ぎ出し祈ることだろう。また、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」(ピリピ 2:3〈口語訳〉)ることを心掛け、軽率に人を傷つけ、自身を正当化したりはしないだろう。また、「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道」(Ⅰテモテ 6:6)ということを信仰の訓練を通して知っていくため、いろいろ(信仰に関する事でも)貪欲にがっついたり、人に強要したりしないだろう。信仰の成長の過程もあるが、年数を経たキリストを名乗る信仰者に、今挙げたみことばとは異なる実が成っていたなら、自身の信仰のためには、共に歩むべきではない。
「神にとって不可能なことは一つもない。」処女懐妊は、マリヤにとって困ることもあるだろうに、マリヤは少しも疑わずに素直にこれを信じた。「マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』こうして御使いは彼女から去って行った。」(ルカ 1:38)へりくだって、神にすべてを委ねた。口で言うのはたやすいが、なかなかこう言える人はいない。マリヤの信仰である。
信仰の励まし
「そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。」(ルカ 1:39)ガブリエルが去って、理解を超えた事を聞いたマリヤは落ち着かなかったことだろう。ガブリエルが「ご覧なさい。」( ほら,ごらん,そら,それ,さあ,まあ等)と、エリサベツの妊娠のことを言っていた言葉に従って、マリヤはエリサベツを訪ねることにした。「立って」「急いだ」という表現に、マリヤのそわそわして落ち着かない様子が伝わってくる。(急ぐ必要性はないと思うのだが、気がせき落ち着かなかったようである)。
「そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。」(ルカ 1:40, 41)マリヤがエリサベツにあいさつした時、「まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ」(ルカ 1:15)ていた胎内の子がおどった( 跳びはねる,小躍りしはねる,躍る,躍り上がる)。聖霊によって主の母になる人だと胎内の子に伝わったように、躍り上がって喜んだ様子が書かれている。そしてエリサベツもまた「聖霊に満たされた」とある。異言を語ることが聖霊を受けたしるしであるという説があるが、聖霊の満たしというのは、異言を語るだけが満たされた印ではなく、語らなくても満たされていることがあることがここからもわかる。ここは、キリストが天に上げられ、聖霊が遣わされる前であり、旧約とは違うと言われるかもしれないが、神は同じ神(ご聖霊も同じご聖霊)であり、そのような線引きはないと思う。しかし、聖霊の満たしは、満たされているかどうかわからない、満たされているに違いないとかというあやふやなものではなく、異言でないにしても、表現は難しいのだが、自分からではない喜びとか、激動とか周囲にもわかる現象がある。異言だけをしるしとして限定することは、教えるのはマニュアル的に教えやすいが、神からではない異言や間違っている方向に向かっていたとしても気付かない危険がある。
「そして大声をあげて言った。『あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ 1:42-45)聖霊に満たされたエリサベツは、大声をあげて言った。普段は大声を発するような女性ではなかったろう。聖霊に動かされ発したのはマリヤを励ます祝福の言葉であった。このことばを聞いたマリヤは、「あなたは女の中の祝福された方」「あなたの胎の実」(すでにお腹に宿っていたようだ)「私の主の母」という一つ一つの言葉に(あいさつしただけで、まだ知る由もない事柄をエリサベツは語った)、同じ御霊からの一致を感じ取り、どんなに励まされたことだろうか。これから処女懐妊ゆえに起こるだろう試練の支えとなったことだろう。いいなずけがいる身で、いいなずけの子供ではない子を身ごもることは、人間的に見れば不貞としか見られないことであり、それは当時の社会では石打ちの死罪に値する事柄であった。律法では、「ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。」(申命記 22:23,24)とある。除き去るべき「悪」とされた。普通であれば、ヨセフの子でないとわかれば、ヨセフが訴えなくても死罪に相当する罪とみなされる。そのような社会的通念の状況下で、マリヤは「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と受け入れたのである。主なるイエスがまだ地上に来て神の愛を現わされていない時代である。恵みがまだ表されていない律法中心の社会で「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と身を差し出して言える信仰が私たちにあるだろうか。大切な一人息子のイサクを全焼のいけにえとしてささげるよう言われたアブラハムが、「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ」と神の言葉に従ってささげようとした(創世記 22:1-8)のに似た信仰がマリヤの内に見られる。どちらも、死がそこに見えても、神は悪いようにはなされないという死を超えた祝福に目をとめている。エリサベツを通じて、ガブリエルを遣わされた神を体感したマリヤは、どんなに励まされたことだろう。そのことが、続くマリヤの応答(マリヤの賛歌)から読み取れる。
マリヤの賛歌
「マリヤは言った。『わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」(ルカ 1:46-48)喜びをかみしめ、神を讃え、「どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」と実現後に焦点を置いて、かみしめるかのようにマリヤは語る。
次の言葉には、偉大なる神を見上げ、身に起こることをはしためにすぎない自分に賜った大きな恵みとして、恐れかしこみつつ受け止めるマリヤの姿がある。「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。」(ルカ 1:49,50)その恵みは、自分だけにとどまる恵みではなく、代々にわたって続いていくという一大プロジェクトとなる恵みである。
続く主の力を言い表す言葉は、自分を勇気づける言葉のようでもある。「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」(ルカ 1:51-53)
「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。』」(ルカ 1:54,55)主から受けた特別なこの使命は、イスラエルを救うためであり、神の一方的なあわれみから出たものであり、それは、遠い昔に「アブラハムとその子孫に語られたとおり」=「わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」(創世記 17:19)との契約を守るための出来事であるとここでマリヤは言っている。バビロン捕囚、神殿再建、一度は独立を経てもまた他の支配下になるという、ローマ支配の神が見えないような世の中で、神は、決してイスラエルをお見捨てにならないと信じている信仰による言葉である。主から特別な使命を受けたマリヤに高ぶりは少しもなく、神を讃えている。信仰者マリヤの姿である。
「マリヤは三か月ほどエリサベツと暮らして、家に帰った。」(ルカ 1:56)エリサベツがみごもって九ケ月ほどの時までの約三か月間マリヤはエリサベツと暮らして、家に帰った。ちょっと会いに来て、気づくと三か月滞在していたという感じかなと思える。神をほめたたえ、励まし合う信仰の交わりの中、時を忘れていたようだ。エリサベツの出産が近づいて、マリヤは(三か月といえば、人によりつわりがひどくなるような頃であるがその頃に)帰ったようである。
「神にとって不可能なことは一つもない。」このことを心から信じているだろうか。目先を考えるといのちの危険があるような損に思えるような事柄において、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と言える信仰があるだろうか。口で言うにはたやすい。社会的常識(特に自分が入手した情報や科学的実証など目に見えるもの)にとらわれやすい性質が私たちにはある。また、高齢だからムリ、環境が悪いからムリ、生い立ちが良くなかったからムリ…と、理由をつけてもうムリだとあきらめていたり、何かと比較して制限を設けてはいないかだろうか。生かされている以上、「神にとって不可能なことは一つもない。」と信仰を働かせて、歩んでいこう。
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