『心を刺し貫く光の剣-自我の分かれ目-』

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聖書個所:ルカの福音書2章21節~40節(新改訳)
『心を刺し貫く光の剣-自我の分かれ目』

 前回は、預言者たちを通じて預言されていた救い主メシアなるキリストが、この世にお生まれになったというすばらしい喜びの出来事を見た。羊飼いたちは手放しで喜び、喜びの訪れを聞いた人々は驚き、母マリヤは思慮深く思いを巡らしていた。続きを見ていこう。

律法に従って

 「八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。」(ルカ 2:21)洗礼者ヨハネの誕生の時に、神がアブラハムと結んだ契約で八日目の割礼は必ず受けなければならない永遠の契約とされていたことを見た(『大きなあわれみの中で-主の愛-』参照)。イエスも律法に従って八日目に割礼が施され、割礼の日に正式に名前が決められた。洗礼者ヨハネと同様、御使いから指示されていた名がつけられた。洗礼者ヨハネは人々に囲まれる中で割礼&命名がなされていたのだが、イエスは静かになされた様子が伺える。「イエス」というのはヘブル語起源のイエスースからの語で、「神(ヤハウェ)は救い主」という意味である。(ちなみにヨハネは「神(ヤハウェ)はいつくしみ深い」という意味であった。)どちらも神がつけた重要な名である。

 「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒 4:12)「神(ヤハウェ)は救い主」という名のイエスのことである。いつくしみ深い(「神は愛である。」(Ⅰヨハネ 4:8、4:16)「愛は情け深い。」(Ⅰコリント 13:4〈口語訳、新共同訳〉新改訳では「親切」となっている)神は、このイエスを通じて全世界へ救いの道を開かれたのである。人類の罪を贖うために神に遣わされ、贖いを成し遂げられたイエス、神は救い主であるということを指し示し、へりくだりの型である赤子という人の形を取ってこの世に人としての模範を示すために顕現された神、この方以外の神々に救いはない。時代を通じて、分裂、分派、異端まで生み出している名であるが、「神(ヤハウェ)はいつくしみ深い」ヨハネの道備えの後に示された救い、この名が示す本質が大切である。

 「さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。――それは、主の律法に『母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない。』と書いてあるとおりであった。――また、主の律法に『山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽。』と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。」(ルカ 2:22-24)「幼子を主にささげるために」というのはイエスだからというわけではなく、「主の律法に…書いているとおり」律法に書かれていることに従った行為であった。律法には、次のように書かれている。「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。」(出エジプト 13:2)「すべて最初に生まれる者を、主のものとしてささげなさい。あなたの家畜から生まれる初子もみな、雄は主のものである。」(出エジプト 13:12)

 次に「モーセの律法による彼らのきよめの期間」であるが、レビ記には、神がモーセに告げられた「汚れ」と「きよめ」についての規定がいくつか書かれている。きよめの期間について守ることは、その中の掟に従っての行動である。レビ 12:2-4には、八日目に割礼を施し、さらに三十三日間(計40日間)きよめの期間を設けることが言われている。女の子だった場合は、割礼はなく、倍の80日間(二週間と六十六日間)の日数を要した(レビ 12:5)。ヨセフとマリヤは、律法の規定に従い、きよめの期間が満ちて、生まれた初子を主にささげるために、エルサレム神殿に行った。

 続く規定には、きよめと贖いのために全焼のいけにえと罪のためのいけにえを捧げることが定めらていた(レビ 12:6-8)(全焼のいけにえについては主題からの学びの「28.供え物(なだめのかおりのいけにえⅠ)」、罪のためのいけにえについては、「30.供え物(罪のためのささげ物Ⅰ)」で、系統的な学びを提供)。

 全焼のいけにえは、神への感謝と献身の心をもって捧げられ、完全に焼かれ、香ばしく立ち上る煙が主へのなだめのかおりとなる火によるささげ物である。罪のためのいけにえは、罪を犯した時に捧げられ、極貧者、祭司、大祭司、つかさ、一般の民などの身分によって捧げものや捧げる行為が異なっているものであった。これらのいけにえについての定めは、生まれながらの罪人であり、贖いを必要とする私たち人間のために定められ、イエスさまが贖いを成し遂げられる前の旧約時代の掟であった。これは、「母親のためのいけにえ」(レビ :12:7参照)であり、出血からのきよめを必要とした規定であった。通常は、一歳の子羊一頭を全焼のいけにえに、家鳩のひなか山鳩を一羽を罪のためのいけにえに捧げるのだが、マリヤは、「『山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽。』と定められたところに従って」(ルカ 2:24)「もし彼女が羊を買う余裕がなければ、」(レビ 12:8)の規定に従っている。イエスの家庭は金銭的な余裕がない家庭であったことが伺える。そのようなところに下った神からの恵み。お産のための宿もなく、割礼の盛大な儀式もなく、貧しい暮らしであっても、必要は満たされていて、特別な神の恵みと守りがそこにあり、神の臨在が見て取れる。イエスが生まれた時には、知らせたわけでもないのに、見知らぬ羊飼いがやって来て喜びつつ神のわざを知らせた。東方からの博士らも遠いところなぜかやってきて、高価な贈り物をしてくれた。そして、向かったエルサレムでは…。聖霊の人シメオンと女預言者アンナと出会うこととなる。

聖霊の人シメオン

 「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。」(ルカ 2:25,26)シメオンは「聞く、耳を傾ける」から派生した意味を持つ名前である(創世記 29:33欄外参照)。こういう聖霊の人がいるのなら、羊飼いよりも真っ先にイエスの誕生を知らせてあげてもよかったのに、と思いもするが、神の御手である。聖霊の人だからと言って、なんでもすべてお見通しのわけではない。聖霊が教えてくださる時に、教えてくださることのみを知る、そのような人の言動は、自分はただ神に教わっただけで知らないことがあることを知っているので高ぶることはなく、神のわざとして他とも一貫した調和が取れているものである。ここで、シメオンやアンナもまた、羊飼いや東方の博士たちのように、イエスの誕生物語の証人の一員として登場している。御使いのお告げを受けてからの約1年間人生が一変し、全部を知っているわけではなかったヨセフやマリヤがこの二人に出会ったことは、後々にも大きな励ましとなったことだろう。このシメオンが、「御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。」(ルカ 2:27)彼が御霊に感じて宮に入った、ちょうどその時、と絶妙な神のタイミングである。霊の感動を覚えた「シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。『主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。』」(ルカ 2:28-32)この聖霊の人は、「主のキリストを見るまでは、決して死なない」(ルカ 2: 26)と告げられ、どれくらいの年月を待ち望んでいたのだろうか。「キリスト」は、ヘブル語のメシアのギリシャ語であり、「油注がれた者、救世主」という意味を持っている。「今こそ、…安らかに去らせてくださる」から見て取れるように、死を前にするような年齢になっていたことだろう。シメオンは、ローマが支配する世の中で、その年齢まで、主が語られた救いの約束、「神に立ち返る信仰の残りの者の存在と、救いをもたらすメシア(救世主)の到来」を信じ続け、神に仕えていた人であった。「御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」(ルカ 2: 31,32)というのは、イザヤが預言の働きの中で、「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。」(イザヤ 49:4)と言った時に、神が告げられた言葉にある。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」(イザヤ 49:6)イザヤは、この救いの訪れを見ることはなかったのだが、シメオンは、「御救いを見た」(ルカ 2:30)と語っている。

 「父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。」(ルカ 2:33)目の前の自分たちの子供が旧約全体を貫いている思想の中心であり、預言者たちが語っていた救いの光だと言われ、啓示を受けて生まれた子供ではあったが、人知を超えたことでありヨセフもマリヤも驚きを隠せなかった。

が、シメオンは、次の続く言葉で、救いがやってきた、ばんざーい、ばんざーいと手放しで喜べないような内容を、マリヤに語っている。「また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。『ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。』」(ルカ 2:34,35)「反対を受けるしるし」「剣があなたの心さえも刺し貫く」しかし、「それは多くの人の心の思いが現われるため」とこれから訪れるだろう苦しみについての目的を語ったのである。羊飼いたちがイエスの誕生を見て、すばらしい喜びの訪れに賛美して帰っていった一方で、一連のことを自己判断せずに思いを巡らせていたマリヤが知りたかった事柄だったろう。ここでシメオンの記述は終わっている。聖書の記述は、ちょうどそこにいた女預言者のアンナに移る。

女預言者アンナ

 「また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。」(ルカ 2:36-38)「ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、」都合がいいような偶然だが、神の御手である。「アンナ」=ハンナは「恵み」を意味する。「アセル族のパヌエルの娘」アッシリア捕囚時に失われた北王国の十部族の一つ、アシェル族の子孫である。「パヌエル」は「神の顔」の意味である。アッシリア捕囚で散らされた十部族の中にも熱心に信仰を守る人々がいたことがわかる。レアの子孫である失われた十部族は、世界中に散っていて、多くは雑婚を繰り返し原住民と同化し現代に至っている。捕囚を経てもユダヤ人としての信仰を守り続けた人たちは、「再び自分たちの家系が12部族にさかのぼるように理想化し、系図を整備し直していた。」(新聖書註解 新約1 いのちのことば社発行 p331)と、系図を引き継ぎユダヤ人として生きている。そのアシェル族の家系のアンナは、七年間の結婚生活後、やもめとなり、宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって、神の言葉を預かる預言者として神に仕えていた。ちょうどヨセフとマリヤが宮に来てシメオンと出会ったところに居合わせた彼女は、待ち望んでいた救い主が来られたことを、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に告げ知らせたのであった。シメオンとアンナという二人の神に仕える証人を置かれ、民に告げ知らせた神。聞いた神のみわざを信じるか、聞いても聞かなかったことにするか、気にもとめず聞き流してしまうか、反対勢力につくか、「多くの人の心の思いが現われる」(ルカ 2:35)こととなる。「おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。」(マタイ 10:26、マルコ 4:22, ルカ12:2も参照)人の思いは深く隠していても、何かの時に現れる。「正しい〈公正な〈真実な〈まっすぐな〈良心的な〉者はいない。ひとりもいない。」(ローマ 3:10〈詳訳聖書-新約-, いのちのことば社発行 p387-388〉)とあるが、贖いと聖めは神によらないと成しえず、贖いの子羊となられたイエスを通してのみある。(旧約の律法では貧しい者は山鳩、家鳩の犠牲であったが、イエスは貧富や身分の差もなくすべての者の贖いの子羊となられている。かえって「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(マタイ 19:24、マルコ 10:25, ルカ 18:25)「金銭を愛することが、あらゆる悪の根」(Ⅰテモテ 6:10)とあり、自分は金持ちだというような金銭への執着を持っていると神の国に入ることはできないとイエスは言われている。)

 「さて、彼らは主の律法による定めをすべて果たしたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰った。幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちて行った。神の恵みがその上にあった。」(ルカ 2:39,40)律法の規定をすべて果たし、ナザレの町に帰ったヨセフとマリヤとイエス。神に守られ、強く知恵に満ちて、他よりちょっと賢い人間の普通の子として(本当は完全に賢い知恵ある神であるのだが)、神の恵みの中で育っていった。

 「イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められて」(ルカ 2:34)この世に来られたイエス。人の心の奥底にあるものが、光に照らし出され浮上してくる。真理の光によって、神の民(イスラエル)の多くの人が倒れる。真理の光に照らされ、立ち上がる人たちもいる。これは定められれていることだと言われている。そして反対を受けるしるしとして定められているともある。反対するのは誰か。神への反逆者サタンに属するものたちだろう。イエスによって起こることで、「剣があなたの心さえも刺し貫く」と言われた。やがて愛する子供を罪人として処刑され失う苦しみを味わうことになるマリヤに対して語られた言葉であるが、そこまでではないとしても、主に従う過程で「剣が心さえも刺し貫く苦しみ」はやってくる。それは、「多くの人の心の思いが現われるため」光の剣(みことば)によってうまく隠されている罪、偽善もが表面に現れ、倒れるか、主に立ち返り立ち上がるか、すべての人をふるい分ける神のわざにつなげるための苦しみである。

 マリヤは、イエスの十字架で完成された贖いで負ったこの苦しみを乗り越えた。そして十字架上の苦しみの中、イエスが言い残していった完全な配慮に感謝しながら、主が愛された弟子ヨハネの下で、生涯を送ったことだろう。「イエスは、母と、彼の愛弟子が近くに立っているのを見て、母に言われた、『〔敬愛する〕女〈のかた〉よ、ごらんなさい、あなたのむすこです』。次いで、イエスはその弟子に、『見なさい、あなたの母である』と言われた。それで、その弟子はその時からマリヤを自分〔の扶養家族として、自分の家〕に引き取った。」(ヨハネ 19:26,27〈詳訳聖書-新約-, いのちのことば社発行 p290〉)イエスには人間としての兄弟と妹たちがいたのだが、イエスは母マリヤを使徒ヨハネに託されたのであった。

 マリヤには血縁もいたのだが(「イエスの『兄弟』」参照)、イエスが自分が去った後のマリヤについて、弟子のヨハネを選んでいかれたのは、単なる思い付きではないだろう。いつも祈っておられ、十字架の贖いの使命を知っておられたイエスは、自分が去った後の母や家族のことも、祈ってこられただろう。

 イエスのみこころを行なっていくと、避けて通れない世の罪との戦いや苦しみがやってくることがある。耐えられないと思えるような苦しみのその中に、あわれみ深い主はいてくださる。そして困ることがないようにといつも配慮してくださっている。そのことを覚えて、キリストから逃げたり目をそらしたりせずに従っていこう。

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