以下に記載したQ&Aは、小羊うるちゃん物語のコメントです。
B教会のB主任牧師が異言を異常と思えるほどに嫌っているのには、理由があることが最近になってわかりました。 先代のB0牧師は、日本のキリスト教界の重鎮の弟子の一人でしたが、そのB0牧師のメッセージ集を読む機会があり、Ⅰコリント14章からの異言についてのメッセージが記載されているのが目に留まりました。 どこの団体(教会)かを特定することが目的ではないため、引用を記すことができないことが残念ですが、大筋では大変すばらしいメッセージが書かれていましたが、異言については、こればかりは体験しないと理解できないもののため、聞く人にも何を言っているのかはっきりとわかる言葉でなければいけない、分かる言葉でないならば教会では黙さないといけないという内容が書かれていました。そして、実際の2つのケースが書かれていました。 一つは、奉仕に行った先の地方の教会の隣の店の上階で異言派の集会が開かれていて、不統一に大きな声を出して夢中になっているのが外まで聞こえ、気違いの集まりだった、という自身が見た内容でした。 もう1つは、D教会(偶然にも後にうるが行った教会)に行ったという人から聞いた話でした。異言を求めてD教会に行ったその人は、どうしても異言を語れなかったところ、そこにいた一人の朝鮮の人が、朝鮮語で祈り始めた、するとその教会の先生が「あっ異言を語り出した、聖霊のバプテスマを受けたのです」と言った、それでインチキだと言ってD教会を退いたというので、このようなところもあるのだと知っておいてほしいという内容で、人づてに聞いたのか、インチキだと言って出てきた人に聞いたのか、どのような人に聞いたのかは、書籍には書かれていませんでした。 この異常な体験談が語り継がれ、不要な恐れを代々にわたって抱かせ、力で封じるか、ないものとして扱うかしか対応しきれなかったのだと思いました。 | |
「炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒 2:3,4)キリストを信じる者に初めて聖霊が注がれた場面じゃが、確かに「他国のことばで」とあり、いろいろな国の人がいるところで、自分の国のことばで語るのが聞けた現象じゃった。が、理解できない言葉はなかったとは記されてはいない。「人の異言や、御使いの異言」(Ⅰコリント 13:1)と聖書にあるように、人の言葉ではない異言もあるのじゃ。旧約聖書にも、ダニエルしか解き明かせなかった神からの手が書いた「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。」(ダニエル 5:25)という言葉が記されているぞ。それゆえ、人の原語に限定するのは、おかしなことじゃ。 また、「ほかに『彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。』と言ってあざける者たちもいた。」(使徒 2:13)とあるように、陶酔しているような状況が見られたのは、聖書に書かれていることじゃ。その時の状況で「他国のことば」で理解できる人がいたのは、神の配慮のしるしであった。聖霊に満たされた全員がわけのわからない言葉で、陶酔していたら、それこそ、初めから不要な分裂を招いたのではないかな。 「炎のような分かれた舌が現われて・・・」というのは、制御できない舌というのを思い出す現象じゃ。「舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。」(ヤコブ 3:8)。 「異言」のギリシャ原語は、 (舌)である。制御できない舌を持つのが人間で、何をどう祈ったらよいのかもわからない時にも、舌をゆだねて、ぐじゃぐじゃした思いを神に向け祈ると、不思議に神を身近に感じることができる、聖書の聖い「異言」はそのような面を持つ賜物じゃ。神を身近に感じ、陶酔していくこともありうるだろう。陶酔していても、トリップしているわけではなく、意識はきちんとしているのであり、人をつまずかせないように賜物を管理するのは、各自の責任である。Ⅰコリント 14:2でパウロも、「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。」と言っているじゃろう? ただ、ひけらかすように祈ったり、聖い者になったかのようにふるまうのは、認識が違っていると言える。神からの体験は、聖さとはまた別の神の目的がある現象じゃ。 これは異言ではないのじゃが、神の霊が下っての満たしという面では同じということで例に挙げるが、サウルは、神の霊が下り、高揚して預言を語り王となった(Ⅰサムエル 10:10-13)のだが、ダビデを殺そうと追っかけて行った先でも、神の霊が臨み、預言をしながら歩いてサムエルのところに行き、一昼夜の間、サムエルの前で預言し、裸のまま倒れていた(Ⅰサムエル 19:23,24)とあるのじゃ。 「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ 20:29)とあるが、体験なしに信じることができるならば、それはそれで、幸いなことじゃ。そして、体験したなら、その管理は受けた側に責任が発生することを覚え、神への恐れを失うことなく、神と人を愛し、神とともに賜物を用いて仕えていこうではないか! | |
うるは、いろいろ考えてしまって、疑いも起こるので、体験していなかったならば、信じ続けることができたかどうか・・・、主がご自身を現わしてくださったので、聖書が事実だと知ったのです。体験がなかったら、聖書を読んでも、いい話だったなで、いろいろあった時にしぼんでいたかもしれません。主はその人に応じた導かれ方をなさるのだなと思うと、感謝がわきます💛 |
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