<– 前の記事:分裂を重ねて広がっていくキリスト教~神の沈黙
教会で語られている教えの何が歴史的に伝わってきた人間的な教えで、何が聖書の真理であるかを明らかにするために、教会の歴史を見ている。今回は8回目となる。
前回までのおさらい 年表 p5-P6 参照
使徒の働きの中では、パウロは神によって首都のローマに遣わされ(使徒 23:11~)、イエスを伝え信者を獲得していった様子が描かれている。その後の67年頃のネロの統治下でパウロやペテロは殉教したのだが、信仰は継承されていき、迫害を受けてもキリスト教の信者が増え広がっていくことから、コンスタンティヌス帝はキリスト教を公認し(313年のミラノ勅令)、改革の一環として、330年に、都をコンスタンティノープルに移した。時は移り、ゲルマン人の大移動が始まった頃(375年頃~)、テオドシウス帝によって、キリスト教はローマの国教とされた(392年)。こうして、キリスト教は国の庇護を受け、ローマ教会を中心に発展したのだが、ゲルマン人が入植してきたことで、テオドシウス帝の死後は西方のゲルマン人の侵攻、東方のペルシャからの軍事的脅威に対応するため、息子ふたりをそれぞれの皇帝に立てた。こうして395年にローマ帝国は西と東に分裂した。西方はその後、ゲルマン人の力が強まりその権力に頼るようになり、476年に首都を奪われ皇帝は廃位され滅亡に至った。ゲルマン人との結びつきが強くなった西ローマ滅亡後の西方教会は、東方教会との関係が遠くなり、両者はキリスト教教会の首位権を巡って争うようになっていった。
そのような中、610年にアラビヤ半島のメッカにいたムハンマドが「神」の啓示を受けたことによりイスラーム教が起こり、ローマ帝国を圧迫し出した。ムハンマドは、信仰の父アブラハムの息子イシュマエルの子孫の民であった。その教えの中では、キリスト教を含め偶像や聖像を作って信奉している行為を激しく非難して、像を破壊するよう命じられている。聖書の教えでは、彫像や鋳造等の像を作ることを厳しく禁止し、「職人の手のわざである、主の忌みきらわれる彫像や鋳像を造り、これをひそかに安置する者はのろわれる。」(申命記 27:15)とまで言われている行為であった。聖人とはいえ、彫像や鋳像をひそかにではなく堂々と作って安置しているキリスト教は、忌み嫌うあざけりの材料となった。神が彫像や鋳像を禁止されたのは、真の神ではないものを拝むことにつながり、神から離れ罪に染まっていかないようにという愛による重要な命令であったのだが、当時のキリスト教にとっては、ゲルマン人たちへの布教のために手放すことはできなかった。
ゲルマン人に布教しキリスト教に改宗させることに成功したローマ教会は、ゲルマン人の権力者(王)の下で、西ローマ帝国を復活させることに成功した(800年)。そのような中で、東ローマ帝国と復活後の西ローマ帝国は、聖像をめぐっての論争が対立に発展していった。聖像禁止令を打ち出しイスラームの非難を封じようとする東方教会とゲルマン人への布教に聖像は欠かせず手放せない西方教会、神に立ち返ってではなく、どちらも政治的思惑が働いてのことであった。1054年に西と東の教会は互いに破門し合って決定的分離となった。分離した後、東ローマ帝国は国力が弱まり、1453年にオスマン帝国に滅ぼされた。
一方、ゲルマン人の権力と教皇が手を取り合っていた西ローマ帝国はいくつかのゲルマン人の王国が存在し、その中でもフランク王国が力を持つようになっていき、フランク人の王の血筋が途絶えた時に、ドイツ王を中心とした神聖ローマ帝国ができていった。そのような過程で、次第に教会の聖職者の任免権が皇帝や国王や領主が持つようになり教会が世俗化していったため、1075年に教皇グレゴリウス7世(ペテロを1代目とした157代教皇1)が、聖職者の堕落を戒め、教皇の権威を回復するために教会の改革を推進した。皇帝ハインリヒ4世はこれに強く反発したのだが、教会に破門されたことから、許しを請い「皇帝や世俗権力が持つ聖職者を叙任できる権利(聖職者叙任権)」を手放すことを条件に破門を説いてもらった(カノッサの屈辱)。この出来事により、教皇の権威がますます強くなっていった。ここまでを前回見てきた。
十字軍
西ローマ帝国では教皇の権威が強くなっていく一方で、東ローマ帝国では、イスラームにアナトリア半島を占領される事態となり、1095年にビザンツ皇帝のアレクシオス1世は、教皇ウルバヌス2世(159代教皇1)に救援を依頼した。皇帝アレクシオス1世は、イスラームから聖地エルサレムを奪還することを名目に、東ローマ帝国へ助け(傭兵の提供)を要請した。皇帝アレクシオス1世としては、十字軍のような独自の軍団を要請したわけではなかったのだが、要請を受けた教皇ウルバヌス2世は1095年11月にクレルモンで行われた公会議(会議そのものの主題は聖職売買の禁止や聖職者妻帯の禁止、聖職叙任権の奪回などの教会改革についてであった)の終わりに、集まったフランスの数千人の聖職者や民衆の前で大演説を行い、エルサレム奪回活動に参加するよう呼びかけた。
教皇ウルバヌス2世の呼びかけ:
「『ユダヤ人』を考える〜法律と現実と」講座資料(慶應義塾大学 羽田功名誉教授)より
「人類の救済者はその地をご自身の来臨を通して称揚され、行状によって飾られ、受難によって聖別され、その死によって救われ、墓によって顕彰されました。世界の中心に位置するその王の都が、いまや敵の手に落ち、神を知らぬ異教徒によって隷属に甘んじているのです。王都は解放を乞い求め、解放に焦がれ、あなたがたの助力をいまや遅しと待ち望んでいます・・・」
「財産や家庭のことに縛られてはなりません。というのも、あなた方が住むこの土地は、いたる所で海と山に囲まれ、またそこには恐ろしいほどたくさんの人々が暮らしています。この土地は豊かさに溢れているどころか、農民に最低限の食料を与えることさえ満足にできないほどなのです。そのために、あなたがたはいがみ合い、争い、戦争し、傷つけ、殺し合いになることさえ少なくありません・・・神はその地をイスラエルの子らに与えられました。そこでは乳と蜜が流れると聖書には書かれています。エルサレムはこの世の中心であり、他のどんな場所よりも豊かな土地、まるで喜びに満ちた第二の地上の楽園を思わせる都なのです」(修道士ロベールの報告)
エルサレム巡礼は、コンスタンティヌス帝の頃(4世紀)から始まり、5世紀にはエルサレム周辺に200にものぼる修道院や宿坊が設けられ、ローマ皇帝の保護にあり、1030年ごろには、エルサレムへの巡礼熱が高まっていた。
「世界中から無数の人々がエルサレムにある救世主の墓をめざして殺到した・・・彼らの大半の者は、故郷にもどる前にエルサレムで死にたいと思っていた」(年代記作者ラウル・グラベール(980頃-1046頃)の記録(『歴史』第四巻) キリスト者にとってエルサレムはそのような特別な地であった。
「『ユダヤ人』を考える〜法律と現実と」講座資料(慶應義塾大学 羽田功名誉教授)より
エルサレムは、キリスト教徒にとってそのように考えられていた時代であった。
教皇ウルバヌス2世には、聖地奪回というより、東ローマから協力を求められたこの機会に分裂していた東西教会を統一し、ローマ教会の主導権を回復するという思惑があった。教皇ウルバヌス2世は聖地をイスラーム教徒の手から奪回しようと上述したような内容を熱烈な調子で呼びかけ、「乳と蜜の流れる土地カナン」という聖書の表現を使って軍隊の派遣を訴えた。また、軍隊への参加者には免償(罪の償いの免除)が与えられると宣言した。後の免罪符につながる考えは、すでにこの頃に作られていたようだ。教皇の十字軍運動の呼びかけに応じたフランス・ドイツ・南イタリアのノルマンの諸侯たちが参加して、第一回十字軍が編制された。十字軍の熱狂は民衆にも伝染し、「いますぐエルサレムへ!」と自ら十字軍先発隊を結成し、1096年、第一回十字軍が出発する数ヶ月前に、フランスの説教師ピエールに率いられた民衆や下級騎士の軍勢4万人がエルサレムを目指して出発した(民衆十字軍)。
民衆十字軍はアナトリア半島への道中でユダヤ人を各地で虐殺し、ハンガリー王国やビザンツ帝国内で衝突を繰り返しながら小アジアに上陸したものの、統制の取れていない上に軍事力も弱かったためすぐに蹴散らされ、多くのものは殺されるか奴隷となり崩壊した。しかしピエールらごく一部は生き延びて第一回十字軍へと再び参加した。2
民衆十字軍は、統一的な目的がなく、組織性をもたず、資金や食料調達などの計画性がなく、エルサレムはどこに?というような地理情報にも欠如していたため、ユダヤ人を各地で虐殺するという余地が生まれた。
「『ユダヤ人』を考える〜法律と現実と」講座資料(慶應義塾大学 羽田功名誉教授)より
民衆十字軍のある参加者の叫び(年代記作者ノジャンのギベールによる):
「われわれは東方にいる神の敵と戦おうとしているが、そのためにはるかな道程を克服しなければならない。だが、それは見当違いの骨折りというものだ。なぜなら、われわれのすぐ目の前には、神の最悪の敵、ユダヤ人がいるからだ」(1095年12月)
こうしてイスラームからエルサレムを奪還するという名目で始まった十字軍遠征は、クレルモン公会議の翌年の1096年7月の第一回から1270年の第七回までの174年間に計7回行われた(1218年に行われて失敗したものを第五回として計8回とすることもある。また、小規模の十字軍は他にもある)。3
第一回十字軍 1096年 – 1099年
ビザンツ皇帝アレクシオス1世の救援の要請を受け、教皇ウルバヌス2世の十字軍運動の呼びかけに応じて編制された第一回十字軍であったが、西と東の両者の思惑の違いは、早くも第一回十字軍で表面化していた。コンスタンティノープルに到着した十字軍に対してアレクシオス1世皇帝は臣従の礼をとることを要求し、十字軍が回復する領土はすべてビザンツ帝国に返還せよと命じた。ビザンツ皇帝にしてみれば、助けを求めただけなので、主導権を明け渡すという意思はなかった。それに十字軍は反発したがビザンツ軍の協力は必要だったので渋々その要求に応じた。しかしそのズレは一致を欠くものとなり、十字軍とビザンツ軍は共調がとれずにことごとく反目し、やがてビザンツ軍は戦線を離脱し、十字軍はビザンツ軍抜きの単独で戦うこととなった。4
当時のエルサレムは、スンニ派セルジューク朝の代官が治めていたのだが、1098年にエジプト・カイロのシーア派国家ファーティマ朝がこのセルジューク朝の危機に乗じてエルサレムに出兵し占領した。十字軍が攻撃した時のエルサレムは、そのような状態であった。ファーティマ朝は十字軍がエルサレムに迫ってくると、単独では防衛は困難と考え、ビザンツ帝国に援軍を要請したが、その到来よりも先に十字軍が来襲した。ファーティマ朝側は講和条件として武器を持たない巡礼者のエルサレム入城を許可する旨を伝え攻撃を回避しようとしたのだが、十字軍側はその提案を拒否し、1099年にエルサレムを陥落させ十字軍の指揮者の一人であったゴドフロワを国王としてエルサレム王国を建てた(十字軍国家)。
エルサレム城内に突入した十字軍は大多数の住民を虐殺し、略奪を行なっていった。イスラーム教徒だけでなく、ユダヤ教徒やアルメニア教会派などの東方教会の信者も殺されたり捕らえられて奴隷にされたりしたという。アラブ側の史料に拠れば虐殺・略奪は1週間に及び、7万人以上の人が殺され、岩のドームの財宝は空になった5。キリスト教側の年代記類もこれらの残虐行為を別に隠そうともせず淡々と記しているという。サラセン人(イスラム教徒を指した言葉)という呼称が広まり、アラブ人・トルコ人・エジプト人・エチオピア人などのイスラーム教徒が殺されただけでなく、ユダヤ人も殺害対象とされた。7月16日の朝、十字軍兵士は市内の東北地区で多数のユダヤ人を駆り出し、中心街のシナゴーグにとじこめ、扉を外から密閉して火を放ち、全員を焼き殺した。また、イスラーム教徒は金貨を飲み込んで隠しているといううわさがあり、十字軍兵士は捕らえたイスラーム教徒の腹を割いて調べたり、殺したうえで死体を山のように積み上げ、火をつけて灰にして金貨を探そうとしたという。6
ユダヤ人への迫害
上述で見たように、ユダヤ人への迫害は、十字軍と同時期のこの頃に本格化した。第一回十字軍が派遣されたと同じ1096年5月、ドイツのライン地方の都市でユダヤ人居住区のシナゴーグが襲撃され、多くのユダヤ人たちが殺害された。エルサレムを奪回しようとする今こそ、ユダヤ人のために血を流すことになったイエスのために復讐しよう、ユダヤ人は十字軍を利用して儲けようとしている、などとと煽動された民衆が襲撃したのであった。
主イエスは復讐を禁じられているのだが、自分たちの思いを正当化するために「イエスのために復讐しよう」というスローガンを掲げていた。聖書は次のように言っている。「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。」(ローマ 12:19)「復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。」(申命記 32:35)また、イエスの十字架は、ユダヤ人社会で行われたことであったが、それは神の民の型として選ばれた民族であったにすぎず、ユダヤ人社会の中で全世界の救いに至る道と滅びに至る罪が示された出来事であった。救いも滅びも民族を超えて全人類が対象となっている。忌むべきものは「罪」(神から外れた的外れの罪)である。外部からの圧迫が続く時、自分の頭で理解できず消化できない怒りは、他に転嫁され、思い通りにならない集団や個人が標的になっていく。
マルチン・ルターは、この約400年後の神聖ローマ帝国の聖職者であるが、カトリックを離れたルターのユダヤ人に対する考えの変化にも、そういった人間の心理が現われている。若い頃のルターは、カトリック教会の福音を汚らわしく思っていたため、今までユダヤ人がこれを宣言してまで、キリスト教に改宗することはなかったのだと論じていて、ユダヤ人に真の福音を伝えれば改宗できると信じていた。7 しかし、ユダヤ人たちはルターが思っていたようには改宗に至らず、次第に考えを変えていき、特に晩年の9年間、ユダヤ人を非難し、迫害を促していった。ルターは、イエスがユダヤ人として生をうけたことやユダヤ人はアブラハムの子孫であるということから、初めはユダヤ人に対する非人間的な扱いを非難し、キリスト教徒に対しユダヤ人に気持ち良く接するよう促していた。しかし、ルターがこの世を去る3年前 (1543年)に出した論文「ユダヤ人とその虚偽について」で次のように語っている。
「われわれは神の消えることのない怒りを・・・消すことも、ユダヤ人を改宗させることもできない。われわれは祈りと神への畏怖の念をもって、なお彼らの中の何人かを炎と灼熱の中から救うために、容赦ない慈悲を行わなければならない。復讐をしてはならない。彼らはそれを根にもって、われわれが考える千倍も悪くなるだろう」
⇒「容赦ない慈悲」とは、
「『ユダヤ人』を考える〜法律と現実と」講座資料(慶應義塾大学 羽田功名誉教授)、https://ja.wikipedia.org/wiki/ユダヤ人と彼らの嘘について
- キリストとキリスト教徒を冒涜する場であるシナゴーグや〈タルムード(「口伝律法」と学者達の議論を書き留めた議論集であり、ユダヤ教の聖典)を教える※〉ユダヤ教の学校を焼き払うなどして永久に人目に触れないようにする ※ 〈〉内の説明は追加したもの
- 同様の理由からユダヤ人の家屋を焼き払う。「彼らに自分たちが悲惨と捕囚状態の中にあるのだということを思い知らせるため、ジプシーと同じように屋根裏か家畜小屋に入れればよい」
- ユダヤ人から祈祷書を没収し、タルムード学者を追放する
- ラビの説教を全面的に禁止する。従わないようであれば、処刑する
- ユダヤ人から全面的に自由通行権を取り上げ、街道を遮断する
- ユダヤ人高利貸を禁止し、その財産を没収する
- 健康で若いユダヤ人を肉体労働に従事させる
「復讐をしてはならない。」と語りながらも、「容赦ない慈悲」とわけがわからない言い回しで、具体的な迫害方法を示唆している。その後のルターは、ユダヤ人を「下劣な偶像崇拝者、つまり神の子ではなく己が家系や割礼を誇りにし、法を汚らわしい物と見なしている連中」と言い切り、シナゴーグに至っては「救い難い邪悪な売春婦」とまで形容するに至ったのであった。8
ルターの晩年のユダヤ人に対する思想は、ルター独自のものではない。第一回十字軍で始まった大規模のユダヤ人迫害であったが、1215年11月(第四回十字軍の後)に教皇イノケンティウス3世(176代教皇1)が開催した第四ラテラノ公会議では、公職追放と隔離政策が打ち出され、迫害を助長していった。当時のローマ教会全般に見られた思想である。第四ラテラノ公会議では、ユダヤ人やサラセン人(イスラーム教徒)を衣服においてキリスト教徒と区別させることが決められた。聖書のモーセの律法の個所であるレビ 19:19「あなたの家畜を種類の異なった家畜と交わらせてはならない。あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。また、二種類の糸で織った布地の衣服を身に着けてはならない。」、申命記 22:5,11「女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。」「羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはならない。」を引用したというが、もちろん聖書の意味は異なっている。また、彼らがキリストの受難の日に公の場に出てくることを禁じることが決められた。ユダヤ人にとってキリストの受難の日は過越しの祭の日であり、喜びの表現として殊更に着飾っていた。それを受難の悲しみを提示するキリスト教徒をあざける行為としたのであった。この公会議で、ユダヤ人をキリストを冒涜する者たちみなし、罰を科すことによってキリストへの冒涜を制限するようにという条項があげられた。9どこかで聞いたような話ではないか。時代を超えても人種を超えても罪というのは同じ方向に向かって行くようで、まるで、イエスを神の冒涜罪で十字架につけた祭司長やパリサイ人たちのようだ。ルターは、ユダヤ人たちの回心を試みたのだがうまくいかず行き詰まり、もともと蔓延していた思想に戻ったに過ぎないことが見て取れる。
キリストにある者は、キリストの愛にとどまり、たやすく弱さにひきずられてしまう自分の心を見張る必要がある。「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。」(箴言 4:23〈新共同訳〉)信仰者は「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇 139:24)という祈りの心を自分のものとしていき、傷を受けたら、「自分にはもう罪はない」ではなく、自分の弱さをきちんと認めて神により頼むことが必要である。自分の力で傷を受けたまま放置していると、人間というものは、知らずうちに神に敵対する実を表すものとなっていきかねない原罪を抱えている。
第二回十字軍 1147年 – 1148年(第一回から48年後)
第一回十字軍で勝利し、地中海東岸にエルサレム王国、エデッサ伯国、トリポリ伯国、アンティオキア公国という4つの十字軍国家を樹立した西の神聖ローマ帝国、しばらくの間、中東地域は、十字軍国家などのキリスト教徒と、小さい都市群からなるイスラム教徒が共存する状態が続いていたのだが、イスラム教徒が盛り返してきた。十字軍国家の一つであるエデッサ伯国(現在のトルコの地)が1144年にセルジューク朝のザンギーという武将によって滅ぼされたことを受け、教皇エウゲニウス3世(167代教皇1)の頼みでベルナールというフランスの聖職者が各地で呼びかけ、十字軍が結成された。フランス王ルイ7世と神聖ローマ皇帝コンラート3世が、それぞれ国王として初めて十字軍の指導者となり、多くの従軍者が集まったのだが、全体の統制がとれず、イスラーム軍に敗北した。この戦いでザンギー朝は、明確に十字軍と戦う意志を持つようになった。
第三回十字軍 1189年 – 1192年(第二回から41年後)
ザンギー朝は勢力を増し加えていき、分裂していたシリアを統合し、エジプトを支配していたファーティマ朝と紛争を抱えるようになっていた。ザンギー朝の家臣であったサラディン(個人の名はユースフ・イブン・アイユーブ〈アイユーブの息子ユースフの意。ユースフはヨセフの、アイユーブはヨブのアラビア語形。〉アイユーブ朝を創設。)はエジプトとシリア両勢力の軍勢を自身の配下に収めることに成功し、軍事力を拡大していき、現地十字軍国家の主力部隊を壊滅させ(ヒッティーンの戦い)、1187年10月には約90年ぶりにエルサレムを占領、奪還した。
この連絡を受けた教皇グレゴリウス8世(173代教皇1)はエルサレムを再度奪還するため、十字軍の派遣を呼びかけた。イギリスの王リチャード1世(呼称を獅子心王〈ライオン・ハート〉)、フランスの王フィリップ2世(呼称を尊厳王〈オーギュスト〉)、神聖ローマ皇帝(ドイツの王)フリードリヒ1世(呼称を赤髭帝〈バルバロッサ〉)が参加した。ドイツのフリードリヒ1世は1190年にキリキアで川を渡ろうとしたところ落馬し、鎧のために溺死した。残ったフランスの王とイギリスの王は本国で対立していて仲が悪く、ようやくアッカを奪回した後、フランスの王フィリップ2世は本国に引き揚げてしまった。単独で戦うこととなったイギリスの王リチャード1世は聖地回復をすることはできず、サラディンとの間で3年間の休戦協定を結んで、1192年十字軍遠征を終えた。1192年9月にイギリスの王リチャード1世とサラディンの間で結ばれた講和条約は、次の内容であった。
「十字軍はキプロス島や地中海に面した海岸地方を確保するが、エルサレムを含む残りの領土はサラディンの主権を認める。」
「キリスト教徒はサラディンから通行証をもらい、聖地に巡礼し、キリストの墓に祈る。」
サラディンは講和にあたってリチャードをエサレムに招いたが、彼は征服者として入城しようと思っていた町に客としていくことは不本意であったため、結局調印1ヶ月後に、彼は聖墳墓にもサラディンにもまみえることなく、中東を去った。10
第三回十字軍は、聖地奪回はかなわなかったが、平穏に聖地を巡礼することを可能にした(アッカを確保したことでエルサレム巡礼の自由は保障された)。しかしエルサレム陥落とヒッティーンの戦いの後遺症は大きく、以後十字軍国家は守勢に回ることとなった。
第四回十字軍 1202年 – 1204年(第三回から10年後)
教皇の権力にとって敵対する存在だった神聖ローマ皇帝(ドイツの王)フリードリヒ1世が第三回十字軍で事故死したことにより、インノケンティウス3世(176代教皇1)の教皇の権威は最高のものとなった。これを機会とした教皇はヨーロッパを統合させようと、エルサレムをイスラームから奪回することを目的とし、アイユーブ朝の拠点地エジプトを攻略しようと、十字軍の派遣を呼びかけた。それに応えたのはフランドルやシャンパーニュの北フランスの諸侯たちであった。こうして1202年に第四回十字軍の派遣が開始されたのだが、この十字軍は途中で計画を変えた。聖地エルサレム奪還ではなく、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに向かうという驚くべき方向転換を行った。十字軍の指導者たちはヴェネツィアの商人たちと艦隊の輸送の契約をしたのだが、料金を払えない事態となった。十字軍の指導者たちはヴェネツィアから出発する兵士の数を大幅に過大想定してしまっていたことに加え、多くの兵士がベネツィアを経由せず他の港から出発したため、ヴェネチアに集まった十字軍は契約金額をヴェネツィア共和国に対して支払うことができなかったのであった。未払いの代替として、ヴェネツィアのドージェ(元首)エンリコ・ダンドロは、そのころヴェネツィア共和国に対して反乱を起こしていたアドリア海東岸のハンガリー領の都市ザラ(現在のクロアチアのザダル)を攻撃する協力を十字軍に求めた。1202年11月、ザラは事実上ヴェネチアが率いた十字軍に包囲され、略奪された。これにより、ローマ・カトリックの都市がローマ・カトリックの十字軍によって初めて攻撃されるという事態が発生し、教皇インノケンティウス3世が警告していた同じキリスト教徒を攻撃しないようにとの呼びかけを無視する形となった。ザラはその後、ヴェネツィアの支配下に置かれた。この報告を受けた教皇は、一時的に十字軍を破門した。
ザラを攻略したヴェネツィア率いる十字軍は、皇帝から破門を受けたが、ザラを中継地として、更に東地中海の商業覇権を握りたいという商人としての欲があったため、エルサレムの道中にある東ローマのビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル(当時100万の人口をほこり、東西貿易の要として繁栄していた)に向かった。当時のビザンツ帝国は、皇位の継承をめぐりごたついていた。1203年1月、エルサレムに向かう途中で、十字軍の指導者たちはビザンツ帝国の皇太子で当時亡命中であったアレクシオス・アンゲロス(アレクシオス4世)と結び、彼の父で廃位されていたイサキオス2世アンゲロスを皇帝に復位させ、皇帝となったイサキオスがその後、エルサレム遠征に協力するという協約を結んだ。が、イサキオス皇帝復位後に軍資金供出の負担が民衆に重く圧しかかったため反乱にあい、廃位に追い込まれた。アンゲロス4世とイサキオス2世が殺害されると、十字軍はコンスタンティノープルの完全な征服を決断し、1204年4月にコンスタンティノープルを占領し、その膨大な財宝を略奪した。さらに周辺の都市やエーゲ海の島々を占領した十字軍は、コンスタンティノープルを中心にラテン帝国を建設する。この成功を見た教皇インノケンティウス3世は、破門を解いて十字軍を祝福した。
第四回十字軍は、東西教会の分裂を決定的なものにした。1054年にローマ教会とコンスタンティノープル教会は教義上の対立から互いに破門しあい、キリスト教会の東西分裂に至っていたが、それでもまだ交渉は続き、修復の試みがなされていた。しかし、この第四回十字軍がコンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国を建設したことによって両者の対立は修復困難な状態となった。占領時のラテン人による強奪、殺戮、放火などの非人道的残虐行為だけでなく、ラテン帝国によってコンスタンティノープル総主教は廃位され、教会や修道院の財産が没収されるなどの東方教会への弾圧が加えられ、東方教会(ギリシア正教)側のローマ教会への不信は憎悪にまで高まってしまった。この分断により、東ローマ帝国は、その後も勢力を拡大し続けるイスラームのオスマン帝国の侵略に対して脆弱なままとなり、最終的には1453年に滅亡することとなる。
このような中で、第四回十字軍は多数の離脱者を出していた。コンスタンティノープルに向かわず別行動をしていたフランドル艦隊は、エルサレムに向かったのだが、小規模な軍勢であったため、エルサレム侵攻はできずに終わっている。
付随した十字軍
この後、1212年には少年十字軍という運動が起こり、それは悲劇的な失敗に終わっている。神のお告げを聞いたという北フランスの羊飼いの少年が子供達だけの十字軍を呼びかけ始まったもので、たちまち全国に広がり、それを支援する司祭も現れたという。マルセイユの港から7艘の船に乗って、12歳以下の少年少女たちの十字軍が出発した(実際にはかなり多数の大人が加わっていたらしい)のだが、7艘のうち2艘は途中嵐で海に沈んだ。残りの5艘は船主がアレキサンドリアに運び、そこで奴隷に売り飛ばしてしまったという悲劇となった。11
1218年に行われたエルサレムの王ジャン・ド・ブリエンヌ(アッカに拠点を移していた第一回十字軍によって造られた十字軍国家の王)が提唱した十字軍を第五回と数える場合もあるそうだ。エサレムの奪還には、アイユーブ朝の本拠であるエジプトを攻撃することが有効であると考え、ヨーロッパ諸国に呼びかけ、1218年エジプトの要港ダミエッタを攻撃し、それを占領した。しかし、キリスト教側の足並みがそろわず、1221年にはアイユーブ朝軍の反撃を受けダミエッタを奪回され、守兵はすべて捕虜となるという敗北を被った。12
—————-
キリストで表された神の愛と罪の重さを伝える使命を負っているはずのキリスト教徒たち、本質をなくして形式にこだわり、異なる思想の排除に向かい続けると行きつく先はどうなるのか。「わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。」(エゼキエル 34:8)神の名のもとの領土拡大、戦争は、とどまることを知らず、同じような破壊をもたらし、憎悪や傷を残す。旧約時代に、神は、イスラエルを神の民の型として、罪の向かう先と神に立ち返る道を既に示され、それが聖書に記され残され後代に伝えられている。新約に生きる神の民である私たちは、その教訓をしっかり学び、神の栄光を汚すことがないよう、偽りが明らかになるよう、ふるまい伝える必要がある。よい牧者のもとで草をはみ(みことばの栄養を取り)、平安のうちにとどまり、救いの道である主を伝えていこう。
- カトリック中央協議会 歴代教皇一覧 ↩︎
- https://ja.wikipedia.org/wiki/十字軍 ↩︎
- 世界史の窓(十字軍/十字軍運動) ↩︎
- 同上 ↩︎
- 「アラブが見た十字軍」アミン・マアルーフ著 リブリポート発行 p84, p85 ↩︎
- 世界史の窓(十字軍/十字軍運動) ↩︎
- https://ja.wikipedia.org/wiki/ユダヤ人と彼らの嘘について ↩︎
- 同上 ↩︎
- 第四ラテラノ公会議(1215 年)決議文翻訳(藤崎衛監修 条項68) ↩︎
- 世界史の窓(十字軍/十字軍運動) ↩︎
- 世界史の窓(少年十字軍) ↩︎
- 世界史の窓(ジャン=ド=ブリエンヌの十字軍) ↩︎
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