人か神か

「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」(ルカ 20:46,47)

律法学者たちは、神についての専門家であった。
神というお方を見ず、与えられた知識によって、人の上に立っていることを自負していた。
偉そうにふるまうことがステータスとなっていた。
皆にうやうやしく接されることが好きであった。
祈りについても、人にすごいと思われたくて、人前で長い祈りをしていた。
イエスは、こういう人たちは人一倍きびいしい罰を受けるのだと言われた。
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神について、教えるということは、高ぶりに陥りやすいものである。
神ご自身から目を離し、自分が主体となってしまうと、上述のような状態になってしまい、誤った神観を伝えてしまう。
「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ 3:1) 
神について教えるということは、身を引き締め、自分を吟味しつつ、なさなければならない働きである。
神は愛である。愛のない教えは神からのものではない。
そのような教えについていかないこともまた、大切なことである。

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