偽りとの闘い~著作に込めたルターの思い

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 前回は、はびこっている免罪符による救いの誤りを正し、教える立場にある聖職者たちが真理に立ち返ることを望んだマルチン・ルターが、95か条の論題を提出した後の流れを見た。ルターは、キリストに仕え、病に侵されても、死の危険に直面しても、精力的に神の国の形成に最期まで尽力した人であった。

 今回は、ルターがユダヤ人をどのように捉えていたか、そして死の3年前に記されたルターの著作「ユダヤ人とその偽りについて」は、どのような意図をもって書かれたかを見てみよう。

 ルターは、ヴァルトブルク城の生活で健康を害するようになり(1521年、38歳頃)、43歳の頃から心臓、および循環器系の持病をいくつも抱えるようになっていた。反対者との戦いの中で、1520年代後半からルターは一種の鬱傾向を時々示すようになっていた。1 自分の意志ではなく誘拐という形で保護を受け、連れてこられたヴァルトブルク城での生活は、静かではあったが、説教も議論もできない孤独な環境であった。ルターが「真っ暗なお城の夜の暗闇の中で、サタンの攻撃を見て思わず、インキ壺を投げつけた」と語っている出来事もあったという。2 そのような精神状態も悪化するような環境下で、名を「騎士ヨルク」(ユンカー・イェルク)と変えて、主を見上げて研究&執筆活動をして自身を保っているような生活であった。47歳になった頃は、耳鳴り、めまい、頭痛といった症状が現れ、それからの生涯そうした症状が交互に現れ、症状が出ると仕事も手につかないほどであった。耳鳴り、めまい、頭痛といった身体症状は、適応障害というストレス関連の病気にも見られる症状なのだが、ルターの置かれた状況を見るに無理もないことである。当時のヨーロッパ世界は、ローマ・カトリック教会の宗教社会であった。異教徒やローマ・カトリックの教理から外れる者は異端者とされ、居場所がないばかりか、処刑によるいのちの危機にさらされる社会であった。曲げられない真理によって異端者扱いされ、罪を着せられ社会から抹殺されたルターが、そのような社会に適応できるわけがなかった。

慰めの讃美歌「神はわがやぐら」

 そのようなルターが、1528年に詩篇46篇(「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(詩篇46:1))を基にして、作詞、作曲した讃美歌が「神はわがやぐら」である。この曲は、後にヨハン・ワルターが合唱曲に編曲し、その後、150年ほどの内に勇ましく行進曲風になり、ヨハン・セバスチャン・バッハにも影響を与え、歌い継がれてきた。もともとは、ゆったりとした慰めのメロディーであった。ルターが、宗教的、政治的、個人的、疫病(ペストの流行など)といったいろいろな困難を抱えた中で、作られた讃美歌である。意訳を記す。3

  1. 神は私たちの強大な砦、優れた守りの盾です。
    神は今、私たちをあらゆる苦しみから助け出してくださいます。
    古くからいる悪い敵はいま必死にあがいており、
    大きな勢力と策略を用いて攻撃してくるので、
    地上の存在でこれに勝てる者はおりません。
  2. 敵の前に私たちの力は無に等しく、どうすることもできず、
    私たちは立ちえません。
    けれども私たちに代わって戦ってくださる方がいます。
    神ご自身が立ててくださった、戦士です。
    その人は誰なのか、とあなたは尋ねますか?
    その名はイエス・キリスト、神ご自身であられる万軍の主です。
    その主なるお方が戦場を守ってくださり、
    決して敵に譲ることはありません。
  3. たとえこの世が悪魔に満ち、
    私たちを食い尽くそうとしたとしても、
    私たちは恐れる必要はありません。
    私たちは敵に勝利します。
    この世を支配するサタン、悪魔が
    猛り狂って襲ってきたとしても
    彼の手は私たちにとどきません。
    神のみことば一つで、打ち倒されてしまいます。
  4. 世人たちがみな神のみことばをあざけり、
    みことばをふみにじっておそれを知らないときであっても
    主は私たちと共に戦ってくださり、
    聖霊と賜物を与えてくださいます。
    世人たちが地上のいのち、
    財産、名誉、妻子を奪いとろうとしても
    世人たちは何も得ることは出来ません。
    神の国は永遠に私たちのものです。

 1546年(62歳)に、ルターは、マンスフェルト公の紛争問題の解決のため、病を押して訪れた生まれ故郷のアイスレーベンで、この世の命を終えた。三人の息子たち、友人、マンスフェルト公の一家、医師たちに囲まれて、死の床で、ルターはいくつかの聖句を口にしていたという。とりわけ、福音全体の要約、小福音と呼ばれる「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ 3:16)を繰り返し口にしたそうである。同行していた長年の仲間であったユストゥス・ヨナス博士が、いよいよ終わりの時が近づいたことを感じ取り、耳もとでルターに「ルター博士、キリストと、自らの教えに固く留まりますか?」と尋ねると、 ルターははっきり「ヤー!」(然り) と答えたと記録されている。4 そのようにルターは、この世に生を受け、洗礼を受けたアイスレーベンの地で(ルターは、生まれた翌日の聖マルティンの日に洗礼を受け、マルティンと名付けられた)、天に旅立っていった信仰者であった。

ルターの著作「ユダヤ人とその偽りについて」の考察

 ルターは、晩年の1543年1月(59歳、死の3年前)に「ユダヤ人とその偽りについて」という著作を出している。この著作はユダヤ人についての悪い表現から、ルターの著作の中で悪名高い著作というように言われることがあるのだが、これはルター自身とユダヤ人との関わりを生涯にわたって見て判断しなければわからないものである。ルター自身の言葉を断片的に引いてきて、短絡的に良し悪しを判断することはできないような背景があるようだ。5

 そこで、「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」(村上みか, 『京都ユダヤ思想』, 2018, 第9号, p122-138)という題の公開論文に「ユダヤ人とその偽りについて」のことが書かれていたので、引用しつつ考察してみよう。6 

 初めのページに、
「16 世紀前半になされたルターの発言と20世紀の事象を直接結び付けるのは、その間の歴史的展開への考察を欠いた短絡的な試みと言わざるをえない。」
とある。

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p122

 マルチン・ルターが「ユダヤ人とその偽りについて」を出版した時代(1543年)と、ナチス・ドイツの時代(1930年代)とでは、約400年の隔たりがあり、その間どのようにこの教えが動いていったかを見ずには、直接関連していると結びつけることはできないということである。論文にもこう書かれていた。

「ルターのユダヤ人理解がそのまま20世紀に至るまで継続的に維持されたわけではなかった。」

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p123

 また、「神の名を語った戦い~罪の広がり」で見たように、ルターの晩年のユダヤ人に対する思想は、ルター独自のものではなかった。11世紀末の第一回十字軍ですでに大規模のユダヤ人迫害は始まっていた。1215年11月(第四回十字軍の後)に開催された第四ラテラノ公会議では、ユダヤ人の公職追放と隔離政策が打ち出され、迫害を助長していった。十字軍時代からローマ教会に浸透していき、ルターの時代は、既にヨーロッパ全体にあった思想であった。

【ルターの時代のユダヤ人認識】

「宗教改革前夜、1500 年頃の西ヨーロッパでは、全般的にユダヤ人に対する敵対的な態度がそれ以前に比べて大きくなり、ユダヤ人たちは悲惨な状況に置かれていたことが確認されている。」

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p124

 第四ラテラノ公会議で政策として打ち出されたユダヤ人迫害は、300年以上経ったルターの宗教改革の頃には、その頃よりも大きくなっていて、偏見も増大していたようだ。

(フランスやスペイン、ポルトガルで次々にユダヤ人追放令が出されたことによって、)宗教改革前夜、ヨーロッパ内でユダヤ人の移動が多く見られることになり、それに伴い、ユダヤ人への偏見が増大する状況にあった。」

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p124 (黒字括弧内は要約)

「ドイツにおいては皇帝や領主により、ユダヤ人に一定の法的保護が与えられ、同時に特別な税の支払いが課されていた。ドイツにおける反ユダヤ的な態度は、むしろ民衆のレベルで始められた。弾圧や殺害が繰り返され、一定の法的保護があったにもかかわらず、ユダヤ人は極めて不安的な状況に置かれていた。14世紀半ば、ペストが流行した際には、ユダヤ人がその原因とされ、多くの地でユダヤ人が殺され、あるいは自殺を余儀なくされた。そのため16世紀初めには、多くの都市でユダヤ人は存在しなかったと見られている。ルターが生活した諸都市(アイスレーベン、マンスフェルト、マグデブルク、アイゼナハ、エアフルト、ヴィッテンベルク)においても同様で、ユダヤ人は居住を許されず、商売で訪れる程度で(アイゼナハ)、ルターにとって『ユダヤ人の存在しない(judenfrei)』都市が通常の環境であったと理解されている。」

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p125

ドイツでは、ユダヤ人は高利貸しの商売で訪れる存在というふうに認識されていた時代であった。

「宗教改革期になると、再びユダヤ人についての議論や追放の主張が新たな形を取って現われた。その理由の一つは利子、高利の問題であった。カトリックも宗教改革支持者も、聖書の利子禁止規定に基づき、金融に従事するユダヤ人を非難したのである。」

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p125

そういう時代であった。

 「ライプツィヒ討論会」でルターを誘導し、異端としての言質をとったヨハン・エックは、
「1541年に『ユダヤ人の高利への反証』を出版し、ユダヤ人への儀式殺人についての非難を支持した。」
 ※ 儀式殺人:ユダヤ教徒がキリスト教徒の子どもを拉致誘拐し、その生き血を祝祭の儀式のために用いているとする告発、非難

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p126

「一方、ユダヤ教からキリスト教に改宗したドミニコ会士ヨハネス・プフェファーコルン(Johannes Pfefferkorn 1469-1522/23)は、旧約以外のヘブライ語文書をすべて押収して焼却し、ユダヤ人を諸都市から追放することを主張して、ユダヤ人の改宗を試みていた。彼のこの主張は論争をもたらし、それにより影響力をもち、ユダヤ人に対する偏見を強化したと見なされている。」

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p126

 このような世の中であったが、ルターは、イエスがユダヤ人として生をうけたことやユダヤ人はアブラハムの子孫であるということから、初めはユダヤ人に対する非人道的な扱いを非難し、キリスト教徒に対しユダヤ人に気持ち良く接するよう促していたのである。

「自由や平和を主張した人文主義者たちも同様で、エラスムス(ルターと同じ時代の人文主義者(ヒューマニスト)、カトリック司祭、神学者、哲学者)もユダヤ人に対する極度の嫌悪があったことが確認されている。平和や寛容の主張は、彼においてはキリスト教共同体の中で実現されるものと理解され、ユダヤ人はその対象として考えられていなかった、ということである。」

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p126 (黒字括弧内は追加した説明)

ヒューマニストであってもユダヤ人は例外としていたような時代であった。

「これらの中世末期のユダヤ人への敵対的態度は、のちの時代に見られるような国家的、人種的な理由によるものとは異なり、宗教的な理由に基づくものであったことが確認されている。」

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p126

かたくななユダヤ人たちへの宗教的嫌悪から来るものであった。そのかたくなさについては、若い頃のルターは、カトリック教会の福音を汚らわしく思っていたため、今までユダヤ人がカトリックの教える信仰を宣言してまで、キリスト教に改宗することはなかったのだと思っていて、ユダヤ人に真の福音を伝えれば改宗できるものだと信じていた。

【恵みを知ったルターのユダヤ人理解】

(初期の)ルターはユダヤ人における「律法宗教」と「自己義認」を批判し、彼らが神の前に自己の義を立てようとしていること、そしてそこにある自己の行為への誤った信頼や自己の聖性の追求、また謙遜の欠如を指摘し、それらを否定した(が、そういった非難は、ユダヤ人以外に対しても同様であった。)

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p128 (黒字括弧内は要約)

ルターは、ユダヤ人も他の人々と同じ、福音を伝える対象と捉えていたのである。

「ルターは、ユダヤ人の高慢を一方的に非難することを否定している。福音が明らかになった今、ユダヤ人もキリストの下に来て、信仰によって救われるのだと述べ、力づくで彼らを改宗させることを否定するのである。」

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p128

「ルターは、1523年に『イエス・キリストは生まれながらのユダヤ人であるということ』というタイトルの最初のユダヤ人文書を著している。」

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p129より

「ここにおけるルターのユダヤ人への態度は、概して友好的であった。」

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p130

「ここにおいてユダヤ人は、キリスト教に改宗する者として捉えられている。」「ルターは『いくらかのユダヤ人がキリストを信じるようにしたい』と語り、それにより彼らは『再び彼らの親族、預言者、族長の信仰へ入るのだ』と述べている。同時にここでは、それまでのローマ教会のユダヤ人への敵対的態度が批判され、彼らを『人間でなく、犬のように扱い、罵り、彼らから良きものを奪い、彼らが洗礼を受けてもキリスト教的な教えや生活を教えようとしなかった』と述べている。このようなあり方に対して、キリスト教的な愛の律法を彼らに向けて実践し、彼らを優しく受け入れて、キリスト教の本質を彼らに知らせるよう、ルターは呼びかける。さらにルターは、ユダヤ人が異邦人のキリスト者よりも血縁的にキリストに近く、神から大きな栄光を受けた民であることを強調し、救いは彼らに与えられた約束に基づいていることを指摘する。これらの肯定的、積極的な言葉から、改革によって本来の福音が示されることにより、ローマ教会のキリスト者のみならず、ユダヤ人も真の信仰に立ち帰ることをルターが大いに期待しているのが読み取れる。」

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p130-131

【ルターのユダヤ人認識の転機】

「この新しい体制の形成過程のただ中で(宗教改革運動が拡大していく中で)、ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒはユダヤ人に対する布告を提出した(1536年8月(ルターの死の10年前))。その内容は、クアザクセンにおけるユダヤ人の滞在と労働を禁止し、通過をも禁じるという厳しいものであった。この布告に対しユダヤ人指導者のヨーゼル・フォン・ロスハイムが、ザクセン選帝侯に調停を試みた。ルターは宗教改革者ヴォルフガング・カピトより、この調停についての橋渡しを頼まれた。これを機にルターは再びユダヤ人に対する批判を公けにすることになる。」

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p132 (黒字括弧内は追加した説明)

ルターの死の10年前にザクセン選帝侯領において、高利貸しの商売(労働)をするための滞在、通過を禁じる布告が出されたのである。

 この頃までに、宗教改革を推し進めても、ユダヤ人の改宗者はごくわずかで、改宗した者もほとんどが間をおかずしてユダヤ教に戻っていたようである。そうしたことから、1532年にはルターは、「あのあくどい連中は、改宗するなどと称して、われわれとわれわれの宗教をちょっとからかってやろうというぐらいにしか思っていない」とこぼしている。そのうちにルターは、不首尾の原因をユダヤ人のなせる業とみなすようになっていったという。宗教改革者ヴォルフガング・カピトから、ユダヤ人を支援するよう選帝侯に働きかけてほしいとの打診を受けたのは、そのような思いになっていた頃であった。ルターは1537年6月11日付の返信において、選帝侯とユダヤ人指導者との橋渡しを断るついでにユダヤ人への挑発まで行ったという。翌年の1538年にヨーゼル・ロスハイムに対してルターは、私の心はいまもユダヤ人への善意に満ちあふれているが、それはユダヤ人が改宗するために発揮されると述べた。このように改宗しないでいることへのいら立ちを表現している。その後まもなくして、ボヘミア(チェコ)の改革派がユダヤ人の教唆のもとユダヤ教に改宗し、割礼を受けて、シャバト(安息日)を祝ったという知らせがあった。改宗をほのめかしても、キリスト教徒をユダヤ教に引きずり込んだ出来事を知ってのことか、ルターは「私はユダヤ人を改宗させることができない。われらが主、イエス・キリストさえ、それには成功しなかったのだから。しかし、私にも、彼らが今後地面を這い回ることしかできないように、その嘴を閉じさせるぐらいのことはできるだろう」と1539年12月31日に述べたという。そして、1543年にルターは『ユダヤ人と彼らの嘘について』を発表したのであった。7

 その辺のことを論文では、このように書かれている。

「ロスハイムに宛てた手紙(1537年6月11日)において、ルターは彼の願いを退けた。その理由として、前出の1523年の(最初のユダヤ人)文書以来、ルターはユダヤ人がいつかは彼らの救い主に至るように願い、友好的な扱いを支持してきたにもかかわらず、また最善を尽くそうとしたにもかかわらず、それが彼らにより悪用され、煩わされた、と述べている。ルターの言うこの『悪用』とは、ユダヤ人によるキリスト者の改宗を指していると考えられている。同じ時期(1537年6月18日)の卓上語録によると、ルターはユダヤ人がモラヴィア地方(チェコ)でキリスト者に伝道していることを知らされており、彼らが多くのキリスト者に割礼を与え、彼らに「安息日派(Sabbather)」の名を与えていると語っている。また翌年に出された『安息日派に対して』(1538年)においても、ユダヤ人がキリスト者を改宗させ、メシアはまだ来ておらず、律法は永遠に存続すると信じさせている、と述べている。この状況に対してルターは、もはやユダヤ人に好意を与えることはできず、それどころかユダヤ人に対してキリスト者を守らねばならないと主張するに至るのである。
 これらの攻撃的な発言の背景には、改革初期の期待に反して、ユダヤ人の改宗が進まなかった現実への焦りがあり、また自尊心が高く、伝統へのゆるぎない忠誠を示すラビたちへの失望があったと考えられている。当時のルターの置かれていた状況を考えると、このような認識を経て、ユダヤ人はもはや福音主義教会の中に受け入れられる存在としてではなく、むしろこの新しい教会の確立を困難にする要素として意識され始め、警戒対象となったと理解しうるだろう。」

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p132-134

 ルターは、これまで、イエスがユダヤ人として生をうけたことやユダヤ人はアブラハムの子孫であるということから、初めはユダヤ人に対する非人道的な扱いを非難し、キリスト教徒に対しユダヤ人に気持ち良く接するよう促していたため、ユダヤ人に軽く見られ、キリスト教徒をユダヤ教に改宗させるような問題が起こったと考えたように思われる。そのため、それではユダヤ人たちの改宗に至らない、苦しみの試練からでも神を求め、真理を知れば…」という風に考えたのではなかろうか。そういったことがあって、その数年後(1543年)、先に教えていたユダヤ人への対応について調整し書いたのが、「ユダヤ人とその偽りについて」であった。

「百数十頁におよぶこの文書において、ルターはまず旧約聖書に基づき、ユダヤ人が神に選ばれたものであることを認める。すなわち、彼らは預言者たちを通して自らを批判する優れた言葉をもち、救い主を待望する敬虔性をもつことを確認し、これを高く評価する。しかし彼らの行為義認的なあり方や高慢な態度が、本来の教えや信仰に反する偽りであるとルターは批判する。さらにラビたちがイエスをメシアと認めなかったことをルターは取り上げ、ユダヤ人はキリスト教の福音を聞いたにもかかわらず、これを否定したと非難する。これは正しい真理の否定にほかならず、もはや許されず、7倍の罪に値するとルターは言う。しかしここでも、真理を歪曲するという点において、ユダヤ人のみが批判されているわけではなく、ローマ教会の教皇や司教、また急進派と同列に論じられていることに注意すべきである。真理を否定する彼らに対し、ルターはその権利が失われるべきであるとし、厳しい7つの提案を提出した。」

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p134

【ルターが記したユダヤ人への対応】

 「神の名を語った戦い~罪の広がり」で、「ユダヤ人とその虚偽について」では、次のようなことが書かれていたということを見た。

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「われわれは神の消えることのない怒りを・・・消すことも、ユダヤ人を改宗させることもできない。われわれは祈りと神への畏怖の念をもって、なお彼らの中の何人かを炎と灼熱の中から救うために、容赦ない慈悲を行わなければならない。復讐をしてはならない。彼らはそれを根にもって、われわれが考える千倍も悪くなるだろう」

「容赦ない慈悲」とは…

  1. キリストとキリスト教徒を冒涜する場であるシナゴーグや〈タルムード(「口伝律法」と学者達の議論を書き留めた議論集であり、ユダヤ教の聖典)を教える〉ユダヤ教の学校を焼き払うなどして永久に人目に触れないようにする   ※ 〈〉内の説明は追加したもの
  2. 同様の理由からユダヤ人の家屋を焼き払う。「彼らに自分たちが悲惨と捕囚状態の中にあるのだということを思い知らせるため、ジプシーと同じように屋根裏か家畜小屋に入れればよい」
  3. ユダヤ人から祈祷書を没収し、タルムード学者を追放する
  4. ラビの説教を全面的に禁止する。
  5. ユダヤ人から全面的に自由通行権を取り上げ、街道を遮断する
  6. ユダヤ人高利貸を禁止し、その財産を没収する
  7. 健康で若いユダヤ人を肉体労働に従事させる
「『ユダヤ人』を考える〜法律と現実と」講座資料(慶應義塾大学 羽田功名誉教授)

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 ルターが示した7つの提案の理由が書かれていたので、紹介する。

① キリストとキリスト教徒を冒涜する場であるシナゴーグやタルムードを教えるユダヤ教の学校を焼き払うなどして永久に人目に触れないようにする

「何故なら、モーセが偶像崇拝を行う町は焼き払わねばならない、と書いているから(申命記13 章13 節以下)。」

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p134-135

「『さあ、あなたがたの知らなかったほかの神々に仕えよう。』と言って、町の住民を迷わせたと聞いたなら、あなたは、調べ、探り、よく問いたださなければならない。もし、そのような忌みきらうべきことがあなたがたのうちで行なわれたことが、事実で確かなら、あなたは必ず、その町の住民を剣の刃で打たなければならない。その町とそこにいるすべての者、その家畜も、剣の刃で聖絶しなさい。そのすべての略奪物を広場の中央に集め、その町と略奪物のすべてを、あなたの神、主への焼き尽くすいけにえとして、火で焼かなければならない。その町は永久に廃墟となり、再建されることはない。」(申命記 13:13-16)

② 同様の理由からユダヤ人の家屋を焼き払う。「彼らに自分たちが悲惨と捕囚状態の中にあるのだということを思い知らせるため、ジプシーと同じように屋根裏か家畜小屋に入れればよい」

「そこにおいても、学校においても、偶像崇拝が行われたから。」

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p135

③ ユダヤ人から祈祷書を没収し、タルムード学者を追放する

「そこには偶像崇拝、ウソ、呪い、冒涜が教えられている。」

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p135

④ ラビの説教を全面的に禁止する。(従わないようなら処刑する8

「彼らはその間違った教えのために仕事を失ったのだから。」

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p135

⑤ ユダヤ人から全面的に自由通行権を取り上げ、街道を遮断する
⑥ ユダヤ人高利貸を禁止し、その財産を没収する

「何故なら彼らは高利貸しにより彼らの富を築いたから。」

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p135

⑦ 健康で若いユダヤ人を肉体労働に従事させる

 これら7つの提案は、ザクセン選帝侯領の布告を支持した内容であった。「復讐をしてはならない。」と語りながら、「容赦ない慈悲」という表現をもって具体的に厳しい行為を書き出したところにも、晩年を迎え、この世を去ることを意識したルターの苦悩が見られる。

【この文書への評価】

「このきわめて攻撃的な文書が出された背景には、ルターの晩年の苦悩があったと考えられている。ルターの死の3年前に出されたこの文書、この時期のルターは身体の衰えと不調、またうつにも悩まされ、終わりの時を意識し始め、その中で愛する娘マグダレーナの死にも直面した(1542年9月20日)。終わりの時が迫るなか、ルターは切迫した思いで、最後の言葉を明らかな形で示そうとし、それがこの激しい言葉となって現れたと理解されている。
 このような個人的な状況が背景にあるとはいえ、ルターが自らの仕事として責任をもって著した文書である。ルターのユダヤ人批判として知られ、繰り返し非難されてきたこの文書について、20世紀後半の歴史研究はその内容がルター独自のものではないことを明らかにした。すなわち、これはすでに長くあった見解をルターが取り上げて示したものであり、その内容を当時の教会人や知識人の見解と比べると、それら以上に厳しいものとは言えないということである。さらに、これらの提案を異端に対する刑罰―死刑が一般的であった―と比較することも必要となるだろう。そして何よりも、「国家」と宗教が一致するいわゆる国教会体制が前提とされていた当時の社会状況も顧慮されねばならない。すなわち、一つの共同体に一つの宗教しか認められない社会にあって、多様な宗教が存在することは公的平和を脅かすものと理解されていたのである。」

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p135-136

「第二次大戦以後、ナチズムに対する批判的考察が行われる中で、ルターの「ユダヤ人とその偽りについて」が注目され、ここに見られる反ユダヤ的態度が宗教改革以降、20 世紀に至るまでドイツ人に影響を与え続けたと理解されてきた。これに対して、この文書の受容史の研究が進められ、1980 年代にこのような見方は否定されることになった。すなわち、この文書はドイツの歴史の中で影響力を持たず、とりわけ18、19世紀にはほとんど顧みられることもなかったという。この時代は、個人の敬虔を主張する敬虔主義の影響によってルター派国教会の制度や教理が批判され、ユダヤ人に対しては、むしろ寛容であったことが明らかにされた。そしてユダヤ人への伝道が進められるなか、1523年の友好的な文書(「イエス・キリストは生まれながらのユダヤ人であるということ」)の方が模範として引用される傾向があったことも確認された。さらに19、20 世紀のルターの伝記には、彼の反ユダヤ的態度についてはほとんど言及がないことも明らかになった。」

「ルターのユダヤ人理解―近年の研究における新しい視点より―」 p137

結論

 ナチズムのホロコーストのユダヤ人迫害は、ルターからではなく、第一回十字軍の頃から起こり、政策としてヨーロッパに広がっていった思想であり、晩年のルターの思想や「ユダヤ人とその偽りについて」の著作から始まったものではない。ルターの発した言葉が「ライプツィヒ討論会」で異端の言質とされたことを思い起こしてしまうが、ルターは、飾らない言葉で善と悪を語るため、意図しない目的で利用されやすいようである。

 当時の考え方の影響があったとはいえ、ルターがユダヤ人へ非道な扱いをせよと教える必要はなかったのであるが、1523年に最初に出した『イエス・キリストは生まれながらのユダヤ人であるということ』というタイトルのユダヤ人文書で人々に教えた経緯と職務上の主に対する責任を感じたのだろう。何らかの自分の過失での責任を感じた時は、責任を取り切れない自分を認め、主に委ねることである。責任を感じ、自分の考えで責任を取ろうとすると、思わぬ影響が出ることがある。そのようなところにも、真面目な人ほど陥りやすい罠がある。

 教えの偽りが横行しているローマ・カトリックの世の中で、真理のもとでの一致を願って、討論を呼びかけて始まった偽りとの闘い。教皇をはじめとするローマ教会が誤った教えを認め、真理によって治める方向に向かい、共に神の国の建て上げに一致して尽力するようになっていけばよかったのだが、この世はルターの意図したようにはいかず、異端者として罪を着せられ、排斥される方向へと動いていった。そして、教えの中にうまく入り込み、真理から離そうとするキリスト教内部から起こった「似て非なる偽り」との闘いは、果てしなく続いていった。ルターは、旧約聖書を律法的に固持し、キリストにある真理に耳を貸そうとせず、かえって羊を奪っていくユダヤ人たちを目にし、かつて友好的にと書いた自分の未熟さを感じ取り、内容を更新して、これ以上ユダヤ人との問題が起こらないように、自分がこの世を去った後の福音宣教を思い、治めていこうとしたのではなかろうか。ルターの信仰と人物像を知っていくと、そのように思われてくる。

 文書のタイトルは、通常であれば、最も言いたいことがわかるように付けるだろう。「ユダヤ人とその偽りについて」でルターが言いたかったことは、「偽り」である。騙された!ではないが、よく知らなかったために初めは良いように進むと思っていたのに、こうであったかと思うようにいかなかったルターの心情が現われている。

 「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ 8:44)サタンは、偽りをもって人を誘惑する。彼のうちには真理がなく、偽り者であり、偽りの父であり、欲に引いていく。ルターには、ローマ教会では成しえていないユダヤ人の改宗という、欲とはいいきれないような願望があった。ユダヤ人は、初めから何も変わっていない。どの人種も同じであろうが、皆同じ人間ではなく、いろいろな人がいる。良い人もいれば、悪い人もいる。「神にはえこひいきなどはない」(ローマ 2:11)人種的にも「えこひいきなどはない」のである。

 モーセであっても、限界が来た時に、主を超えた行動をしてしまった。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」と言い、手を上げ、杖で岩を二度打ったのであった(民数記 20:10-11)。主の命は、「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」(民数記 20:8)であり、杖は取るように言われたが、岩に命じるだけであった。このことで、主は、モーセとアロン告げられた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」(民数記 20:12)と。(「モーセの過ち」参照)

 ルターも限界が来た時、肉にある自分が出たようである。厳しい7つの提案に書かれたユダヤ人に対しての提案は、ルターがする必要はないものであった。人種による提案ではなく、真理による提案をすればよかったのである。福音を知らないユダヤ人であれば福音を伝え、福音を拒否するユダヤ人たちに対しては足のちりを払い、祈りと共に後は主にお任せすればよかったのである(マルコ 6:11, ルカ 9:5, 10:10-16)。その上で改宗したと見せかけて欺く者がいたなら、内部の信者をその者に騙されて奪われ引いて行かれることのないように、内部の信者をきちんとキリストの愛によって教育をすればよいのである。それでも異なる教えに引いて行かれたとしたら、それが引かれていった者の信仰である。しかし、晩年のルターには、そういった教育をするような時間がなかった。自分で始末をつけようとしたのであった。ルターは考えなかったのだろうが、この文書を著したことによって、いろいろな誤解が生まれることとなったのである。が、人間の限界も神はご存知である。モーセもルターも立派な信仰を残した人物である。

 こうして、ルターは、カトリックと別離することとなり、この後できていったプロテスタント側では、いろいろな人の手によって、宗教改革が推し進められていき、さまざまな教派ができていくこととなった。人間の限界やその弱さも罪もご存知である神のもと、歴史は戻らず、原罪を抱えた人間の罪とともに、その影響は広がって行き、時代が移り、すべてを見通しておられる神の計画が着々と進んでいく。ルターは、カトリックの教えを修復し、真理に立ち返ることを望んでいたのだが、古い部分を修復して、リフォームすることはできず、そこに住み続けることはできなくなり、新しく生まれ変わらせる改革へと導かれていった。いわば、修復できないほど蝕まれた部分を破壊し、作り直す作業(神の修復作業)の任務に召され、その生涯をその任務に携わった人物であった。この破壊によって、対立や分裂、批判の応酬が起こり、もはやキリスト教は一枚岩で進んでいくことができなくなってしまった。そうして、一人一人が、聖書や教えを吟味して真理を知ることができる時代になった。教団や教派では測れない、キリストの真理への愛を持つ信者が存在するだろう時代になった。

 人間の罪というものは、いつの時代も同じような動きをしていく。めいめいが自分の正しいと思うことを行っていた士師の時代を経て、統率する王のもとでの王制の時代になり、捕囚を迎えるまでに罪が増し加わっていった。そして、捕囚から帰還した後、神の真理に耳を貸さず、自分の宗教に誇示し、キリストを十字架につけた。神の民であっても、人種が変わっても、罪を抱えた人間の向かう方向は同じである。どの人間であっても、隠れた高慢を捨て、悔い改めて神に立ち返るしか道はない。いつの時代も同じ動きをしていくのだが、その中に、神を信じ真理への愛から目を離さない信仰の残りの者が残されていることは幸いである。特定の教団や教派ではなく、一人一人に与えられている信仰によるものである。神が、その人たちを守り、導いてくださることは、何と幸いなことだろうか。

  1. 徳善義和『マルチン・ルター 生涯と信仰』教文館 p189 ↩︎
  2. 同 p141 ↩︎
  3. https://ja.wikipedia.org/wiki/神はわがやぐら 参考 ↩︎
  4. 徳善義和『マルチン・ルター 生涯と信仰』教文館 p299 ↩︎
  5. 同 p295  ↩︎
  6. https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyotojewishthought/9/0/9_122/_article/-char/ja/ ↩︎
  7. https://ja.wikipedia.org/wiki/マルティン・ルター ↩︎
  8. https://ja.wikipedia.org/wiki/ユダヤ人と彼らの嘘について ↩︎

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