教会時代の始まり~律法から恵みへ

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 前回、「初期の教会~聖霊とともに」では、ローマ帝国がユダヤを含む世界を治め、ユダヤ戦争でエルサレムが崩壊する頃の歴史の中で、使徒たちが主イエスの教えに従って、福音を宣べ伝えていったところを、ユダヤを取り巻く情勢とともに見た。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒 1:7,8)とイエスに告げられたように、聖霊を受けた使徒や弟子たちは神の国を建て上げるために、聖霊の導かれるままユダヤ人たちからの迫害をかわしつつ、神の教えによる一致を守り治めていった結果、教会が各地にできていった。
 前回は、エルサレム崩壊までの歴史の動きを見たのだが、今回は、ローマが台頭する歴史の中で、神の計画がどのようになされていき、教会が形成されていったかを見てみよう。

【世界の歴史の中で】    年表 p3~p5 参照

 紀元前538年頃にバビロンが滅び、ペルシャの統治に移ったことにより、ユダヤ人たちは、70年間のバビロン捕囚から解放されエルサレムに帰還し、神殿を再建した。その後(約60年後)の紀元前479年頃、ギリシャ連合軍(その頃、アテネ、スパルタなどのポリスと呼ばれる都市国家ができていた)がペルシャを打ち負かした。その後、ポリス間で争いが続き、社会が崩壊していったところ、マケドニアがギリシャを支配し、大帝国へ成長していった(ペルシャに勝利した約140年後の紀元前338年、アレクサンドロス大王の統治へ)。アレクサンドロス大王が32歳という若さで病死した後、マケドニアは弱体化し、紀元前272年(マケドニアの支配から約65年後)にイタリアを統一した共和制ローマが地中海周辺で力を持ち始めた。(共和制ローマがイタリアを統一してから約210年後の)紀元前60年、ローマは内乱を治めたカエサルを含む3人の実力者による三頭政治となったのだが、そこにエジプトのクレオパトラも絡んできてカエサルが内乱を起こし独裁となり、三頭政治は崩れていった。カエサル暗殺後(三頭政治になって16年後の紀元前44年)、後継者となったオクタウィアヌスによって、紀元前27年(カエサル暗殺から17年後)にローマは帝政となった。

 さて、前回見たように、イスラエルの指導者たちは、ローマ支配の下、70年のエルサレム陥落まで、属州としてローマに取り入りながらも、捕囚以降確立したユダヤ教の厳しいルールに基づき、民を支配していた。ローマの圧迫の中、ローマに媚びるユダヤの指導者たちの下、本来の目的の律法とかけ離れた教えに苦しむ民、そのような時に、主イエスは赤子の姿でこの世に来られた。初代ローマ皇帝のアウグストゥス(オクタウィアヌスに与えられた尊厳者という称号)が実権を握って25年以上が経った頃であった。そして、主イエスは30歳の時に宣教を始められ、3年半の公生涯を終え、次のティベリウス帝の時代(15年経った頃)に主イエスは十字架にかかられた。その後のティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロの時代の中で、使徒たちは迫害を受けながらも福音を宣べ伝え、ネロの厳しい迫害により、ペテロやパウロは殉教した(67年頃)。その生涯をかけた宣教は、2000年経っても今日までに続く実となって残っている。

【激動するローマと拡大していく教会】

 ネロの後、四皇帝時代、フラウィウス朝、ネルウァ=アントニヌス朝、五皇帝時代、セウェルス朝、軍人皇帝時代、テトラルキア時代と内戦や動乱で移り変わり、次のコンスタンティヌス朝の創始者であるコンスタンティヌス帝(306年即位)の時に、キリスト教徒が増大していたため、コンスタンティヌス1世は313年にミラノ勅令を発布し、キリスト教を公認するに至った。

 このような激動するローマ支配下の中で、ユダヤから出た教会はどのように前進していったか。
 教会ができてくることは、「また私はあなたに告げる、あなたはペテロ〔ペトロス(男性名詞)大岩石〕である。この岩〔ペトラ(女性名詞)ジブラルタルのような巨岩〕の上に、私は私の教会(単数)を建てる。ハデスの門〈地獄の権力〉は、それに打ち勝つことはない〈それに害を及ぼすほどに強くなく、対抗しえない〉。」(マタイ 16:18〈詳訳〉)と主イエスが語られた神の計画であった。

キリストが天に上げられ、祈っていた弟子たちに聖霊が下り、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ 16:15)と言われたキリストに従って、弟子たちは、主に任命された使徒たちを中心とし、聖霊とともに働き、神の国の福音を宣べ伝えた。パウロは、異邦人宣教として召し出され、苦難とともにローマへの宣教の道を歩んだ。使徒の働きには、初代教会の成り立ちから福音が異邦人社会へ広がっていった様子が描かれている。

【世界の教会への序章(パウロの回心)】

 主イエスの死後、エルサレムに集まって祈っていた弟子たちによって、十二使徒たちを中心に教会が形成されていった。ユダヤ会堂で教えているしきたり化した教えとは異なり、神の愛を説く内容に、祭司長、律法学者といった指導者層は、指導者としての地位の危うさからキリストに従う者たちを徹底的に排除しようとした。回心前のサウロ(パウロ)は、熱心なパリサイ人であり(「私は、私たちの宗教の最も厳格な派に従って、パリサイ人として生活してまいりました。」(使徒 26:5))、エルサレムの教会の大迫害の発端となったステパノの殺害にも賛成し、上着の番をしていた人物であった(使徒 7:58)。ステパノ殺害後、パウロは、こういう危険な思想を持つ者は徹底的に排除しなければという具合に、「教会を荒らし、家々にはいって、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。」(使徒 8:3)。それだけでは収まらず、「サウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、ダマスコ(エルサレムから北に230Kmほどの町)の諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。」(使徒 9,1,2〈口語訳〉)自身の信じた道を使命だと思って熱心に突き進む、それが若者サウロが持つ性質であった。そのような思いを持ちつつ、勇んでダマスコに向かう道中で、ダマスコに近づいた時に、主イエス自らが強く介入されたのであった。

 パリサイ人として律法に熱心だったあまりにキリスト信者を迫害していたサウロに、天からの光とともに「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」(使徒 9:4)とキリスト自身が現われた。危険思想だと思い込んでキリスト信者たちの命まで狙い、除こうとしていた自分こそが真の神を迫害していたのであることを、神の光に照らされたことによってサウロは悟ることになる。そして、自ら行ってきた行為の代償を受けつつ訓練されながら、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前にキリストを宣べ伝える器に変えられていくこととなる。

 天からの光で、目が見えなくなったサウロは、人々に手を引かれながら目的地だったダマスコに行き、三日の間、目が見えず、また飲み食いもしないで過ごした(使徒 9:8,9)。ダマスコには、アナニヤというキリストの弟子がいて、主に幻の中でサウロのもとに行くように語られ、「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」(使徒 9:13,14)と恐れて告げたのだが、「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」(使徒 9:15,16)と主に諭され、サウロのところに行くこととなった。「そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。『兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。』するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。」(使徒 9:17-20)ダマスコでは、回心しキリストを伝えるようになったサウロをユダヤ人たちは殺そうとするのだが、それを知った弟子たちの助けで、サウロはエルサレムに行き、「弟子たちの仲間にはいろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。」(使徒 9:26)

 エルサレムでは、バルナバのお世話によって、サウロはエルサレム教会に自由に出入りできるようになり、主の御名によって大胆に語った。そして、ギリシャ語を使うユダヤ人と語ったり論じたりしていたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた(使徒 9:28,29)。そのため、兄弟たちは、パウロをタルソ(アンテオケの北西の町)へ送り出した。「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方にわたって平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増して行った。」(使徒 9:31)

【迫害を受けても前進していく教会】

 ステパノ殺害から起こった大迫害によって、散らされた信者たちは、みことばを宣べながら巡り歩き、あちこちへ移っていった。そして、アンテオケでは信者が多くなっていったので、エルサレム教会は、バルナバをアンテオケに派遣した(使徒 11:22)「バルナバは(故郷タルソに帰っていた)サウロを捜しにタルソへ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」(使徒 11:25,26)。サウロが教会に復帰した後、アンティオケの教会はサウロ(第一次伝道旅行に出かける使徒 13:9「サウロ、別名でパウロ」とあり、その後パウロと書かれるようになった)とバルナバを中心にさらに発展する。ペトロを中心にしたエルサレムの教会と交流しながら、教会は一致しつつ大きく成長していく。

 宣教を開始したパウロは、当初、ユダヤ人対象にユダヤ人会堂で語っていたのだが、ユダヤ人たちは執拗にパウロたちを迫害し、パウロは石打ちで死にかけたり(使徒 14:19)、牢に入れられたりした(使徒 21:33)。パウロはユダヤ人からの執拗な迫害に対し、平気であったわけではない。ある時のユダヤ人たちの反抗と暴言に対し、「パウロは着物を振り払って、『あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く。』」(使徒 18:6)と言って、異邦人伝道に向かったのだが、この後の「ある夜、主は幻によってパウロに、『恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。』と言われた。」(使徒 18:9,10)ローマに送られる前にエルサレムで捕らえられ、議会に立たせられ、騒ぎが大きくなった夜には、主ご自身がそばに立たれて語りかけておられる。「その夜、主がパウロのそばに立って、『勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。』と言われた。」(使徒 23:11)パウロもまた、人を恐れ、主によって励まされ強められ、主に従っていったことがわかる個所である。

【ローマへの道】

 ローマ市民権を持つパウロには、特別な使命があった。パウロは、御霊の示しにより、「ローマに行かなければならない」という強い思いを持っていた。「パウロは御霊の示しにより、マケドニヤとアカヤを通ったあとでエルサレムに行くことにした。そして、『私はそこに行ってから、ローマも見なければならない。』と言った。」(使徒19:21)。第三次伝道旅行でのことであるが、エルサレムに向かうパウロが、カイアザリヤに滞在中、「エルサレムでユダヤ人たちに捕らえられて、縛られて異邦人の手に渡される。」という預言を受け、周囲の者はエルサレムに行かないよう懇願したのだが、パウロは「私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。」(使徒21:13)と固い決意のもと、エルサレムに上った。そして、そこでユダヤ人たちによって、宮で騒動を起こされ、ローマの千人隊長が兵士たちを引き連れてやってきて、パウロは捕らえられた。が、パウロは主の道をあかしし、「彼を除け」と叫ぶ大勢のユダヤ人たちから守るため(使徒21:36)、兵隊たちがパウロを守る事態になった。ユダヤ人に告訴されたパウロは、カイザル(CAESARはアウグストゥスからネロ、その後も幾人かの皇帝の称号として皇帝の名につけられている)に会うために上訴し、裁判のためにローマに送られた。裁判を待つ囚人としてであったが、「パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許された。」(使徒28:16)そして、「パウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」(使徒28:30,31)この2年間で、パウロは、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙等を書いている。ピリピ人への手紙には、カイザルの家に属する者たちが信仰を持ったことが書かれている(「聖徒たち全員が、そして特に、カイザルの家に属する人々が、よろしくと言っています。」(ピリピ 4:22))。パウロは、その後の67年ごろに殉教するのだが、その前に釈放されたのか、短い期間ではあるが、ギリシャ、小アジアに帰ったようで、この期間にテモテへの手紙やテトスへの手紙を書いたと言われている。

 ローマが当時の世界の中心となっていく頃に、主イエスが来られ、弟子たちを作り、使徒たちの手によってあちこちに教会ができていった。パウロが囚人としてではあったが、ローマに腰を据えて伝道したところから、ローマが教会の中心となり、ローマ教会の指導者である教皇(初代教皇はペテロとされた)に権威が置かれ、392年にテオドシウス1世がキリスト教をローマの国教とし、現在のバチカン(この場所で聖ペトロが殉教したという伝承あり、326年にコンスタンティヌス1世によって聖ペトロの墓所とされ、教会が建てられた(サン・ピエトロ大聖堂)。1929年のバチカン市国の建国につながっているのである。(起きた出来事は、よいことだけではないが、廃れることなく、今日まで続いている。)世界の歴史は、神の計画によって動いている。旧約の律法時代から新約の恵みの時代に移るとともに、エルサレム神殿は破壊され、ローマにキリスト教会の中心となっていった教会ができ、約2000年の時が流れた。キリストの再臨の時、歴史はどう動き、神の計画がなされるのだろうか。

 パウロは、「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、『私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。』」(使徒 14:22)と言っている。教会の基礎を築いた使徒たちは、主に従うことの喜びの中、多くの苦しみを経て、凱旋していき、今日の教会まで続く実を残していった。
 「多くの苦しみを経なければならない。」とあるが、これも律法的な命令ではない。恵みの教えであることを忘れてはならない。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ 5:10-12)「天においてあなたがたの報いは大きいのだから。」ということを知るならば(キリストと一体化するほどに信仰が成長するなら)、この世の死も喜びになるようだ。無理に喜ぶのではなく、苦しみもキリストに正直に打ち明けて、一歩一歩歩んでいくことである。「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント 10:13)

 殉教した使徒たちは、天を見上げ、この世を去った。

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下記は、情報を整理しまとめたものである。☆は言い伝え(参考のため)

★ ペテロ(使徒):
 67年、皇帝ネロのキリスト教迫害下で、ペテロは信者たちの勧めでローマを脱出しようとした。そのとき、十字架を背負ったイエスに出会ったという。ペテロが「主よ、どこに行かれるのですか」と尋ねると、主イエスは「わたしは、ふたたび十字架につけられるためにローマに行くところだ」と答えられそうである。ペトロは、それを聞いて、ローマにすぐに引き返し、進んで十字架に逆さまにつけられて殉教した、と伝えられている。

★ アンデレ(使徒、ペテロの弟):
 エチオピアに伝道し、ギリシアのニカイヤでX字型の十字架で処刑されたと言われている。

★ ゼベダイの子ヤコブ(使徒、ヨハネの兄弟、大ヤコブ):
 使徒の最初の殉教者。「そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」(使徒 12:1,2)

★ ヨハネ(使徒):
 使徒たちの中で唯一殉教しなかったとされる。イエスの母のマリアを連れエペソに移り住んだヨハネは、ローマの迫害下では、煮え立った油の大釜の中で殉教するところだったが、奇蹟的に命が助かった。その後ヨハネは、監獄の島パトモス島の炭鉱に島流しになり幽閉され、そこで黙示録を記した。釈放されてエペソに戻り、そこで生涯を閉じた。

☆ ピリポ(使徒):
 ギリシャ、小アジア、ウクライナ、そしてトルコで宣教し、異教徒に捕らえられ殉教したと伝えられている。

★ バルトロマイ(使徒、ナタナエル):
 ピリポと共にアジア、東方のインドに行き宣教した。アルメニアで宣教していたときに捕らえられ、皮剥ぎの刑を受け殉教した。

★ トマス(使徒):
 インドに宣教し、異教の人々に槍で突かれて殉教した。

★ マタイ(使徒):
 「マタイによる福音書」の著者。エジプトで国王の恋を邪魔したことで憎まれ、刺客によって暗殺され殉教したと言われている。

☆ アルパヨの子ヤコブ(使徒、小ヤコブ):
 ペルシャで殉教したという伝説が残っている。

☆ タダイ (使徒、ユダ):
 ペテロと共に福音を広め、ペルシャで斧によって殺害され、殉教したと伝えられている。

☆ 熱心党員シモン(使徒):
 エジプトで伝道した後、タダイと共に、ペルシャとアルメニアに渡り布教活動し、ペルシャで鋸で引かれて殉教したと伝えられている。

★ マッテヤ(使徒、イスカリオテ・ユダの代わり):
 石打ちにされ、そのあと首を切られた。

★ パウロ:
 67年、皇帝ネロによって、拷問のあと斬首。

☆ バルナバ(キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフ):
 パウロと別れた後、キプロス島で宣教し、そこで殉教した。キプロス教会の最初の創立者。

★ ステパノ(恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行なっていた弟子):
 宣教中、リベルテン(紀元前63年にローマのポンペイウス将軍がユダヤを征服したときにローマに連行され奴隷として売られた人々で、そのうちあるものは解放されて自国に帰り、エルサレムで自分たちの会堂をつくった、自由民のシナゴーグ)の会堂に属する人々の手にかかり、偽証されて訴えられ、神を冒涜する者として石打ちの刑を受けたキリスト教会最初の殉教者(使徒 6:8-7:60)

★ イエスの弟ヤコブ(正式には使徒ではない):
 ペテロの後継指導者としてでエルサレム教会の初代司教となった。「ヤコブの手紙」著者。
パリサイ人から反感を受け、エルサレム神殿の南東の小尖塔から突き落とされ、こん棒でたたかれて殉教したといわれている。

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 使徒たちは、主イエスに倣う者として、天に凱旋していった。私たちは、死に至るまで忠実に従った使徒たちの働きで建てられた教会の恩恵を受けて、キリストの後に続くものとして、愛の内に生かされていることを忘れてはならない。

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