『キリストの花嫁 5』雅歌 4:8-16

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 前回は、婚礼の様子と花嫁の美しさを見てきた。成長した花嫁は、すべてが美しく汚れがなかった。7節の後、heb hebnu(段落記号、段落を表わす)が入っている。花婿が、没薬の山、乳香の丘へ行って、場面は変わる。続きを見よう。

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聖書個所:雅歌 4:8-16(新改訳聖書)
『北風と南風-きよめといのちの恵み―』

花婿の招き

 「花嫁よ。私といっしょにレバノンから、私といっしょにレバノンから来なさい。アマナの頂から、セニルとヘルモンの頂から、獅子のほら穴、ひょうの山から降りて来なさい。」(雅歌 4:8)花婿は、花嫁を招く。遠いところに先へ先へと行って待たれるのではなく、「私といっしょに」とともに歩んでくださるのである。レバノンは、heb heblaban「白」の派生語であり、レバノン杉と同様、きよめの象徴である。自我が砕かれきよめられた花嫁は、そこから主とともに歩み出すことを求められている。アマナは、レバノン山脈の東方側(アンティ・レバノン山脈)の峰の一つで、heb heblabanown「堅い契約、職務、建てること、支えること、忠実であること」を意味することばである。結婚の契約を通して、子孫を建て上げる豊かな実りの契約ということである。セニルは、ヘルモン山の呼称であり、とがったとか、頂上という意味がある。アマナとセニルとヘルモンは、ヘルモン山の3つある頂の名である。ヘルモンは、霧で有名であり、ヘブル原語には「引きこもる」という意味があるそうだ。ヘルモン山からの霧は周りの地域を潤し、豊かな実りによる祝福を産み出した。「没薬の山、乳香の丘」(雅歌 4:6)と更なるへりくだりと信仰の高みに行くには、今いる山を降りて越えてこなければ、頂にとどまっている限りにおいては、行くことができないのである。きよめのレバノン山脈を越え、高くそびえるセニルの頂を越え、霧のヘルモンの頂を越え、安全で平和なへりくだりの山への招きである。レバノン、アマナ、セニル、ヘルモンにいる花嫁は、常に危険を伴っていたのである。そこは、ライオンやひょうが棲息し、洞窟があるところであった。常に戦いを意識している必要があった。そこを越え、「没薬の山、乳香の丘に行こう。」と花婿は言われる。

 「私の妹、花嫁よ。あなたは私の心を奪った。あなたのただ一度のまなざしと、あなたの首飾りのただ一つの宝石で、私の心を奪ってしまった。」(雅歌 4:9)花婿は、「私の妹」と花嫁を呼んでいる。確かに、キリストは、私たちの初穂であり兄であるお方である。イエスの心を奪うもの、引きつけてやませないものとは何か? 花嫁のただ一度のまなざしと、花嫁の首飾りのただ一つの宝石で、とある。花嫁の見た花嫁の目は、顔おおいのうしろで鳩のよう、つまり、素直で、識別力にたけ、しかもへりくだりの中の目であった(雅歌 4:1)。花嫁の首飾りの宝石は、宝石の首飾りは、“chains of gold”(雅歌 1:10 欽定訳)「金の鎖」であり、金は神性、鎖はつながれるということから、主に明け渡された意志であった(雅歌1:10)主をとりこにしたのは、花嫁の素直で賢くへりくだったただ一度のまなざしと、主に明け渡されたただひとつの意志であった。これらは、花婿の御前に尊く、価値あるものである。

 「私の妹、花嫁よ。」(雅歌 4:10)と念を押すかのように、もう一度呼びかけられる。「あなたの愛は、なんと麗しいことよ。あなたの愛は、ぶどう酒よりもはるかにまさり、あなたの香油のかおりは、すべての香料にもまさっている。」(雅歌 4:10)ことを雅歌の初めに、花嫁が花婿の愛について言っている。「あなたの愛はぶどう酒よりも快く、あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。・・・。私を引き寄せてください。」(雅歌1:2-4)花嫁が、花婿を愛した初めの愛を、花嫁に思い起こさせることばである。当初の花嫁には、狂おしいほどの花婿への愛への飢え渇きがあった。孤独の試練を経、傷ついた花嫁が忘れてきた思いである。花婿の姿が見えなくなって、回復した思いであったが、完全な回復ではなかった。「あなたの愛は、ぶどう酒よりもはるかにまさり、」十字架の贖いよりも快い、成長した愛、花嫁の愛もまた、十字架の購いでとどまってはいず、成長していたのである。「あなたの香油のかおりは、すべての香料にもまさっている。」没薬や乳香、貿易商人のあらゆる香料の粉末をくゆらして、煙の柱のように荒野から上って来た花嫁。その香料は、調合され、バランスがとれた一致のあるかおりであった。その一致のあるかおりは、どんな他の香料よりまさるものであった。

 花婿は続ける。「花嫁よ。あなたのくちびるは蜂蜜をしたたらせ、あなたの舌の裏には蜜と乳がある。あなたの着物のかおりは、レバノンのかおりのようだ。」(雅歌 4:11)罪深さを熟知し、簡単に切れて毒づいたりしない花嫁の紅の糸のようなくちびるは、蜂蜜をしたたらせていた。「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」(詩篇 119:103)みことばを十分に蓄え、くちびるからしたたり落ちるように、自然にみことばがこぼれ落ちるくちびる、こぼれてもこぼれても、蓄えた蜜と乳はなくならず、「舌の裏」heb hebtacha「~の下で,下に」)に蓄えられているくちびる。花嫁は、蜜のように甘いみことば、乳のように赤子にも吸収できるように処理されたみことばを蓄えているのだ。「あなたの着物のかおりは、レバノンのかおりのようだ。」(雅歌 4:11)花嫁が着ている着物は、レバノンのかおりのよう、つまり、雪よりも白くきよめられた義の衣である。この後、heb hebnu(段落記号、段落を表わす)が入っている。美しい花嫁のようすが語られた。

 「私の妹、花嫁は、閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉。」(雅歌 4:12)初穂なるイエスさまの妹は、イエスさまの歩まれた十字架の苦難の道の後に続く者でもある。花嫁は、この苦難の試練を通り、心を閉ざしてしまう経験をしていた。人が集えるように整えられた庭、園のような広い心を持っていた。いのちの源であるみことばを流す源泉であった。そして、生ける水が湧き出す泉でもあった。いのちの躍動が見られる生き生きとした花嫁であり、人にもそれが伝えられた。それが今、汚れから守るために、純潔を保つために、庭は誰も立ち入らないように閉ざされてしまい、源、源泉はいのちを流さないように閉ざされてしまい、泉も外に流れないように封じ込められてしまっている。開けば、封印を解けば、ふたたびいのちがあふれるのであるが・・・。

 花嫁から、どんなものが産み出されるか。「あなたの産み出すものは、最上の実をみのらすざくろの園、ヘンナ樹にナルド、ナルド、サフラン、菖蒲、肉桂に、乳香の取れるすべての木、没薬、アロエに、香料の最上のものすべて、庭の泉、湧き水の井戸、レバノンからの流れ。」(雅歌 4:13-15)この箇所は、花嫁の産み出すものとして、ガラテヤ 5:22,23の御霊の実と対比させ、これまでも述べてきた。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ 5:22,23)

 ①最上の実をみのらすざくろの園 ざくろは愛である。中東のことわざには、「ざくろを食べなさい。そうすれば、ねたみと憎しみが取り去られる。」というのがあることを先週も述べた。愛ほど、ねたみと憎しみを取り去ることのできるものはない。中東の熱くて乾燥した地域では、果汁が多く、すっぱいざくろの果実は、心をも潤したようだ。ざくろは、中の種の部分を食する果実である。多くの愛の種を宿し、人々を潤すざくろ、花嫁は、ざくろの中でも最上の実をみのらせるざくろを産み出すことができ、しかもそれは、果樹園を形成するほどのものなのである。

 ② ヘンナ樹 ヘンナ樹は、高さ2~5メートルの潅木で、多数の花を付け、非常によいかおりがする花をもつ。化粧やしみを隠すため、また香水にも使われ、また、皮をなめすときや、堅くしたりするときにも使われた。喜びは人を美しくする化粧品である。またよいかおりをただよわせる香水でもある。ヘンナ樹は、喜びを象徴する。しみやしわを主におおってもらうことは、喜びである。また、「主を喜ぶことは、あなたがたの力である。」(ネヘミヤ 8:10, 欄外) というが、皮をなめす時に、堅く強くするヘンナ樹は、まさに喜びの象徴である。

 ③ナルド ナルドは、おみなえし科の宿根草である。ナルドは、平安、平和に当たる。ベタニヤのマリヤが十字架を目前にしたイエスに(マルコ 14:3では頭から、ヨハネ 12:3では足に)ナルドの香油を塗った。この香油は、大変香りが強く、家が香油の香りでいっぱいになったとある(ヨハネ 12:3) 。ナルドの香料は最もかおりの長持ちする成分を構成するものとして有名であったと言われている。強い香りゆえに、続くピラトの裁判の法廷に、ヴィア・ドロロサに、ゴルゴダの丘にと、埋葬されるまで香ったことであろう。平安、平和をもたらした主の十字架のかおりである。ナルドはまた、ローマや中東で、精神安定剤としても用いられた。神の平安は一番の精神安定剤である。13節の終わりと14節の初めに、この平安の象徴ナルドが計2回述べられている。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ 11:28-30) と主イエスは言われた。イエスのもとに来たときに得る平安、その平安からくるたましいの安らぎ、憩い、平和。平安はこの2面がある。

 ④ サフラン 寛容(grea grmak 忍耐)。聖書には、「怒るのにおそく、恵み豊かな神」(民数 14:18)とあるが、寛容は忍耐を伴い、忍耐は寛容を伴う。めしべの柱頭が料理の風味と色(あざやかな黄色、パエリアなど)をつけるのによく用いられるが、サフランは、クロッカスによく似たあやめ科の球根植物である。複雑な薬の成分の一つにも使われ、ヒステリーの鎮静剤として用いられた。サフランの色を変える力、着色力は、多くのものの色を変える忍耐の力についての描写のようである。たとえば、ヒステリーを起こし、周囲を真っ黒に染め上げている状況下で、だれかがこの忍耐と寛容のサフラン(鎮静剤)を用いるなら、次第にヒステリーはおさまり、周囲を麗しい色に染め変えられるのである。

 ⑤ 菖蒲 親切、慈愛、善、やさしさに当たる。菖蒲は、葦のような多数の茎が集まった、切るとよいかおりがする芳香性の植物である。根茎の精油は、芳香性の健胃薬として、茎の甘い糖分は食用のシロップに、茎は音楽の演奏に用いられた。胃にやさしく、甘くやさしい、やさしく心地よい音楽・・・というところだろうか。

 ⑥ 肉桂 善意に当たる。シナモンといえばわかりやすいだろう。芳香性のある根の皮は、健胃薬になり、味や臭いの矯正薬(矯味、矯臭薬)、菓子として用いられた。まさに善意の薬である。

 ⑦ 乳香の取れるすべての木 乳香は誠実(grea grpis 信仰)に当たる。乳香は、白くなるという意味の語源から来ている語である。乳香は苦味と酸味があり、きれいで安定してよいかおりのする炎を上げて長時間燃える。信仰の炎である。ささげものに添えられた純粋な乳香は、主の御前に立ち上る信仰のかおりとなって立ち上った。乳香はまた、薫蒸とばい菌や虫を殺すための薬として用いられた。私たちの霊を汚す菌を退治するのもまた、信仰の力である。

 ⑧ 没薬 柔和に当たる。没薬とは、ミルラという棘のある低木の樹脂を濃縮したものであり、古くから、通経薬、胃薬、うがい薬、ミイラ作りの薬として用いられてきた。白や黄色の小さな丸薬で売られていて、強いよい匂いがあり、苦味がある薬である。麻酔薬としてよく用いられ、十字架上のイエスに、兵士たちは、没薬を混ぜた酸いぶどう酒を差し出したのは、麻酔薬としてであった。柔和、へりくだりを持つことは、麻酔薬の役割を果たす。他人が、どんなに心を傷つけるような痛いことを言ったとしても、この麻酔薬が効いているなら、大丈夫である。自分は言われて当然な罪ある者であるのだから。シムイにのろわれたダビデがそうであった。息子アブシャロムに王座を明け渡し、逃亡の身となったダビデをシムイはのろった。それに対するダビデは、「ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」(Ⅱサムエル 16:11,12)であった。信仰のへりくだりである。

 ⑨ アロエ 自制、節制、克己(欲望、衝動を押さえる)、寛大、に当たるやけどの特効薬、緩下剤など医者いらずの薬として用いられている。また、防腐剤としても用いられた。自制というものは、やけどを防ぎ、喜びや楽しみを持続させ、腐るのを防ぐ、医者いらずのアロエのようである。自制がきかないために、カード地獄など大やけどをした人はたくさんいる。これらの香料の中でも、花嫁の産み出す香料は、香料の最上のものすべてであった。ここまでが、御霊の対比に見る花嫁の産み出す実である。それ以外にあと3つ、産み出すものが描かれている。

 ① 庭の泉 庭園にいのちを与えるのは泉である。いのちの泉は、主を恐れることであると聖書は言っている。「主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる。」(箴言 14:27)花嫁は、主を愛することだけでなく、主を恐れてもいた。

 ② 湧き水の井戸 生ける水の井戸(泉、穴)新鮮な生ける水が絶えず湧いている井戸に花嫁をたとえているのである。

 ③ レバノンからの流れ きよめの流れ。他人をもきよめることができる花嫁。閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉であった花嫁が、開かれるとき、庭の泉、湧き水の井戸、レバノンからの流れ、大川になるほどの流れが産み出されるのである。以上、花嫁の産み出す十二個のものを見てきた。

花嫁の応答

 4章1節から15節までにわたった花婿のほめことばに、花嫁は応答する。いなくなった花婿を捜しまわって、しっかりとつかまえて、母の家の奥の間に連れて行って、婚礼の儀のようすが描かれ、花婿のほめことばがあり、山から降りてくるように招かれた後、最初に出てくる花嫁のことばである。「北風よ、起きよ。南風よ、吹け。私の庭に吹き、そのかおりを漂わせておくれ。私の愛する方が庭にはいり、その最上の実を食べることができるように。」(雅歌 4:16)花婿のことばに応答し、花嫁は、自分が産み出す最上の実をともに喜ぶことができるように、北風と南風なのかを見てみよう。

 ① 東風は、聖書において、主の懲らしめの風として描かれている。熱い焼けつくような風が砂漠から吹いてきたからである。ヨセフが解き明かしたパロの夢は、「東風に焼けた、しなびた七つの穂が出て来る」夢であった(創生記 41章)。モーセによる出エジプト時に、エジプトに下された十の災いの8番目のいなごは、東風が運んできた。「主は終日終夜その地の上に東風を吹かせた。朝になると東風がいなごの大群を運んで来た。」(出エジプト 10:13)紅海を分けたのは、東風であった。これは、イスラエル人を救うと同時に、エジプトをさばいた。「モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。」(出エジプト14:21)また、「あなたは東風でタルシシュの船を打ち砕かれる。」(詩篇 48:7)ともある。

 ② 西風はどうか。先ほどのエジプトへのいなごの大群を追いやったのは、西風である。「主はきわめて強い西の風に変えられた。風はいなごを吹き上げ、葦の海に追いやった。エジプト全域に、一匹のいなごも残らなかった。」(出エジプト14:19)西の風は、また雨をもたらす風でもあった。イエスさまは、正しいことを見分けるたとえとして言われた。「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ。』と言い、事実そのとおりになります。」(ルカ 12:54)また、エリヤが手のひらほどの雨を見たのも海の方、つまり西であった(Ⅰ列王 18:42-46)。西風は恵みの雨と祝福の象徴である。

 ③ 北風は冷たくて、寒々とした冬の突風のような風であり、(さばきも含む)きよめを象徴する。「今、雨雲の中に輝いている光を見ることはできない。しかし、風が吹き去るとこれをきよめる。北から黄金の輝きが現われ、神の回りには恐るべき尊厳がある。」(ヨブ 37:21,22)エリフが語った北風である。エゼキエルの召命時の神の顕現は、「わたしが見ていると、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に光を放ちながら吹いてくるではないか。その中、つまりその火の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった。」(エゼキエル 1:4<新共同訳>)

 ④ 南風は、新しい成長といのちの恵みをもたらす風である。

 花嫁が、「北風よ、起きよ。南風よ、吹け。」と言ったのは、花嫁の切なる願いでもあったのである。園をきよめる北風、自分も、そして周囲もきよめる北風が起きるのを待ち望む花嫁。「北風よ、吹け。」ではない。痛い目にあうことを望んでいるわけではない。起きて目覚めてくれればよい。吹くのは南風である。兄弟にいじめられた花嫁や、北朝鮮の拉致の被害者である横田めぐみさんのお母さんのように、いわれのない被害にあった人は、北風が起こってほしいと願っている。それは、その人たちを恨んだりする感情とは違い、愛から出た感情である。周囲の汚れによる被害、自分も罪ある者だが、その自分をきよきうるわしいものに目を向けていけないほどに、追い詰めた周囲の罪。自分も他人もきよめられなけらば、真の安息はないのである。きよめの後は、恵み、成長、いのちの躍動があって欲しい。母なるご聖霊、花婿なる主イエスといつもともにいて、すでに雨の恵み、祝福の中にあり、その祝福の中のつらい試練にあった花嫁には、西風は十分であったのである。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道で」(Ⅰテモテ 6:6)あり、主に喜ばれ、すべてを受ける道なのである。北風が起きて、南風が吹いてきてこそ、花嫁は、最上の実をかおらせることができるのであり、花婿もその実を楽しむことができるのである。私たち現代のクリスチャンに必要なことは、雨の恵みや祝福の西風ばかりを求めることではなく(それも必要であるが)、「北風よ、起きよ。南風よ、吹け。」と求めることである。

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