消えたい思い

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ 11:28)

救いを求めて神のもとに来たはずなのに、クリスチャンになってうつ病になるという現象をみることがある。心療内科や病院に行ったなら、「宗教をやめれば治るんだけどね」と言われたことがあると聞いたこともある。なぜ、神の愛を説くキリスト教会でそのようなことが起こるのだろうか。

消えたいという思いはどこからきたか?
自分のいる場所から存在を消したい、消えてしまいたい、居場所がない、そういう様々な思いがあり、なぜそういう思いになったかは、人それぞれで、掘り下げて耳を傾けなければ本質はわからない。
いずれにしても、消えたいということは、その人にとって「その場からいなくなりたい」と思ってしまう要因が何かしらあるのだろう。
教会を訪れる人は、生まれ育った環境、その人固有の性質、社会で関わった人たち、そういった要因によって培われてきたものを抱えて、主のもとにくるわけである。
それらは、クリスチャンになったからといって、変わるわけではない。キリストを知って、「生まれ育った環境、その人固有の性質、社会で関わった人たち・・・」も主の計画があったことを知って、有益なものに変えられるのが理想である。
「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語り続けてくださっている主の愛を知って、消えたい思いはなくなっていく。
ところが、互いの間に神の愛があるはずの主の集いの中で、福音は正しくても、偏見や疑いがあるとしたら、人前ではいくら言葉にしてなくとも、目は口ほどに物をいうというように、思いは伝わってしまうことだろう。
そうならないためにも、主の教会には、偽りのない交わり、キリストの愛を中心にしたコミュニケーションが必要だ。
あなたを知りたいと思うことなしにキリストの愛の実践はない。言葉での確認、互いのコミュニケーションは大切である。

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否定的な思いは時に苦しみを招くが、それが自己防衛本能からくる思いだと気付いたならば、本能を与えてくださり、気付かせてくださった神に感謝しよう。気付きから、見えてくるものがある。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ 11:28) と言われたキリストは、私たちに安息を与え、平安と喜びで満たしてくださるお方である。あなたの仕えているキリストはどのキリストだろうか? 人の姿をとってこの世に来られるほどに私たちを愛してくださっているキリストか? 奴隷のように支配するキリストか? 聖書の神を正しく知っていこう。

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