「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。」(へブル5:2)
小さい時に親から離され育った人が、ある日イエスの愛を知り、神を信じた。
育つ過程で、危険な道はなるべく避け、自分で自分を守り、危険を感じ取ると逃げることが身についていた。
主を信じ、語られた道を歩んでいても、行き詰まると、間違いであったかと思えてきて、逃げることがしばしであった。
そうしているうちに、主の愛が見えなくなってしまった。
ある日、主に向かって静まっていると、ふと主の臨在が伝わってきて、そのまま丸ごと委ねて歩めばよいということが理解でき、計り知れない主の愛に立ち返ったのであった。
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主がいつも私の手を取ってくださっていた。私の弱さがそのことを信じきれずに、完全なみこころから外れる道を選んでしまっていた。
私が救われる以前から持っていた問題、自分ではどうしようもなく、逃げ出すしか逃れる道はなかった問題、私の基本的な人格を形成した中での弱さを、主はご存知であった。
主は限界まで耐えてもどうしようもなくなったとき、逃げるという私が持っていた防御規制を知っておられ、長年かけて取り扱って下さった。ハレルヤ!
その防御規制は私が親との関わりの中で、身につけていたもの。
その中で受けた不必要な部分を手放せるように、長年かけて、私を扱い、作り変えて下さった。
主のことばでみこころを聞いた時に、妨げとなっていたものを無理に取り去るのではなく、手放せるまで、私を扱い、無理にではなく、自然に手放せるまで導いて下さった。
なんという愛だろうか。
主がともにいてくださるから、主に委ね、明日も安らかでいられる!
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